Don't pass away


「本当に明日帰るのか」


緩みきった顔でトロピウスの入ったモンスターボールを磨いていた時だった。お父さんがわたしをわざわざちゃぶ台の前に座らせたのは。その時から嵐の予感はしていた。


「もちろん。帰るよ」
「もっと、ゆっくりしていかないのか」
「それ、お母さんにも言われた。でも、わたしには仕事があるから」
「仕事って言ったって、チャンピオンはやめたんだろう」
「チャンピオンやってた人間だもの。次の仕事の連絡がある、かもしれない」


自分の予感は以外と頼りになる。そのことを学んでいるわたしはとにかく感情を抑え、淡々と会話に応える。


「仕事が決まったらどうせのめり込むんだろ、お前は」
「………」
「それに次になにをやるって言うんだ」
「分からない」


やっぱり何か、自分の経験を生かせる仕事だと良いのだけれど。


「とにかく、落ち着いたらまたちゃんと顔出すから」
「どうだか。また変なことをやるんじゃないだろうな」
「………」


お父さんの言う、変なこと。それはわたしがメディアに出ていったこと全般を指す。
それは、チャンピオンは単なる勲章のようなものと思っていたお父さんには信じられないものだった。


「父さんはな、がチャンピオンを止めたと聞いて、正直安心したよ」
「うん、お父さんはあんまり賛成してなかったもんね」


旅に出したのはトレーナーになるためであって、アイドル紛いの行為をさせるためじゃない。
チャンピオンの常識を越えた活動をし始めた娘の姿を、お父さんは裏切りと思ったようだった。


『こんなふざけた仕事がチャンピオンの仕事か!』


そう雷を落とされたときのことはまだ覚えている。初めてわたし個人にスポットを当てた記事が新聞に出たときのことだ。安っぽい雑誌での、新チャンピオンについて見開き特集。
“あか抜けないこの少女がトレーナーとして、またどのような女性に成長していくのか興味のある男性読者も多いのではないだろうか”。こんな感じでわたしの容姿に触れたたった一行が、お父さんには我慢ならなかったらしい。


「俺はな、ダイゴって男が勝って心底良かったと思っている」
「あはは……」


このっ、頑固おやじ!
ひきつった笑顔を浮かべる胸の内でそう、わたしはなじった。

お父さんはずっと、わたしにチャンピオンをやめさせる方法を探していた。表だって何かをした、というわけではないけれど、行動の端々に“娘にチャンピオンをやめさせたい”という気持ちが滲んでいた。

結局お父さんはわたしを辞めさせられなかった。
でも、一人の男の勝利によってすべては変わった。8年間、一人の男の手に負えないようなどうしようもなかった事態がここにきて急転したのだ。

ダイゴが勝って良かった。それはきっと、お父さんの本心だ。


「心配してくれてありがとう」

「でも、お父さんお母さんの手の届く場所に戻ってくる気はないよ」

「だってわたし、はたちだよ? もう、子供じゃない」

「それに親の手を離れて、飛び越えるような成長がしたくてわたしはポケモントレーナーの旅に出たんだもの」

「いろいろあったけど、後悔はしていないから」


しばらく待って、返事がないのを確認して。おやすみなさいを告げて、わたしは父親の視界を外れた。









「お母さん、そんなに持てないから……」


トランクにぎゅうぎゅうと野菜やら生麺やら総菜やらを詰め込む母親。ああどうして、親というものは娘に食料を持たせたがるのだろう。それもありったけ。


「ていうか食べきれないって。腐らせちゃうよ!」
「じゃあお友達にあげれば良いじゃないっ」


それを背負うクロバットの身になってあげて!と言おうとして思い出した。
わたしには、今やトロピウスがついていることを。

もう戦力としては数えられないけれど、それでもトロピウスはたくましい。
年を重ねながらもまだ老衰なんて言葉の似合わないトロピウスを見て、ポケモンは本当に未知数の力を持つ生き物だと実感した。
自分が一番輝いていた時代の彼が手元に帰ってきて、気分的には百人力だ。

トランクが閉まらないわ、と焦る母親をよそに、本当に腐ってしまいそうな時は、トロピウスにあげてしまおう。こっそりとそんなことを思った。


「ねえ、
「なぁに?」
「お父さんのこと許してあげてね。ずっとずっと、のこと心配してたのよ」
「うん……」
「嘘じゃないわよ? ダイゴくんとのチュー、ニュースで見たときの動揺っぷり見せて上げたかったわ。じゅうたんのシミ、気づいた?」
「じゅうたん? 気づかなかった」
「お醤油をね、ドバーッとやったのよ」


ニヤニヤとするお母さんだけれど、わたしは曖昧に笑うしか出来なかった。
今でもダイゴとのキスの話をされると、カーッと顔が熱くなってしまう。出来れば触れて欲しくない事実だ。

ダイゴとはあれから、色っぽいことは何もない。チャンピオンの間でたった一回交わしただけだというのに、それが全国へふれ回っているなんて、自分はどこまでツいていなかったんだろうと今でも思う。

そういえばお父さんは、ダイゴとのキスにはノータッチだったなぁ。それほど、わたしを負かしたダイゴに「よくやってくれた!」と思っていたってことだろうか。


「お父さんもさぁ、考えが堅いよね」


お父さんの気持ちも分かる。娘が下劣な視線に晒されて喜ぶ親はふつう、いないだろう。
でもそれは娘だって同じだ。低俗な噂を書き連ねられて喜ぶ人間がどこにいるっていうんだ。


「そんなに綺麗に生きられるほど世間は甘くないってお父さんだって分かってるはずなのに」


どうしてお父さんには分からないのだろう。わたしが見せ物になることを受け入れ望んだのには、ちゃんと理由があるってこと。


「もちろん、分かってるわよ」
「どうかなぁ?」
「分かってるけど、がしたことがあまりにもスゴかったから驚いただけよ。まさかウチからリーグチャンピオンが出るなんてお母さんも思わなかったわ」


あっ、閉まった!
手渡された、今にもはちきれんばかりのトランク。

さて。わたしが家に付くのと、トランクの留め金が耐えきれず壊れてしまうの。どっちが先だろうか。






朝霧の中、わたしはトロピウスをボールから出してヒワマキから発った。
見送りに出てきたのは母親だけだった。

行きもコッソリ、帰りもコッソリ。
個人的にはそちらの方が都合が良い。というのもわたしは地元では英雄扱いされている。自分で言うのは非常に恥ずかしいけど、本当に英雄扱い。この田舎町からチャンピオンになる人間が出たことが誇らしいらしい。

何か変にもてはやされることも、「チャンピオンを辞めさせられてかわいそうに。残念だったね」なんて慰めも、受けたくなかった。


、よく頑張ったわね』


帰り際にお母さんが言ってくれた言葉がわたしの胸に残っていた。
元々小柄な女性だけれど、トロピウスの背から見下ろしたお母さんはますます小さな人に見えた。小人のようなお母さんは、頬をふっくらさせて言ってくれた。


の顔が見られて良かったわ。あなた、思ったよりも良い顔つきしてる』


トロピウスにまたがりゆっくりと空をゆく間、わたしはそう言ったお母さんの声をずっと反復していた。
もうはたち、なんてお父さんの前では言ったけれどわたしはまだまだ子供みたいだ。お母さんに一言ほめられた。それだけの言葉を何度も思い返して、暖かな気持ちになっている。

けれどお母さんが植え付けてくれた暖かさは、家の前に立ったとき、一瞬で緊張の色に染まった。

玄関の前に、いたのだ。
ひどくうなだれたダイゴが。


「……ど、どしたの」


ぐったりと頭をうなだれ尋常でない様子のダイゴに、そう言うのがわたしの精一杯だった。

近くに寄って、その肩を揺り動かしたとき、ようやくダイゴは反応を示した。
真下を見ていた顔が、ゆっくりとのぼってくる。呪うかのような虚ろな視線でダイゴはわたしを見留め、存在を理解すると、ふるえる手で肩に添えたわたしの指を捕まえる。

ほんとに大丈夫かこの人、と思ったときだった。腕をぐっと引かれ、わたしはダイゴに抱きしめられた。
こんなに近づいたの、なんだかんだいって初めて出会ったとき以来だ。

きつくきつく、ダイゴはわたしの体を締め付けてくる。
わたしの二の腕の骨を折ってしまいたいの? そう聞きたくなるほど、ダイゴは力を込めてわたしと抱く。
容赦を知らない力に抗議しようと、わたしが口を開いたとき、ようやくぽつりとダイゴはこぼした。


「嫌われたのかと思った」
「ダイゴ、それって」


すっごく今更……。
それがずっと好意を押し当てて来た人のセリフだろうか。
本当に、何を今更だ。今頃になってどうしてそんなに気弱になってるのか、わたしにはわけが分からない。


「ちょっと会いに行けない時間ができたと思ったら、家はからっぽだし、連絡はつかないし」
「落ち着いてよダイゴ。わたし、実家に帰ってたの。電話繋がらなかったのは実家がド田舎だからだと思うよ」


それに、ダイゴが嫌いになったからってわざわざ生活を変えるような女じゃないよ、わたし。
わたしの生活はまだ、わたし一人のものだ。


「君が消えたのかと思った……」
「き、消えるわけないでしょ」
「僕はずっと、消えそうだと思ってた。消えちゃいそうだ、って」
「何言ってるのよ……」


ダイゴの腕の中でわたしは途方に暮れた。
この男には振り回され、困らせられてばっかりだった。それでもどうにか友人として付き合いあしらい、扱ってきたつもりだ。

でも今回ばかりはもう、お手上げだ。
わたしに彼を受け流す術は無い。ひとつも。


「ダイゴってさ、」


すごく不可解な感情をわたしに対して持ってるよね。
純粋な恋なんかじゃ絶対ない。そして、愛ともほど遠い感じがする。


「ねえ、わたしたち……」


どうしてダイゴはわたしにそんな感情を抱けるの?
ダイゴがわたしにしてくれた全ては本当に、“好きだから”の言葉で片づけられるものなの?


「ううん、なんでも無い」


わたしたち、前にどっかで会ったことある? なんてね。