暇を与えられたわたしがまずしたことは、ヒワマキシティにある実家への帰省だった。
「やっぱり、ふるさとって良いね。ちょっと感傷的な気持ちになるけれど」
髪をすいていく風の匂い、眼下に広がるビリジアン。ふるさとというものは不思議だ。
だって、ヒワマキ特有の幹の太い、亜熱帯らしい植物を見ただけで、どうしようもなく心が躍ってしまうから。ちょっとしたヒワマキの気配に、体の方から反応を示す。ここがおまえの生まれた土地なのだと、心にそよぐ甘酸っぱい香りが言っていた。
遠くに見つけたツリーハウスの群れ。いよいよ実家に近づいてきたみたいだ。
故郷の空気に反応してしまう自分も含め、わたしは何もかもが愛しい気持ちでいっぱいだ。愛しくてたまらない。
それはわたしを運んでくれているクロバットも同じ気持ちだったみたいだ。目的地へと急く、せわしない羽の動きもまた可愛いとわたしは思った。
「よしよし、おまえもここら辺の出身だったね」
ずっと離れていた故郷に久しぶりに帰ってきたわたしたち。お互いの気持ちは今、シンクロしているみたいだ。
無邪気な旋回を繰り返すクロバット。森の匂いとじゃれるように、クロバットは地表すれすれを飛んでいく。
「気持ちは分かるけど、上にわたしが乗っていることを忘れないでよね」
そういうわたしもクロバットから両手を離してみたり、その手を空に向けてみたりして、故郷の空を楽しんでいた。
リーグの近くに借家をとり、ずっと一人暮らしだったわたし。
そんなわたしを案じてお母さんは時たま家事を手伝いに来てくれたし、季節の折りには会っていたので顔を合わせるのはそんなに珍しいことじゃない。けれど、実家に帰るのはひどく久しぶりだ。
(いつぶりなんだろう……)
詳しくは思い出せないが、もう年単位で帰っていないことは確かだ。
別に、ヒワマキシティのことを嫌っているわけじゃない。ただヒワマキというのは、ホウエンの中でも目立って時代から取り残されている町だ。ジムやポケモンセンターなどの基本的な施設を除いて、ヒワマキの人たちは原始的なツリーハウスを今も主な住居のスタイルとして選んでいる。
そんなヒワマキに入ってしまうと、わたしのケータイでは電波が届かなくなってしまう。それがわたしがあまり実家へ帰りたがらなかった主な理由だ。
ちょっとしたことかもしれない。けれどリーグの連絡がつかない場所に行くことはわたしにとっては考えられないことだったのだ。
『自分が実家にいる間に何か、取り返しのつかないことが起こったらどうしよう?』
あの時のわたしはそんな恐怖心を強く持っていた。そしてリーグチャンピオンの責任をひどく重く感じていたわたしにとって、その恐怖はぬぐい去りがたいものだった。
わたしにとって里帰りは職を離れた今だからこそ、できる事なのだ。
「クロバット、お疲れさま……って、ちょっと!」
ポケモンセンターに着き、わたしが降りたとたん、クロバットはその体をしならせながら木々の間をすり抜けていった。まるでクロバット自身が名手に放たれた矢になってしまったみたいだった。
体を休めることなく、森の中に出て行ってしまったクロバット。どうやら背中の主人のことなど気にせずに自由に飛び回りたくて仕方無かったようだ。
「全く……。夜には戻ってきなさいよー!」
……行っちゃった。聞こえてると良いんだけど。
まあ、クロバットは人を困らせるようなヤツじゃないし、大丈夫か。
そう思ったのと、遠くの森で木がバキバキと盛大に折れる音がしたのは全く同時だった。
……大丈夫だよ、ね?
数秒後、木の上に飛び出た見慣れた影。わたしのクロバットだった。飛び方を見ている限り、怪我などはなさそうだ。
全く、ヒヤヒヤさせるんだから……。
「気をつけなさいよねー!」
了解した、とでも言うようにクロバットは空中でフラッシュを繰り出した。
(クロバット、放しちゃった……)
内心、わたしはドキドキしていた。クロバットを心配しているのではなく、自分のポケモンを自由にさせてしまったことにわたしの脈はうるさくなっていた。
実を言うと、ポケモントレーナーは基本的に、所有するポケモンから目を離してはならない。
ポケモンを本来生息する場所からトレーナーの都合で他の環境へつれていってしまうのだから、トレーナーには監督責任がある。つまりポケモンのする事を見張る義務がある、とされているのだ。
これは長年、様々なトレーナーの間で声高に言われ続けてきた道徳だ。
わたしは今、それに反した。反してしまった。
(すごく、いけないことしてる気分だ……)
道徳はあくまで道徳だ。すれば良しとされるだけであって、法律でもなければ禁忌でもない。
けれど様々なトレーナーの模範になるべき存在にとって、その道徳は法律と同じくらい尊守されるべきものへと姿を変える。
立場というものは基本的に人を追いつめる。
同じように、リーグチャンピオンに注がれる世間の目は厳しい。
自分のポケモンを自由にさせておく。その小さな小さな背徳さえも許されないのが、わたしが今まで立っていた世界だった。
(わたしはもう、チャンピオンじゃない)
(だから世間の目とか模範とかそんなこと、もう気にしなくたって良いんだよ?)
(良い子のフリ、する必要無いんだよ……)
そう言い聞かせても、手のひらの汗は乾かない。
道徳に反する行為を誰かに咎められるんじゃないか、どこかの雑誌でバッシングを受けるんじゃないか。過敏な自意識がわたしの呼吸器を圧している。
「はーあ……」
わたしがチャンピオンでも何でもないただのトレーナーに戻るには、まだまだ時間がかかりそうだ。