暖かく晴れた冬の午後。庭に机とイスを出してお昼をとることになったわたしたちは、パスタを茹でる傍らでテーブルの準備をしてた。ダイゴにはイスを出してもらい、わたしは寒さ対策のひざかけを家の奥に探してきているところ、だったんだけど。
今、わたしの思考はわき道に逸れている。
二人分のひざかけを抱えて通りかかった出窓の前、わたしは立ち止まっていた。
午後の光がよく差し込む、西の出窓。
わが家の中でも特にお気に入りのそのスペースには、わたしのお気に入りのものたちが並べられている。
パッと見て一番多いのは写真だ。
家族写真、リーグのみんなと撮った写真、パーティーのメンバーと一緒の記念撮影。中には取材に来たカメラマンの厚意に甘えて譲ってもらった写真もある。
それから、まだわたしが旅をしている小娘だった頃の一枚も。
たくさん並べた写真。写り込んでいるのは、どれも今の自分を支えてくれているかけがえのない思い出たちだ。
写真のほかには、人からの贈り物や可愛さにやられた置物たち。
カントー土産の小さなピッピ人形も飾ってある。かなり前、ワタルがくれたものだ。
ピッピ人形を持ってくるあたり、あの頃のワタルは本当にわたしを子供扱いしていた。
“こういうのは嬉しくないのか? おかしいな、絶対喜ぶと思ったんだが”。そう言ってピッピ人形に対するわたしの反応に、ひどく不安がっていたワタルを思い出すと、今でも笑えてしまう。
思い出の籠もった品々を眺めているうちにそうだ、と思いついてわたしは自分のポケットを探った。そして、紺色の包みを掴み出す。
自分が大事にしているもの、大切な人たちの写真の群れ。
さっきダイゴからもらった石をその中に置いてみる。それくらい、わたしはこの石が気に入っていた。石自体にすごく興味があるってわけじゃないけど、綺麗なものはやっぱり好きだ。
(あれ……)
眺めているうちに、その場から欠けている一枚があるのに気がついた。
写真だ。あの写真が無いのだ。どこにやったんだろう。ちゃんと持って帰ってきたと思ってたんだけど……。
あの一枚の行方を巡る思考からわたしを引き戻したのは、ピピピと鳴るタイマーの音だった。
出来上がったのは、カルボナーラ。といっても細かな手間は省いてあるものだ。
カルボナーラに顕著な反応を示すトロピウス。わたしのトロピウスはけっこう食い意地が張っている。年寄りのくせに。
「だめ。あなたが食べたら一口で無くなっちゃうじゃない」
おまえはこっち。そう言いながら、トロピウスに木の実を差し出した。
トロピスウへ、捧げるようにして手をあげる。
まただ。また、ダイゴがこちらをじっと見てきている。
職業柄、人の視線には慣れているけれどダイゴの視線は苦手だ。彼の視線にずっと当てられているとなんというか、むずがゆくなってくるのだ。
生々しい表現をすると、背筋を舐められているような感じがして落ち着かない。
「やっぱりじゃなきゃダメなんだね。さっき僕もあげてみたけど見向きもされなかったよ」
「そうかもね。この子、昔っから愛想がないの」
「うーん、愛想の問題かな……」
「え?」
「いいや、なんでもないよ」
そう言いながらダイゴがフォークとスプーンを手に取る。
今度はわたしがダイゴをじっと見る番だった。
手料理を人にごちそうすることは滅多にないのだ。その上ダイゴという舌が肥えていそう、いや、肥えているに違い無い客を迎えて、わたしはドキドキしながら食すダイゴを見守っている。
あまり長く待たせるのは忍びなかったので、短い時間の中でもわたしは全力を尽くした。
心境としてはなるようになれ!という感じだ。
手に汗握って評価を待つわたしを見越したように、ダイゴはクスリと笑った。
「心配しなくても、ちゃんと美味しいよ」
「よ、良かったぁ……」
「からそんなに熱心に見られると、味がわからなくなりそうだけど」
「……はいはい」
ダイゴは大げさに料理を誉めたりはしなかった。けれど、さっきの言葉はお世辞では無かったようだ。
パスタを巻くダイゴの手は速度をゆるめない。その反応だけでわたしは十分だと思えた。
わたしも遅れてカルボナーラに手を伸ばす。
うん、ちゃんとイメージ通りの味になっている。
けれど、いつもわたしが作るカルボナーラと何ら変わりない味。いつも通りの味であるこれがダイゴに誉めてもらうに値するものなのか、わたしにはちょっとわからない。
(でも……)
ポカポカとした日差しの下でとる昼食はすごく、気持ち良い。
一人じゃなく誰かと一緒であることも、なんだか心を暖かくさせる。相手はダイゴだけれど、ね。
「ねえダイゴ。明日あたりちょっとそっちに行きたいんだけど……出来るかな?」
もうひとつ、トロピウスに木の実を与えながらわたしは考えていたお願いを口にする。
出窓の中から失踪した一枚。それはたぶん、チャンピオン待機室に置き忘れたものだったと思うのだ。それを思い出してすぐに、わたしは写真を迎えにいこうと心に決めた。
私物を置きっぱなしにすることも、大事な写真を放っておくこともできない。
「そっちって、リーグのこと? それとも僕の――」
「リーグに決まってるでしょ、ばか。わたし、あの部屋に忘れ物しちゃったみたいで」
「もちろん入れるけど……。そんなのあった?」
「えっと、……わかりにくい場所にあるの」
「それ、どこだい? 僕が届けようか」
また、来るだろうし。とダイゴは続ける。
確かに来るだろうなぁ。わたしが歓迎しようとしなかろうと。
「いいよ、自分で取りに行く」
気持ちはありがたい。けれど、待機室に通してもらえるんなら是非自分で探したいと思った。
無くしたその一枚とはワタルと二人でとった写真だった。
幼くって青臭いわたしと、若くって今よりもっと目がキラキラしてるワタル。そんな二人のツーショット。
そしてその写真は、リーグの歴史と心構えとをまとめてある本に挟んであったりする。
なぜ、そのチャンピオンの教科書的な役割の書物にワタルとの写真を挟んだのか。理由はもちろん、わたしがワタルを一番の心の支えにしていたからだ。
笑顔のワタルとそのテキストを同時に眺めては、背負う名に恥じない人間でいようと、わたしは心を奮い立たせてた。何度も何度も、くり返し。
言わばあの写真はわたしがワタルに特別な感情を抱いていた証拠なのだ。
古ぼけた写真を見れば、たいていの人が気づくだろう。わたしが先人としてだけでなく、特別な意味でもワタルを好きだったことが。
一番自分の心に効く人の写真を、忘れてはならない信条と一緒にしておいた。
独り愚直に抱えていた覚悟と、青い感情とが混ざり合ったアレを見られるのは正直恥ずかしい。
「……分かった、けど来るときはちゃんと僕に教えてね」
「ありがと。けど、いまさら迷子になったりしないよ?」
「良いから」
何でも無いフリをしながら、内心わたしは戦々恐々としていた。決まってしまった。リーグに行くことが。あんなに通い慣れた場所に訪れるのが今では怖い。こんなのは挑戦者としてチャンピオンロードを行ったとき以来だ。
でも、怖がっている場合ではない。リーグに行こう。そして、自分のことを聞こう。いきなり仕事を断たれるのは納得がいかないと、はっきり言おう。
わたしのリーグ外の活動におけるスケジュール管理。それを行っていた人物は二人いる。一人はわたし自身だ。残るもう一人は、リーグ支部長である。事務関係の権限を握っていた彼の意向を、まず聞こう。
「ねえ、。何を考えているんだい?」
「え……?」
「暗い顔をしてる」
「うーんまぁ、ちょっとね。なんでもないよ」
「何か困ったことがあるなら……」
「大丈夫。なんとかするよ、自分で」
「………」
「………」
今日のわたしはダイゴに言わないことばっかりだ。
ワタルのことも、仕事のことも。決して譲れない、言えないことばかりなのだからしょうがない。
侵入を許した家の中、こうして唇を閉ざすのは最後の抵抗と言えなくもなかった。
日差しの温かい午後。けれど、風は冷たいままのようだ。ビュウと強く吹かれると思わず身が震えた。
口を開いたダイゴの顔色が妙に悪く見えたのはそんな冷たい風と、太陽が雲に隠れたせいと思いたい。
「ねえ――」
「ん?」
「君と、結婚したい」
続けられた言葉に、わたしは持っていたフォークを落としそうになった。
「………」
「……じょ、冗談……」
「冗談なんかじゃ無いよ」
「………」
この場だけを切り取って見るのなら、ダイゴの態度は真摯だった。
真っ直ぐ見つめてくる目や、少し前のめりの姿勢は真剣な空気をまとっている。
けれど、わたしと彼はそれで通じる間柄では無い。
「よくも……」
ああ、この先は言いたくない、言ってはならない。とは思ったのだけれど、唐突な申し出に体や口は理性よりも遙かに早い、神経のレベルで素直な反応をした。
「よくもそんな事が言えるわね……。わたしの全てを奪っておいて」
それは、思っていても言ってはならないと思っていた言葉だった。
たとえ毎夜、寝る前に必ず思ってしまう感情だとしても。
独りとなっていく夜の中、わたしはいつも考えていた。
ダイゴが現れなければ良かった。そうすればすべては今まで通り進んでいた。忙しく無理を重ねる、けれど充実した日々。全てはダイゴのせいだ。ダイゴが狂わせた。
不安が続く日々の中、そう思えて仕方がない。
……惨めだ。こんなのは負け犬の遠吠えだ。
わたしの未来を奪ったな、なんて。負けて泣きを見た、弱者の感情だと分かっている。けれど。
思ってはならない感情を抱えるのは、苦しい。
「そう、君が全てと言うものを僕は奪った」
やんわりと肯定するダイゴにまたわたしの神経は逆立った。
「奪ったのは、僕がに与えたいものがあるからだ」
まずはこれを。そう言わんばかりにダイゴはさらりとポケットから取り出した。
小さな手のひらサイズの小箱だった。
そっとダイゴがその箱を開ける。中では、シルバーリングが安らかに眠っていた。
わたしはすぐに気がつく。その指輪は彼がいつもしている指輪に似せたデザインのものである、と。
「僕は君のことが好きだ。のこと、幸せにしたい。そして僕も幸せになりたい」
その指輪を冷たく見下したわたしの返事はこうだった。
「ごめんなさい。わたし、もう幸せだから」
ダイゴの返事はこうだった。
「のうそつき」
求婚を断られたくらいでひるむ男だっただろうか。
でもその時、彼は確かに傷ついていた。
断って押し返して、持ってかえってもらったと思った指輪。
玄関の隅っこにこっそり置き去りになっていたそれを見つけたのは、ダイゴが帰ったずっと後だった。
忘れ物ではない。忘れ物とは、言わせない。
「気持ち悪い、吐き気がする……」
押しつけられた銀の光の輪。
見つめていると、今度こそ、ダイゴと関わり合う世界にわたしの幸せは無い。そんな気持ちへ引き戻された。