腕の中の花を見ていた。ホウエンの温暖な気候で育ったであろう、大きな百合。厚い花びらの上に、濃い黄色の花粉がこぼれている。鼻孔から脳へあがってくる、強い香り。
退任祝いにもらった花束を、わたしは見ていた。ズシリと重い花束。代表で、プリムさんが渡してくれた。そう、帰り際、わたしは招かれたのだ、みんなが集まる場所に。
耳にパラパラと拍手が届く。
今まで本当にお疲れさま。拍手のさざ波の中でいたわる室長の声を聞いて、わたしはほとんど条件反射で頭を下げた。
「今までっ、本当にありがとうございました……」
そう声に出すと、人と人の隙間に溶けたように拍手が鳴り止む。沈黙に言葉を待たれて、わたしは焦った。なにを言ったら良いんだろう。
ボールを投げられたので、返しただけ。なので、わたしの中に何か文句ができあがってるわけではなかった。
「ここまでやってこれたのは、本当にみんなのお陰です」
今日が最終日だってことは分かっていた。
お茶を飲んでるときとか、自宅でゆっくりしているときとか、感謝の言葉をあつらえる時間なんてたっぷりあったのに、わたしはそれをするのをすっかり忘れていた。
いや、忘れていたんじゃない。考えることをしなかったんだ。
「えっと……」
みんながみんな、こちらを見ている。
部屋に急遽集まったリーグで働いている人たち。見回したその、どの目元にも見覚えがあることにも驚いてしまった。
わたし、こんなにたくさんの人と仕事してたんだ。
こんなにたくさんの人たちと関わり合ってきたんだ。
こんなにたくさんの人がわたしを助けてくれていたんだ……。
「わたしが行ってきた活動はたくさんの厄介をリーグに招いたことと思います。その都度、みんながしてくれたことを思うと、感謝の気持ちは本当に言い尽くせません」
「みんながいなければわたしは何も出来なかったと思います。リーグを変えることも、チャンピオンであり続けることさえも出来ませんでした」
「トレーナーとして、人として、わたしを鍛えてくれたのは他でもないみなさんです」
「今まで支えてくださったこと、本当に感謝します」
「ありがとう」
百合の香りがまつげの先にあった。
最後にと握手を求めてくる手のひらたちがひらひらと、さよならを告げていた。
夜の中では人のつくった明かりはとても輝いて見える。そのキラキラを見ているうちに、今日までのいろんな事を思い出した。記憶がガラス越しに通り過ぎていく光に、つられてしまったみたいだ。
耳の奥では最後に送られた拍手がずっと反響していた。
思い出のスライドショーに、鳴り止まない拍手。まるで、頭の中に劇場があるみたいだ。ああ、閉幕していく。
足が地に着かぬ心地で、わたしはまきちらかされた明かりと、散り散りになっていく人を見ていた。
今すれ違った人間も、明日は当然のようには会えない。日常の中にとけ込んでいた人たちは皆、いなくなるのだ。当たり前が崩れていく。目の前の景色が明日は無い。それは全く想像がつかない絵なのだった。
(ていうか……ついに無職かぁ……)
思いながら、わたしは肩を落とす。今のところ行く先は不明。暗闇だ。
一応経験があるのだから、リーグ本部の方でうまく取り立ててくれると良いのだけれど、結局今日の今日まで連絡は無かった。
次が決まらないままの失職はとても不安だ。なのでなるべく早く解放されたいのに、人生はそう上手くはいかないみたい。チャンピオンを止めた後のこと。こればっかりはワタルも教えてくれないだろう。
もし新しい仕事が見つかったとしても、わたしはそれにちゃんと真剣になれるだろうか。
それに、もし遠くへ派遣されたとして、わたしは自分が新しい土地でうまくやれるだろうか。
何がどうなるかは分からない。思ってもなかった未来が開ける可能性だってある。
けれど、あまり喜ばしくない予感がわたしを濡れた絹のように覆っていた。
……それにしても。
この花束、けっこう重いなぁ。送られた花束わたしは目の前の視界にまで昇ってくる大きさだった。抱え直そうとした腕が重く、ドッと疲れているのが分かった。花の瑞々しさが少し恨めしい。持ち帰れないことはないけれど、クロバットに少々無理をさせてしまいそうだ。
小さいものをたくさんもらうよりは良かったのかも?
うーん、だとしてもこの重さは……。きれいはきれいなんだけどなぁ。
そんな事を考えながらフラフラと歩く、不安定な足取りのわたしにとどめを指したのは後ろからの一撃だった。
――ドンッ
「う、わっ!」
いったい何が起こったのか、全く分からなかった。後ろから突き飛ばされた、やばい転ぶ、と思ったら首に回った腕がわたしを引き戻す。
それがグッと喉に入って思わずせき込んだ。
何!?と思って振り返ると、すぐ近くにカゲツの顔。カゲツはニヤッと笑うと耳元で盛大に叫んでくれた。
「! お別れ会いくぞー!!」
カゲツの言葉を理解したのは、わたしの耳鳴りが止んでからまた数秒後だった。
「えぇっ!?」
「お前のお別れ会だーッ!!」
「わ、わたしの? ていうかうるさっ!」
思わず大声から耳を保護したわたしを、ハッハッハ!!とカゲツが笑う。
その笑い声もまた、うるさいのだった。
「それにしても、す、すごい突然だね」
「サプライズだよ!」
反対側の耳にいきなりかけられた声。勢いよく振り返ると、いつもの服装に一枚羽織っただけのフヨウがいた。
その後ろにはファーを首にまとわせた優雅な着こなしのプリムさんが。プリムさんはルージュを塗りなおしたばかりの艶やかな唇の端を上げた。
そしてちょっとサディスティックな視線で言った。
「いい表情ね」
「だ、だってそんな話ぜんぜん聞いてなかったし……」
「サプライズなんだから知らなくて当たり前だよ」
「行くだろ! 行くよな!!」
「うるさいってば!」
「良いだろ、この後空いてるんだから。ほら、ゲンジさんチ、行くぞー」
カゲツはいつの間にか、わたしの腕からあの重い百合の花束を引き継いで先を歩いていた。
あんなに重かった花束を軽々と肩に担ぐカゲツ。その後ろ姿に続いて、どんどん先に歩いていくフヨウとプリマさんにわたしはついていく事ができない。
「ど、どうして? なんでわたしの予定、知ってるの? あとなんでゲンジさんの家?」
「あ、それはあたしがダイゴくんに聞いたんだ」
「ゲンジさんの家で、奥さんが料理を振る舞ってくれるってさ」
「え、え、ストップ、ちょっと待ってよ~……」
話に思考が追いついて行かない。
疑問が多すぎる。サプライズってなにそれ、聞いてない。
なんでわたしの予定をダイゴに聞くの? 本人に聞いてよ!
でもってゲンジさんのおうち? ゲンジさんの奥さんが何だって?
混乱して立ち尽くすわたしに、最後に出てきたゲンジさんが声をかけた。
「皆でいろいろ考えたんだがな、ワシの家でおまえを送ることにした」
「………」
「ワシの家、それにこのメンツでゆっくりやるのも良かろう」
少し目元をゆるませる。そんな彼なりの厳しい微笑みで言われてしまえば、理解させられてしまう。
わたしのための晩餐が計画されていた、ということ。
なんだか笑えてきてしまう。
こんな風にわたしを思ってくれるところ、わたしが信頼している四天王の彼らそのもの過ぎて、笑えてしまう。
「……何を笑っているんだ」
「いや、そういえばあなた達ってこういう人達だったな、と思って」
「………」
「ありがとうございます。すごく、素敵です……」
照れたのか、ちょっとそっぽを向いて先を歩き始めたゲンジさん。
四天王のみんなを追いかけて、わたしもここから歩き出す。まずは花束を持ってくれているカゲツに、お返しでぶつかってみた。
5人で歩けば、人のつくった灯りはもっともっと輝いて見えたのだった。