「ねえ、ナマエ」
「え……」
それは別れ際の一節だった。
数歩後ろから降り懸かった言葉。ツワブキダイゴの声は聞きなれたもんだけど、名前を直接呼ばれるのは初めてだった、と思う。シンプルな響き。聞きなれた声がいきなり聞きなれないかたちで響くから、わたしは思わず心臓をはねさせてしまった。
「って、呼んでも良い?」
その言葉で我に返る。
裏がえりの余韻を残してドクドクドク、と心臓は鳴っているが、何でもないフリを装って返す。
「好きにして良いよ。あなたが決めれば良いと思う」
「じゃあナマエ」
やっぱり名前単体で呼ばれると、落ち着かない。なんとなく、心の弱いところを突かれている気分になって、わたしは肩をすくめた。
「僕のこともダイゴって呼んでよ」
「それはわたしが決めることでしょ」
「呼んで欲しいな」
「ツワブキくんにもっと慣れてからにするよ」
呼ばれる分にはかまわない。だって、見知らぬ人がわたしの名前を知っているのはよくあることだからだ。見知らぬ人にナマエちゃんナマエちゃんと呼ばれるのは慣れっこだ。
けどわたし自身はお世辞にも人なつっこいとは言えない。今はありがたいことに気心の知れた人たちに囲まれているから、自分のそんな性質を意識することは無いけど。
「名前で呼んでよ」
さっきまで機嫌良さそうにわたしをナマエ、と呼びつけてたのにあっという間にツワブキダイゴの機嫌はナナメになってしまった。
口をとがらせているツワブキダイゴ。今夜の彼はちょっと子供っぽい。いつもが優秀すぎるから、ちょっとこういう表情を見られただえですごく子供っぽく感じる。
「ワタルさんとはどれくらいの付き合いなんだ? どれくらいの付き合いがあったら、ナマエは人を呼び捨てにする?」
「別に明確な基準は無いよ」
「ワタルさんが良くて僕がダメな理由を教えてよ」
「そんなこと言われたって……。そもそもワタルは、8年もずっとお世話になってる人だよ?」
「僕がナマエを好きになったのも8年前だ」
それとこれは別でしょう……。
ここまで頑固に迫られたのは初めてだ。自分の今まで全部の男性経験を含めて、初めての体験である。熱烈なものは何度かあったけれど、ワガママなのは今まで無かった。
だからなんだろうか。断る文句は正直、思いつかない。
「そんなに仲良く見えたかな……。ごめん、あんまり意識してなかった。そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「無意識、か。ますますヤんなるな、それ」
そう、自嘲するツワブキダイゴを見るのは多分初めてだ。
子供っぽく自らを語ったり、名前を呼んでと駄々をこねたり、黒い感情で笑ったり。今日のツワブキダイゴはリーグでは見ない顔ばかりをする。
もしかしたら、二人きりだから、なんだろうか。
「わかった、ダイゴね。ダイゴ。これで良い?」
「………」
「あはは、耳赤いよ?」
「い、良いの?」
「ダイゴがそうして欲しいって言ったんじゃない」
返事にまた、ダイゴという響きを織り込ませれば、分かりやすく目の前の男は喜んだ。
彼の単純さがくすぐったく、思わず笑ってしまう。タマゴから顔を出したばかりのポケモンを思い出した。そういう類の純粋さというか、うぶな感じのあるダイゴを少し可愛いと思った。男の人に対して可愛いというのは失礼かもしれないけれど、実際にかわいらしいのだ。
「全く、何を焦ってるのよ」
「あなた相手に焦らない男がいたらそいつはバカだよ」
なんという褒め殺し。
わたしはそこまで言われるほどの女じゃないけどね。
「どうも」
本音を隠し、軽く受け取っておく。彼の中にいる“ナマエ”のイメージなんて、もうどうでも良くなっていた。
だって、もうすぐ会わなくなるのだ。わたしがリーグ止めた瞬間から、いっさいの接点はなくなる。わたしの肩書きは一般のポケモントレーナーに戻り、彼はリーグに残る。彼とわたしは他人に戻るだろう。
ダイゴと追いかけっこを繰り返すこの生活もそろそろ終わる。ダイゴは優秀だから、わたしとワタルのような関係にもなり得ない。
どうせあと数日の仲だよ。そんな思いがわたしにはある。
もうすぐ不安定ながらも自由な生活が手に入る。自由で、ダイゴのいない生活。どこへいこうか。
とにかく、何か楽しいことをしようとわたしは心に決めていた。楽しいこと、自分を元気にさせるようなことをしようと思う。その予定の中にもちろんダイゴはいない。
「実際、ナマエは手強いから」
「………」
そういうたわごとがわたしの警戒心を煽るというのに。この男なら気づかないはずないと思ったんだどな。