わたしのふるさとは、別に世界で一番美しい場所じゃない。言ってしまえば世界にはヒワマキより珍しかったり、美しかったりする場所は山ほどある。
けれど、心身ともにわたしを包んでくれる場所はここ、ヒワマキだけだ。ポケモンセンターの前に降り立った瞬間から、胸は膨らみっぱなしだ。ヒワマキの空気が入り込んでくるのか、わたしが吸い込んでいるのか。風船でもくくりつけられたかのようにわたしの歩調は軽い。
振り返る人の視線をかいくぐり、到達した我が家。もちろんわたしの家もツリーハウスだ。
都会なら大抵、扉があるものだけれどヒワマキにはそれすらもない。田舎だから成り立つ、都会じゃ信じられないほどオープンな玄関。
脇にはホウキやら猫車やら、お母さんの鉢植えやらがゴチャゴチャになって置いてある。その雑然とした感じにまた、言いようのない嬉しさを感じた。
久しぶりの家。一歩入ると、ほこりと土と染み込んだ青臭い葉っぱの匂い。それを胸一杯に吸い込んでから、わたしはおそるおそる、久しい響きを口にした。
「おかーさん……?」
ほこりっぽいわが家の壁に吸い込まれたわたしの声。
少しして、暖かな女性の声がわたしの名前を呼んだ。
家の、薄暗い奥から近づいてくる柔らかな足音。そして頬に光を宿した笑顔。
「おかえり、!」
冬のからっ風に渇かされたわたしと違い、お母さんはほくほくとした熱気を蓄えた頬をしていた。
「よく帰ってきたわね。元気だった? あなたのこと、待ってたのよ」
わたしがただいま、と返すとお母さんはますますえくぼを深めた。
家の中のしっとりとした暖かさが、お母さんから匂いたつ。
この家をずっと暖めて続けている人。お母さんのふっくらとした顔を見られた。それだけで、わたしはなんだか安心してしまった。
「あら?」
久しぶりの実家に安堵するわたしとは反対に、お母さんは予想外の反応を見せた。
「あの人は?」
「あの人?」
あの人よ。そう言いながらお母さんはキョロキョロとあたりを見回す。けど、わたしの回りには誰もいない。
そわそわと目を輝かせるお母さんに、いやな予感を感じながらもわたしは思い切って聞いてみる。
「あの人って……誰?」
「えーと、あの人よ。あなたの彼氏」
「~っ!」
「名前は何だったかしら? ダイ、ダイ、……ダイモンジさん?」
「いやいや、ダイゴだから!」
「そうそう! あなたに会ったらちゃんと聞こうと思ってたのよ~」
「………」
「ったらかっこいい人捕まえたわね! お母さん驚いちゃった! で、結婚式はいつ?」
なんだろうこの、再会の嬉しさも一瞬で吹き飛ばす脱力感は……。
はねやすめはしたいと思ってたけど、違う。わたしが求めていたのはこういう脱力じゃない!
「~もうっ、お母さんちゃんとニュース見た!?」
見たわよぉ、なんてのんきな返事が返ってきてわたしはますます頭を抱えた。
絶対嘘だ。ちゃんと見たならまず、ダイゴの名前を間違えたりしない。
「か?」
のんきな母親の誤解をどうしようか、と思っていたら、不意に後ろからかけられた声。
思わず肩がはねた。
振り返るとはしごから登ってくる無骨な男。
「お、お父さん……」
「帰ってきたのか」
「う、うん……。久しぶり」
「そうだな」
お父さん独特の低くかすれた声。言い表しがたい、でも圧倒的に聞きなれている男らしい声だ。その響きを感じて思わず顔が緩む。
木々の匂いや土にまみれた作業着姿のお父さん。この姿を見るのも久しぶりだ。
心なしかシワが増えた気がする。
ただいま帰りました。そんなことを言おうとしたのに、わたしは次の台詞で閉口を強いられる。
「で、お前の彼氏はどこだ?」
……あれ、おかしいな。久しぶりの実家で頭痛がするんだけど、どうしてかしら。
自分の勘違いに気づかないまま、家族の顔合わせにニコニコとしてるお母さん。
娘に男の気配を感じ、見たことないような険しい面もちのお父さん。
ようやく帰ってこられた故郷で、さて、わたしはいったい何から始めるべきなのか。
「ダイモンジくんだったか?」
「ダイゴだから!」
しっかりとダイゴのことを説明した時の両者の反応は少し笑えてしまうものだった。
娘の春はまだまだ先と知ったお母さんはあからさまに残念そうな顔をした。一方の、お父さんはというと安堵の表情だ。
父は目鼻立ちがくっきりしていて、モノクロ映画の二枚目俳優にシワを書き込んだ、というような容貌をしている。けれど寡黙で無骨で、中身はステレオタイプの頑固おやじだ。
その頑固おやじでも、やはり娘がどんな男をつれてくるのか、気を揉んでいてくれたみたいだ。ダイゴはただの後継者だと告げたとき、お父さんの顔には誰が見ても分かるほどありありと「娘の彼氏じゃなくて良かった」と書いてあった。
指摘するときっと怒るので言わなかったけれどね。
家に上がったわたしはすぐさまコートを脱ぎ捨て、カバンを投げだした。そこから着替えを引き出す。
分厚いコートはやめ。薄いタートルネックのニットブラウスにジーパン。それから履き慣れたスニーカーを取り出した。時計やネックレスはすべて外した。体が冷えすぎないよう、首もとだけはマフラーでしっかりガード。
これから行く場所を思い描き、わたしはとにかく動きやすい服を選んで身につけた。
「ねえ! わたしのボールは?」
「あなたの部屋。机の上に置いてあるわよ」
「ありがと!」
わたしが家を出たときから、そのままにされている部屋――いや、お母さんがいつも丁寧に掃除してくれている部屋に行くと、言葉通り、机の上にモンスターボールが置いてある。
細やかな傷が多い、だいぶ色あせたそのモンスターボールをひっつかんで、わたしは廊下をかけていく。
「何をそんなに急いでいるのよ、お茶くらい飲んで行けば?」
「帰ってきたらね!」
背中にかけられたお母さんの台詞は一蹴。スニーカーの靴ひもをしっかり締め、わたしは駆けだした。
緑豊かで厳しい自然の中にある町・ヒワマキシティ。
ヒワマキはホウエン地方で指折りの田舎だ。自然との共生というテーマを、科学力などを控えることで実現しているので、実際に発展もしていない。現代の人にとって不便の多い、風変わりな町でであることは認める。
けれど自分がヒワマキ出身であることをわたしは誇っている。
ツリーハウスのすぐ横は、ポケモンたちが生息する深い森だ。ポケモンたちと力を合わせ、共生を実現している都市はいくつもある。けれど人間と生粋の野生ポケモン、両者の営みがここまで密接した町は他に無いんじゃないだろうか。
それに、わたしの原点はこの町にある。
一歩踏み出せば未開拓の森が広がるこの自然だ。人間ひとりではままならないことが多いこの環境におかれていたゆえに、わたしは、世間一般よりずいぶん早くからポケモンたちと協力し合うことを覚えていた。
ヒワマキの自然に息づく野生ポケモンとの触れ合いが、わたしのトレーナーとしての基礎を作ってくれた。そして故郷の姿はわたしに、自らポケモンの方へと歩み寄ることを教えてくれたんじゃないかと、わたしは密かに思っている。
けもの道を行きながらわたしは、彼を求めてあたりへ目をこらした。
彼、どこにいるんだろう。
種族単位で見ても、かなりの巨体だ。彼がどんな場所を好んでいるか、よくどの道を通っているかもわたしはよく知っている。きっと見つけられる。
そして見つけた木々の合間。懐かしの大きなシルエット。
「トロピウス!」
大きな影へと上げた声は、思わず上擦った。