正式にお嬢様の後継となり、そして旅立つことを決めたちいさいおじょうさまは、インテレオンもハッとするくらい、凛々しい表情をまとうようになりました。旅に出る準備を、一人でも着々と進めるのです。それには、旅の情報の下調べはもちろん、お屋敷の片付けも含まれています。
 お屋敷から、ちいさいおじょうさまという最後の人間がしばらくいなくなるのです。相応の準備が必要でした。インテレオンがいるので泥棒の心配はありません。ですが、インテレオンがどれだけ賢くとも人間じゃないと管理できないものがあります。それらをおじょうさまはひとつずつ片付けていくのでした。

 ちいさいおじょうさまとの別れが近づいていました。そうです、ちいさいおじょうさまは、旅立ちと同時にインテレオンとの別れを決めていました。もうインテレオンにも、一緒に旅をしないことをはっきり伝えています。

「確かにインテレオンは強いから、一緒に来てくれたら安心だけど……。インテレオンにはあの方がいるでしょ? わたしはわたしの経験を、自分に書き込まないと」

 それがちいさいおじょうさまの言い分でした。

 孤独が迫るにつれ、インテレオンはますます物思いに耽るようになりました。
 逞しく前へと進もうとする、ちいさいおじょうさまの姿を見るインテレオンには、いくつもの大きな感情が同時に押し寄せていました。




 朝一番。今日もインテレオンはモノクルを磨きます。お嬢様がインテレオンのために職人に作らせた、専用のモノクルです。
 指先から少量の水を出し、優しく優しく磨きます。インテレオンの左目が霞み始めたことに気づいたお嬢様が、モノクルを作る職人を探し始めてくれたのですが、その時に言っていたことを、インテレオンは思い出しました。

『あなたはまだまだ長いこと生きるのに、目が悪かったら苦労するわ』

 自分はまだまだ生きる、長いこと生き続ける。お嬢様がいなくなっても、ずっと。インテレオンの生命が続いていくとわかっていたから、お嬢様はこのモノクルをくれたのです。

 庭の木々、花々が水滴で輝いていました。インテレオンが今朝も晴天を感じ取り、水撒きをしたからです。その庭を目に焼き付けながら、おじょうさまは再度、ブーツの紐を確認しました。靴紐はしっかりと結ばれています。今日は旅立ちの日です。肩にかかる荷物は少し重たいですが、すぐにおじょうさまの体に馴染むことでしょう。

「きっとここは、ポケモンたちのいい住処になるね」

 ちいさいおじょうさまが言いました。インテレオンも同意です。
 ちいさいおじょうさまが旅に出るのですから、食事の用意など家のことを手伝ってくれた夫人も、今日で役目を終えます。人間が来ることは、もうほとんどないでしょう。
 これから人間の住処としては朽ちていくお屋敷、けれどポケモンたちのゆりかごとして花開いていくであろうお屋敷を、おじょうさまは見上げます。そんな彼女のことをインテレオンはずっと、ちいさいおじょうさまと呼んで来ました。けれどお屋敷の入り口に立つ彼女は、もう成人し、ジムチャレンジにも行ける年齢になっていました。

「わたしは平気。心配しないでね。ここにインテレオンがいてくれるなら、わたしは安心してどこまでも行けるなって思う」

 インテレオンは、ぎこちなく頷きました。

「それに、わたしの中にあの方のことも、インテレオンのこともいっぱい書き込まれてる」

 そうなのです。おじょうさまに宿るのは、何もお嬢様ばかりではありません。何もわからない頃から一緒に暮らしたインテレオンとお嬢様。双方に憧れて学んできたことが、ちいさいおじょうさまの中でひとつになっているのです。
 お嬢様とインテレオンは2度と会えません。けれど、インテレオンは気づかされました。インテレオンの中にも、お嬢様はいます。ちいさいおじょうさまの中にお嬢様を見つけられたように、インテレオンの中にもいるのです。
 確かめる方法だってあります。自分の気持ちさえわからなかったメッソンに、お嬢様が書き込んでくれた筆跡があります。それがここにいるよ、と言うように、じくじくと痛むのです。

 進化してからというもの、インテレオンは涙を流していません。泣きたくとも泣かずにいられるよう精神的な成長のおかげもありますが、何より全ての進化を遂げた今の体には、涙という機能は大きく残っていないからです。でもインテレオンは今、自分の中にあの日のメッソンを見つけていました。この大きな感情の渦は、涙でないと上手く表すことができません。インテレオンは、今日ばかりは泣きたい気分です。泣きたいと願ったことは今日が初めてかもしれません。

「愛し合っているあなたたちの元で育ててくれてありがとう」

 ポケモンと人間でも、恋して、愛し合うことがある。ふたりが終ぞ、たどり着くことのなかった答えがそれでした。
 姿も生き方も違いすぎるふたつでも、恋に落ちたりする。そんなこと、お堅いお嬢様の両親や家庭教師が教えるはずもありません。お嬢様が知らないことを、インテレオンが知ることもありませんでした。

 けれど、白紙の状態からふたりを見てきたちいさいおじょうさまにとって、ふたりが愛し合っていることはごく当たり前のことでした。
 当たり前すぎて、ふたりがその絆の名前を知らずにいることにも気づけなかったくらいです。

 もしかしたら、あと少しだけ、ちいさいおじょうさまが早く成長できていれば、その答えはお嬢様が生きているうちに届けられたのかもしれません。ふたりはポケモンと人間でも愛し合ってる。お互いそれに気付かずに寄り添っている。間に合わなかったことは、ちいさいおじょうさまにとっても大きな後悔です。
 けれど、インテレオンとお嬢様を、誰よりも近くから見ていたちいさいおじょうさまに、愛し合っていたことを認められる。それはインテレオンにとってどれだけ幸せなことでしょう。ただただ大きな感情に名を付けることもできずに別れてしまった魂に、ようやく答えがもたらされたのです。ふたりの間で育った、ちいさいおじょうさまの手によって。

「それじゃあ、そろそろ行くね」

 最後に、ちいさいおじょうさまはインテレオンをまた見つめました。
 ちいさいおじょうさまは、お嬢様のことが今でも大好きです。ほとんど完璧だったお嬢様です。大好きな部分はいっぱいあります。ですが、おじょうさまが一番愛しく思うのは、インテレオンのためについては、いくつかの間違いを犯したところです。
 インテレオンを想うがゆえに、大きな感情に飲み込まれていたのはあの人には見えていなかったようですが、お嬢様のことばかりを書き込まれたインテレオンは、もう永遠にお嬢様のものなのです。

「インテレオン、元気でね」

 そう言い残し、ちいさいおじょうさまは旅立ちました。







 屋敷は今以上に、しん、と静かです。物を整理したせいもあって、今まで以上にがらんとしています。けれど暖炉の上を見ると、写真が飾ってあります。
 一枚は、ちいさいおじょうさまにお願いして、アルバムから写真を引き抜いて、飾ってもらったものです。セピア色の写真の中では、まだ何者でもなかったお嬢様が笑い、同じく何者になりたいかも知らなかったメッソンが泣いています。
 もう一枚はつい最近のインテレオンとおじょうさまが二人で笑っています。周りにはインテレオンを慕って近づいて来たポケモンたちも映っています。

 寂しさと連れ添いながら、インテレオンは大好きな紅茶を入れ直しました。香りが引き連れて来るのは思い出です。
 お嬢様が連れて行ってしまった思い出、それからちいさいおじょうさまがいつかまた話してくれるだろう思い出。そしてもちろん、インテレオンの中で永遠に輝く思い出が、代わる代わるティーカップの中で揺れます。

 インテレオンは、孤独で自由の身になったらお嬢様のお骨を撒いた海へ行こうかと、一度だけ、考えました。けれどインテレオンにはもう、わかっていました。海に行っても、お嬢様はいないのです。
 お嬢様とインテレオンは2度と会えません。けれど、インテレオンの中にお嬢様はいます。自分の気持ちさえわからなかったメッソンに、お嬢様が書き込んでくれた筆跡が、ここにいるよ言うように、今日もじくじくと痛みます。
 痛みをこらえながらインテレオンが想い、願うのは、ちいさいおじょうさまが持っていた心のように、どうかお嬢様の中にも自分が書き込まれていますように、ということです。

 ふと気づけば、窓辺にアオガラスが現れています。よく見ると、アオガラスの横にはココガラがいます。二匹の目がインテレオンを縋るような目で見て来ます。きっとまた何か困ったことが起きたのでしょう。

 インテレオンは今まで頼られれば、ポケモンたちを助けて来ました。それはお嬢様のいない寂しさを埋めるためでした。けれど今のインテレオンは違います。
 何者でもなかった自分に、様々な知識と経験と心を書き加えてくれたお嬢様。お嬢様と一緒に探し、作り上げた自分で居続けることで、インテレオンは自分の中にお嬢様を見つけるのです。インテレオンは、思います。これからもお嬢様と共に存在し続けたい。
 インテレオンは紅茶を置いて立ち上がりました。