「っ寝てた……?」
「あ、起きた? おはよう」
「おは、よう……」
「よく寝てたねー」
「あれ、この匂いは?」
「ダイゴが寝てる間にご飯、できちゃった」
起きたばかりのダイゴにわたしは菜箸を持ったまま振り返る。
わたしが立つキッチンの方はまぶしそうにダイゴは見つめていた。
「ど、どういうこと? 何が起こってるんだ? なんでが僕のご飯を? これ、夢?」
「何言ってるのダイゴ、現実に決まってるじゃない」
「現実……?」
「そうだよ、現実」
光に慣れない目を瞬かせながら、ダイゴはおぼつかなく辺りを見回す。見開かれたアイスブルーの光がキッチンからでもうかがえた。
夢と現実の区別がはっきりついていないダイゴ。目はパッチリと覚めてはいるけれど、頭の方は明らかに混乱しているようだ。
「あれ僕たち、もしかして結婚してる?」
「なぁに、ダイゴ。忘れちゃったの? わたしたち数ヶ月前に……」
「数ヶ月前……」
ごくり、と上下する喉仏。ダイゴが神妙そうに唾を飲んだのが分かった。
「そう、数ヶ月前に出会ったばかりじゃない!」
「だよね、出会ったばかり……え?」
「頭の方はまだ寝てるみたいね」
「………」
「何が“僕たち結婚してる?”よ。まさに、寝言は寝て言え、ね」
寝起きだからといって、なんでそうあっさり結婚なんて言葉が出てくるんだろうか。
ここまでダイゴの頭が心配になったのは初めてのことだ。
「なんだ、“現実”か……」
現実、と言うところでダイゴが絶望したように頭を抱えた。それはまるでこの世の終わり、とでも言うような大げさなポーズで、ついわたしは笑ってしまった。
「……全然記憶が無いや」
とても珍しいものをわたしは目の当たりにしていた。
それは呆然とするダイゴだ。いつもは綺麗な流れをつくっている髪も今は乱れている。男のくせしていつも浮かべてあった天使の輪みたいな光もいまはかき乱れている。
あ、やっぱりシワになっちゃったか。彼のスーツにシワが刻まれているのを見たのも今日が初めてだ。
「ダイゴってば、わたしがお茶を煎れにいって帰ってきたときにはもう寝てたんだよ?」
「どれくらい寝てた?」
「うーんと、3時間くらいかな?」
「……ごめん。こんなつもりじゃ無かったんだけど」
「良いよ。疲れてたんでしょ」
「ごめん。毛布、ありがとう」
「どういたしまして」
あとで片づけるから適当に置いておいて。そう告げてわたしは火の前に戻ろうとした。けれど、呆然と立ち尽くすダイゴがわたしを引き留める。
キッチンの入り口の廊下で、夕暮れの影をダイゴは顔の半分に住まわせていて、いやに深刻そうに見えた。
「………」
「………」
「……何? どこか、調子でも悪い?」
ん? という風にかしげる仕草で聞く体勢をとっても、ダイゴはやっぱりそこに立っていた。
「いや、エプロン姿だなぁって」
「……!」
ぞわぞわと背筋は這い上がってきた悪寒。言ったことには何もいやらしい色は無かった。なのに、わたしは見てしまった。ダイゴの目がしっかりと、胸のふくらみをとらえた視線、その輪郭をなぞる瞬間を。
見られることには慣れているけれど、ここまであからさまに胸元を見られるとは……。
「もしかしてわたしがエプロン姿だったから、結婚してるって勘違いを……」
「うん。エプロンって新婚の象徴だよね」
「……ダイゴってさ、ほんとわたしを呆れさせるのが上手だよね」
ため息をつきながら、わたしはその場でエプロンを脱ぎ出す。
衛生的ですよ、と料理教室で勧められて以来ずっと、料理をする時は必ずしていたエプロン。けれどもうエプロンを着けるはやめよう。少なくとも彼の前ではやめてやる!
「あれ、そのモンスターボールは何に使うんだい?」
「そんなのボディーガードに決まってるでしょうが。それ以上近づいたら、遠慮なくやらせてもらうから」
“それ以上近づいたら、痴漢としてすぐに警察に突き出すから!”
そんな、ダイゴが殿堂入りした際に何度も言った自己防衛の台詞を思い出した。
また同じようなことを言う日が来るなんて……。
「あーあ、せっかくお疲れのダイゴくんを労って夜ご飯も食べさせてあげようと思ったのに」
「えっ!?」
「そんなにお元気なら必要ないよね?」
「ええっ!!?」
「もういいよっ」
言い続ける内にダイゴへの不満が募っていくのが分かった。
ダイゴの寝姿に勝手にやきもきして、バカみたい。ダイゴに寝られてわたしがどれだけ困ったかダイゴは分かってないんだ。脳天気にそういう欲望を刺激するためにやったわけじゃないのに。ダイゴの方はわたしの方をそんな目で見ているなんて。もし思ったとしても、それをあからさまにしなくたって良いじゃない。
疲れているらしいダイゴにした気遣いは全て無駄だったんだ。そこまで考えてわいてきたのは、無力感と怒りという不思議な組み合わせの感情だった。
「ダイゴを元気づけようとか思ったわたしがバカだった! もうっ帰ってくれるかな!?」
「でもせっかく作ったんだから……!」
「全部日持ちするお料理ですからご心配なく!!」
「そんな!」
「後悔してももう遅い!!」
こうしてわが家で怒鳴り合った結果だろう。
後日、近所のおばちゃんたちの間で広まった噂は「とダイゴはすでに破局したらしい」だった。
「とダイゴがデキているらしい」というような噂は、誰の口からも紡がれることは無かった。