ヒワマキに帰ってきたのはふたつの大事な用事のためだった。ひとつは実家に帰って、家族にこの顔を見せること。そして、もうひとつの重要な帰省の理由。それがこの、老年のトロピウス。目の下に幾重もの皺をもつ、わたしのトロピウスだ。
「トロピウス!」
興奮の色に染まったわたしの声にトロピウスは濡れた瞳の瞬きを返した。ささやかだけれど、確かに示された反応。やっぱり、彼だ。
目が合えば、ますます言いようもなく懐かしさがこみ上げてくる。
他でもない、深い慈しみを持つこの目と再会しに、わたしは帰ってきたのだ。
トロピウスはのったりと、太い首、そして目の揃った葉脈が美しい羽をぐるり、旋回させてこちらを見た。
彼の葉にゆすられて、たくさんの葉が落ちてくる。舞い落ちる木の葉をかきわけ、わたしは走り出した。
「会いたかったよ、トロピウス」
彼の足へ飛びつけば、彼も掠れた、こちらの胸を締め付けるような声で鳴いた。
トロピウスはわたしが持った、初めてのポケモンだ。
普通、新しくポケモントレーナーとなる子供はキモリ、アチャモ、ミズゴロウの3匹から一匹を選び、プレゼントしてもらうことができる。けれど、トロピウスへの憧れ、それと当時ヒワマキからオダマキ研究所へ行く目処が立たなかったのもあって、わたしはこれをアッサリと無視した。
『、どこにいくの?』
『もちろんポケモンをゲットしに!』
『あなたまさか、草むらに行くんじゃ……』
『大丈夫! 今日からわたしもポケモントレーナーだもの!』
10才になる誕生日の日。朝起きた瞬間、わたしは朝食もとらずに近所のショップへ向かった。
こつこつと貯めていたお小遣いでモンスターボールを買えるだけ買い、その足でわたしは家の近くの草むらへ走った。
そしてお目当てのトロピウスに自分のポケモン無しに突っ込んでいったんだっけ。
『トロピウス、バトルよ!』
『わたし、あなたと一緒に冒険したいの!』
『お願いトロピウス、わたしの一番最初のパートナーになって!』
トロピウスを選んだ理由は単純。この森で一番、強そうだったから。トロピウスなら何でも良かったわけじゃない。いつも同じ場所、木漏れ日の下で光合成をしている、種族の中でも一番大きな体を持つ彼をわたしは欲しがった。理由はまたも、強そうだったから。
“大きければ大きいほど強いはず!”。そんな目先の価値観にとらわれまくりの理由で、わたしは彼を選び抜いたのだった。
今思うと、駆け出しトレーナーだったわたしは幸運にまみれていた。
手持ち無しで野生のポケモンに挑むなんて愚かなことをしたというのに、わたしは大したケガを負うことはなかったし、モンスターボールの数にものを言わせ、向こうが根負けするかたちで、お目当てのトロピウスをゲット出来た。
彼がもっと荒々しい性格のトロピウスだったら、あの時お店でおまけのプレミアボールをもらっていなかったら、すべては違っていた。
ゲットする際は考えられない無茶をしたけれど、わたしの選択は間違っていなかった。
平均的なサイズよりふた周りほど大きく成長した彼のパワーにわたしはよく助けられた。
パワーだけじゃない。どっしりとした、冷静な精神を持つトロピウス。
わたしが動揺するといつも、すずやかな目を向け“落ち着け”とたしなめてくれた。
妙に達観したところのあるトロピウスからは重ねた時を感じて、まるで仙人をパートナーに連れているみたいだった。
このトロピウスで道中会うトレーナーを圧倒した。
たどり着いた場所で仲間を増やしながら、わたしとトロピウスは各地のジムで快勝を重ねた。
2年後、わたしはトロピウスと一緒に当時のチャンピオンを撃破し、殿堂入りを成し遂げた。
チャンピオンとしての防衛戦、いつもわたしの切り札は彼だった。
ずっと彼はわたしの一軍だった。最初の数年は。
ホウエンチャンピオンになって一年目、彼の強さにかげりをもたらしたのは肉体的な“老い”だった。
元々、わたしと出会ったときすでに育ちきっていたのだ。
『このトロピウスはもう、平均寿命を越えています。人間で言うなら80才に相当するのでは。この年で、こんなに元気なのが驚きですよ』
トロピウスを診たドクターはこうも言った。もう彼を戦わせ続けるのは難しいでしょう。トロピウスのことを思うなら、もうバトルには出さないでください、と。
それでもまだまだやれる、と戦う意志を見せたトロピウス。またわたしも、トロピウスをベストメンバーから外すなんてこと考えられなかった。わたしたちは、意地っ張りだったのだ。
ドクターの診療結果を踏まえた上で、それからも数年、わたしはトロピウスには切り札の任せた。
やがて体力が落ち、動きが鈍くなり、技の威力が落ち、反応が遅くなり、素早いものを目で追えなくなり……。そして、バトルが彼の寿命を縮めていることに気づいたとき、わたしはトロピウスを使うことを止めた。
『トロピウス。わたし、あなたをヒワマキに帰そうと思う』
先の短いトロピウス、ましてや長年の相棒を、パソコンに預けっぱなしにするなんてことはわたしには出来なかった。けれど、その頃の住んでいたアパートの近くに安心してトロピウスを放てる場所も見つからない。
二人が離ればなれになるとしても、ヒワマキに帰すというのは最善の策だったのだ。
『トロピウスのこと捨てるわけじゃない』
『いつか、迎えにいく。絶対に。だからあなたを野生には戻さないよ』
『今までありがとう。トロピウスがいなかったら、わたしここまで来れなかったよ』
『あなたはよく戦ってくれた。今まで頑張ってくれてありがとう』
『故郷の、あなたが一番好きな場所。わたしたちがパートナーになったあの場所』
『あの木陰で、おやすみ』
そして、お母さんにボールごとトロピウスのことをお願いし、ヒワマキの森へ放ったのだ。
彼も自分の限界を十分わかっていたのだろう。
別れ際のトロピウスには惜しむ仕草も、目に恨めしい光も無かった。むしろ出会ったときと同じ、涼やかな目でもって、トロピウスはわたしにあっさりと背を向け、木々の間に姿を消した。
けれど、萎びて見えた背中の葉に、朝露が転がって落ちていった、あの光景。あの背中に涙をこらえるのが大変だったのを覚えている。
見上げると、トロピウスもまた、わたしを見下ろしていた。
少し目ヤニが溜まっているけど、潤沢な目の輝きが変わっていない。わたしは人間で、彼はポケモンだというのに、まるで両親が子に持つような眼差しを向けてくるので、わたしの息を詰まらせた。
沈黙の中、ただただ見詰め合うわたしとトロピウス。
その湿っぽい感動を打ち消したのは影があった。
「……うぐっ!」
枝なんてお構いなしに飛び込んできたその影は、わたしの背中に体当たり。
見なくても分かる。興奮したとき、主人に体当たりをしてくるポケモンには心当たりがあった。
「なんだ、おまえもここに居たの?」
やっぱりクロバットだった。わたしがお父さんお母さんに会いにいったように、クロバットも久しぶりの旧友に会いに行ってたみたいだ。
どうやらまだ興奮は収まっていないらしい。わたしの背を離れると、今度はトロピウスの首を、まるで螺旋階段を駆けあがるみたいに飛ぶ。まったく、器用なヤツ。
「ちょっとは落ち着きなさいよ……。おいで、クロバット。おいでったら」
それでも急上昇、急降下、急旋回を止めないクロバット。
「来なさい!」
バトルをするときと同じ語調で言えば、ようやくクロバットは降りてきた。
ああ、やっぱりケガしてた。森でむちゃくちゃに飛び回ったんだろう。
「あーあー、もう。こんなたんこぶ作っといて、よくあんだけはしゃげるわね」
ヒワマキに着いた直後に木が倒れるのを見た。あの時は大丈夫そう、なんて思ったけどやっぱりケガしてたんじゃないの。
タフなところはさすがわたしが育てたポケモン、なーんて評価したいとこだけれど、このままコイツを放しておくのは正直不安だ。
調子に乗ったクロバット。何か人様に迷惑をかけそうな気がする……。
きずぐすりで簡単な処置して、わたしはクロバットをボールへ戻した。
ちなみに、トロピウスの抜けた穴を埋めようと育て上げたのがこのクロバットだったりする。
また二人きりの空間が戻ってきた。さっきは見詰めるだけで胸いっぱいだったけれど、クロバットのおかげで少し落ち着くことが出来たようだ。トロピウスに話したいことが次から次へとわいてくる。
「騒がしいヤツでしょ」
そう、トロピウスに横目で視線を流す。返事はまあ、無い。でも聞いてくれてさえいればわたしは構わなかった。
「ズバットの時から可愛いヤツだったけど、クロバットに進化して、スピード出せるようになってからもっと調子に乗るようになっちゃってさぁ」
「でもクロバットとは上手くやれてるよ」
「自画自賛になっちゃうけど、あの子の仕上がり、完璧なの」
「クロバットに進化した時、我ながら腕を上げたなぁなんて思っちゃった」
笑い声をこぼしながら話しかけると、トロピウスはかすかに目を細めて聞いてくれた。
ポケモンのこういうところ、不思議だと思う。本当は言葉が通じないはずなのに、今みたいな瞬間、わたしたちは対話していると感じられるのだ。
「ねえ聞いて、トロピウス」
深い深い深呼吸をひとつして、それを吐き出す勢いでわたしはトロピウスに告げた。
「わたし、ホウエンチャンピオンをやめたの」
じっ、とトロピウスは聞き入る。
彼の樹皮みたいな触り心地の首、そこに手を滑らせてわたしは勢いを、告げる勇気を補給する。
「まあ、実際はやめさせられたんだけどね。ツワブキダイゴって人に、わたし、負けちゃった」
「負けたのはすっごく悔しい。でもね、もう良いかなって気持ちもあるんだ。だってわたし、精一杯やったもの。精一杯やった上での負けだから、認めるしかないし」
「わたし、もうホウエンの最強トレーナーである必要はなくなったの」
「だから、」
そう、いろんなものが無くなった。
地位が無くなり、権力が無くなり、居場所が無くなり……。
なにもかもなくしたわたしは、なんて身軽なんだろう。
「だから、あなたをわたしの家につれてって良いかな?」
これが言いたかった。ずっと、ずっと。
強さを求めた末に、トロピウスを手持ちから外してしまったことをわたしはずっと後悔していた。
「またトロピウスと一緒に暮らしたいの」
がむしゃらにチャンピオンを続ける傍ら、わたしは待っていた。
トロピウスを迎えに行く日を。それは夢だった。夢を叶えたあとに見た、新しい夢。
「今ならたくさん面倒見てあげられる」
次の仕事はなにになるか分からないけれど、それでも、たくさんのトレーナーのトップを走り続ける役目は終わったのだ。
わたしのトロピウス。あなたは、わたしにとって大切なポケモンなのだ。
強いとか体が大きいとか関係ない。絶対に手放せやしない、パートナーなの。
「わがままで、身勝手なトレーナーでごめんね。あなたがヒワマキの森が良いなら、わたしもヒワマキに住む。今更だけど、トロピウスが望むなら野生に……」
言いかけたわたしの頬に、トロピウスの鼻先が寄ってくる。なんだかキスのように感じた。
わたしの口を閉ざす、頬へのキス。
ゆっくりと聞こえてきたのはトロピウスが喜ぶ時に出す、音だった。
低く、それでも嬉しそうに、トロピウスはのどを鳴らす。
「ありがとう……」
君が愛おしい。君とまた会えたことも、また愛おしくて仕方がない。
きゅうとしめつけられたのど奥に、トロピウスの声は心地よく響いた。
とろけるような優しさに満ちた彼の声はお腹に響いて、わたしは遠い日、体を預けていたゆりかごを思い出した。
「本当にありがとうね、トロピウス……!」