There's no reason


ここにたどり着いたツワブキダイゴは息を切らしていた。いつもスマートな彼の、肩を上下させてる姿を見るのはチャンピオン戦以来だ。彼の、ゴクリという喉仏が上下する音が聞こえた。少しおののきの色がある目でこっちを見ている。泣いてるのは最早、知られてしまったらしい。

ツワブキダイゴに泣いてるとこなんて絶対に見られたくない!……と思っても、涙腺は無情に知らん顔をしてくれた。涙は相変わらず止まらない。自分が張りつめていたのは薄々感づいていたけれど、こんなに泣いてしまうほどだったんだろうか。


「わ、わたしに何か用?」
「いや、たださんがここにいるって聞いて……。何かあったの?」


ツワブキダイゴにはスルーしてくれることを望んだのに、それは叶わなかった。


「何でもないよ?」


説得力のない言葉をツワブキダイゴが了承するはずなかった。それどころか、柳眉を歪めた深刻な表情でわたしを伺って、近づいてくる。


「あんまり、こっち来ないでくれる? できればそっとしておいてくれると嬉しいな。話があるなら後で聞くからさ……」


わずかに残された冷静な思考で、わたしは必死に無難な言葉を探し出す。
部屋になだれ込んでくる暮れかかりの光は、気を緩ませるようなオレンジなのに、ツワブキダイゴのそれはキリキリと張りつめている。その対照的な色で照らされると、ますます崖の方へ追いつめられるような心地がした。自分がまた一歩、足場のない場所に近づいた気がして、目の下にて、しずくがみるみる膨らんだ。


「近寄らないで」


今、わたしをますます泣かせているのが自分だって気づいてよ、ツワブキダイゴ。
ほかの女の子はどうかわからないけど、わたしは君に見入られたって嬉しくないんだから。


「見ないでよ」


写真立てで顔を隠す。きっと今のわたしはひどい顔だろうし。
顔は隠せたけれど、逆に袖を子供のように汚しているところまで見られてしまった。


「よかったら、放っておいて。ね?」


鼻声ながらわたしは拒絶を突きつける。
涙は止まらないし、顔も服の袖もひどい状態だし、言葉を探すのも辛いんだから、わたしはもう彼の退室を願うしかない。

それでも彼はわたしとの距離をぎりぎりまで詰め、自分のハンカチを差し出してくる。受け取ろうとしないわたしの指に、彼はさらにハンカチを触れさせた。これでもつかってよ、とささやく仕草だ。
それでも受け取らないで泣き続けるわたしにじれったくなったんだろう、彼は強引な手段に打って出た。

ずっと保っていてくれた、知り合いとして最低限のラインを踏み越え、一気に距離を近づいてくる。わたしが顔に張り付けていた写真立ては強固な力で引きはがされた。その力と反比例させたような優しい手つきでハンカチが頬に顎に目の下に押しつけられた。
ぺたぺたと、何度も涙にハンカチをあててくる。腕や手で涙を隠そうとしてもツワブキダイゴはその度に強引な力でわたしの防御をはがした。次々こぼれる一粒ごとが丁寧に拭われる。ハンカチの当て方がもう、頬の肌を傷つけまいとしていて、愛のこもるそれは完全に母親が子供にする対処だった。


「お願いだから、や、やめてよ……」


やだやだ、わたし子供扱いされてる。情けない。
そう思うとますますわたしは平静を失う。

わたしが抵抗すれば彼は我慢強くそれを押さえにかかった。動き合うのと同時に、彼のつけてるスッとした表情の香水が香ってきて、それがまた涙を誘うのだった。


さん、座ろう」
「ほっといてって言ってるじゃない……!」
「落ち着いて、ほら深呼吸。そしたら涙なんてすぐ止まるから。ね?」


ツワブキダイゴの体重に上から押されれば敵うわけがない。二人一緒に崩れるようにその場へ座り込む。彼は長い足を折りながら、わたしは内ふとももをぺったりつけながら、ちょっとほこりっぽい床に着地した。
彼の仕立ての良いスーツにほこりがついちゃうな、と横道を行く思考で思ったけれど、ツワブキダイゴはそんな事に気づきもしない。わたしの涙をハンカチで受け止めることに専念している。彼の真剣な表情が目前にあった。


「どう、して君が来るのよっ」


抵抗のつもりで顔を背けると、わたしの肩を捕まえていた手が首の後ろにまわった。そのまま大きな手のひらで首を固定されるともうわたしは目の背けようがなくなる。


「ほんと、僕が見つけられてよかったよ……」


はあー……、という結構長いため息がわたしの鼻の上をかすめていった。
いつの間にこんな顔を寄せ会ってたんだろう。まさか息のかかる距離だなんて。脳内で黄色信号が点滅した。


「もう、いいっ。自分で拭く!」


彼のハンカチを奪って、体を丸めた。追随の手は無く、ようやくわたしは自分の顔面を彼の視線から保護することができた。


「もうちょっとで止まるから待って」
「焦らなくていいよ。さんはかわいい泣き方するね」
「やっぱり退室をオススメじまず……」
「そんなこと言わないで、ここに居させてよ」


余裕の言葉を返し、ツワブキダイゴはわたしの隣に座りなおした。わたしに向き合うのを止めたその代わりに、そっと、肩だけを触れあわせてきた。


「大丈夫だよ……」


触れあう部分からじんわりと伝わってくる生き物の熱。擦り寄ってくる肩はここに居るよ、とも、ここに居たいよ、とも言うようだった。














不思議だ。わたしとツワブキダイゴは人間同士で、平熱とかきっと大して変わらないはず。なのにどうしてこんなに温かいんだろう。じわじわと広がっていく熱。触れてる部分はさらに熱くなっていく。
さんざんな涙で濡れた服が乾いていく。それと同時に逃げていく熱はツワブキダイゴが肩を通して補ってくれている。
一昨年から愛用している遠赤外線ヒーターを思い出した。


「ツワブキくんは、タイミングが、良すぎ、るよ……っ」


これはちょっとした恨み言葉だった。
想定外の涙を見つけられてしまったことは悔しい。今わたしが、彼の優しさに救われているとしても、だ。

彼に弱い部分を見つけられたくない。これは半分はポケモントレーナーとしての性で、半分はわたしの意地なのだろう。


「良い男はチャンスをまず逃さないから」
「……前々から思ってたけど、ツワブキくんってナルシストだよね」
「それに、僕は昔から運が良いんだよね。今もさんとのバトルを思い出しては思う。運がなければ勝てなかった」


ツワブキダイゴに謙遜は恐ろしいほど似合わなかった。
運がなければ勝てなかった? それは対戦相手だった身としてはとても信じられない言葉だ。


「……信じてない顔だね」
「あたりまえでしょ」


バトルも、この仕組まれたかのような出来事も、運が良いで片づけられては困る。


「でも今回は本当にラッキーだった。今日はまだ一度もさんの顔見てなかったから、会いたいなぁって思ってたときにちょうど、事務の女性とエレベーターに乗り合わせてさ。荷物が重そうだったから代わりに運んであげたんだ」


……さすがツワブキダイゴ。顔立ちを裏切らない振る舞いだ。
リと紡がれる、砂糖漬けの言葉にわたしは慣れてしまったようだ。誉められることに慣れなんて無いけれど、彼の言葉を流す技能が身についたらしい。心臓は反応しなかった。


「そしたらお礼のつもりなのか、いきなり彼女、さんのこといろいろ教えてくれて。……さん、一人っ子なんだって?」
「……!」


ちょっと! 誰だか知らないけど事務の女の子! 何ペラペラと人の個人情報しゃべってくれてんの……!!


「誕生日とか出身地は知ってたけど、一人っ子は知らなかったなぁ」
「な、なんで知ってるの!?」
「それはファンとしての常識だから」


そういやこいつ、そんな設定持ってたな……。
普段だったら「応援ありがとう」ぐらいは言えるんだけど、ツワブキダイゴはお断りしたい。


「そういえばスリーサイズって公式発表されてなかったよね? 教えてよ」
「さ、さいてー! わたしはグラビアアイドルじゃないんだからね!」
「でも男ならやっぱり知りたいよ」
「女として教えたくありません!!」
「あの子、実はカップサイズも教えてくれたんだよね。えっと、たしか――」
「いやーっ! 言わないで!!」


ほんとにどこのどいつだ! 同性ならそこはもう少しわたしの味方してくれてくれても良いでしょう……!


「あとは何知っちゃったわけ……」
「ちょっと前までお料理教室通ってた、とか?」
「………」
「お菓子は甘さ控えめなのが結構好きとか、ブラックコーヒーがまだ飲めないとか、人からもらった物がぜんぜん捨てられない!ってよく困ってるとか」
「はぁ……」
「最後に“良い子なんでよろしくお願いします!”とか言われたよ」


聞いてる内になんとなく見当がついてきた。わたしを「良い子」扱いするのはだいたい年輩組の方だ。おしゃべりなおばさま達が犯人なのは納得だ。
あのおばさま達をしっかり女性扱いするあたり、ツワブキダイゴは紳士だ。いや、フェミニストという言葉の方が似合うかな。

それはともかく……、よろしくお願いしますって台詞もつっこみどころ満載だ。
何それ。端から聞くと、まるでわたしが嫁ぐかのように聞こえるじゃない。

内容自体はささいな物ばかりだけど、やっぱり個人情報だ。それをツワブキダイゴに渡してくれた罪は重い、と思う。でも、今のリーグの雰囲気じゃしょうがないか……とも思う。だってリーグのほとんどの人間が仕事のできる新チャンピオン・ツワブキダイゴを信用しきっている。
キスの件で渦巻いていた不信の空気も、ツワブキダイゴのすんばらしい働きや愛の公言で薄れ、ワタルの制裁ですっかり消えてしまった。


「ああ、もうっ。わたしにとってはすごいアンラッキー!」


ツワブキダイゴにとってラッキーでも、わたしにとっては損にしかなってない。

頭を抱えるわたしに不吉な男、ツワブキダイゴは笑いかけた。


「ほら、泣きやんだ」
「……そーですね」


悔しいけど、言葉通りだった。















夜を迎えたチャンピオン待機室で、わたしと彼はいそいそ中断されていた片づけを進めていた。本当は帰ろうかなと思ったんだけど、目の腫れが引くまでは外に出づらいし、ツワブキダイゴが手伝うというので作業を続行することをわたしは選んだ。
ちょっと甘えすぎかな、という気もするけれどもともと遅れ気味の作業だ。今日中に終わらせたいと思っていたから、ありがたく利用させてもらった。
今は段ボールに封をする作業を手伝ってくれている。

ちなみに、自分の涙やら鼻水やらがたっぷり染み込んだハンカチをそのまま返すのは忍びなかったので、こっそりコートのポケットにインさせてもらった。
ツワブキくん、申し訳ない……。今度洗って返すよ、うん……。


「よく分からないけど……多分、ホームシックみたいなものだと思うんだ」


何か思いつくと、わりとすぐしゃべりだしてしまうのはわたしの癖だ。そうは見えないとよく言われるが、けっこうわたしは喋りたがりなのである。
背中越しの、うん、という相づちに安心しながら、わたしは続きを口にする。


「って言っても、わたしにとってもワケの分からない感情なの。なんであんなに泣けたのか、ほんとに分からない」
「うん」
「お別れが悲しいのもあると思うけど、もっと……ごちゃごちゃしてた」
「うん」
「今までのいろんなことが全部ごちゃまぜになって、わいてきて……言葉じゃ上手く表せないんだけど、まとめていうと、多分なんだけど」
「うん」

「リーグが好きすぎて泣いてたの」


そういうことなんだと思う。
リーグに注いだ真剣な気持ち、ポケモンたちに真剣に向き合った時間、自分がかけてきた全て、何もかもの始まり、何もかもの終わり……。そういうものが写真を見た瞬間にぶり返し、わたしを襲った。結果、わたしは泣いてしまった。

まあ、何かの終わりに涙は付き物だよね。
自分の終わりに送る涙だったと思うと、どことなく収まりが良い気がした。


「この気持ちを忘れるのはきっと時間がかかるだろうね。でも時間はもうすぐたーっぷりできるから、心配ご無用、よ」
「そうかもしれないけど」


ツワブキダイゴにはとにかく心配しないで、と伝えたかった。家に帰れない子供のホームシックにつける薬は無い。わたしには悲しみを薄れさせる時間だけが必要なんだ。そのことを分かってもらいたくて、せっかく茶化しながら言ってみたのに、ツワブキダイゴは複雑な表情を崩さない。

しょっぱい、すっぱい、からい、にがい。目の前のツワブキダイゴはそれら全部を飲み込んで耐えてるような顔をしている。


「どうしようもなくなった時は僕を呼んで」
「ありがとう、でも」
「呼んで、絶対」


わたしとツワブキくんは別に、そこまでの仲じゃないよね?
そう続くはずだった言葉は彼に更に言葉を被せられ、窒息死した。