不思議だ。空に決まった色や形は無い。雲のかたちだって複雑な上に、刻々と変わっていく。
なのにまだ、覚えている。毎日のようになぞっていた、リーグへ続くこの空の道をわたしは覚えている。一見、何も無いように思える空間の何を、体は覚えたって言うんだろう。
主人を運んでくれているクロバット。彼に合わせるべき呼吸も、今は乱れがちだ。
よく見知った空の道の中にいると、自身が強ばっているのがよく分かった。
リーグを訪れるにあたって、わたしはそれなりに緊張していた。それはリーグに仕事の催促をすることへの緊張であり、再びダイゴと会うかもしれないことへの緊張である。
恋をしたことはあるし、結婚を夢見たこともある。けれど実際にプロポーズされたのは初めてだった。
“君と結婚したい”
冗談混じりじゃない、本気のプロポーズ。
ふざけたタイミングの求婚だな、とは思った。けれど言葉には、ちゃんと理性と欲求が同居していた。
真剣に彼が放ったプロポーズはそれなりの重い威力を持っていた。だからわたしも今こうして悩んでいる。
幸せってなんて都合の良い言葉なんだろう。ダイゴが言った幸せにしたい、そして幸せになりたいと言う言葉はわたしの耳に胡散臭いものとして響いた。例えるなら、全く隠されていない落とし穴。その穴へ落ちると分かっていながら踏み出す人間はいない、と思う。
そしてわたしが彼に突きつけた言葉。
「“わたし、もう幸せだから”か……」
心は今も複雑だ。
はためくコートのポケットには昨日もらった指輪が入っている。ダイゴに突き返すつもりで持ってきたものだ。
本当はしばらくダイゴとは会わないでいたい。けれど会うより仕方が無いと思う。
受け取れない、しかも高価であろう指輪は一刻も早くダイゴに返したい。忘れ物も絶対に回収したい。そのためにはダイゴに会うのが手っとり早い。
それに、恨み言を言ってしまったことも一言謝りたい。
小さなリングは様々な調和を崩してくれた。指輪さえなければ、ダイゴがこんな、形有るものを残していかなければ謝る決心もつかなかっただろう。
もしかしたら指輪を返させにくるのも彼の考えの内だったりするのだろうか。考えすぎ? 真意は分からない。けれど少しだけ、彼に会う理由があることをありがたいと思う。
「ありがとう、クロバット」
考えているうちについてしまったポケモンリーグ。ふう、と熱のこもったため息を吐く。
先に支部長に会うべきか、それともダイゴに会うべきか。仕事の問題が先か、人間関係の問題が先か。リーグについても決まらなかった選択の答えは向こうからやってきた。
「やぁちゃん!」
支部長だ。
こっちが先か。笑顔を浮かべながらも、わたしはゴクリと固唾を飲んだ。そして頭の中でひたすら唱える。仕事の催促を、仕事の催促を、仕事の催促を……! 言わなくっちゃ!
「あのっ!」
「うっわぁ久しぶり! そこまで日にち開いてないはずだけどなんか久しぶり!」
「あ、はい、お久しぶりです……」
「あはは、ちょっと堅いよ? 緊張してる?」
顔をクシャクシャにして笑う支部長。その気を許しきっている表情に、わたしも笑顔を引き出された。
「そうそう、楽にしてよ。元気にしてた?」
「おかげさまで。こんなにゆっくりしたこと無いから、時間の使い方が分からないくらいですよ!」
「それは良かった。せっかくだから、お茶でも飲んで話してかないかい?」
「ぜひ! でも、時間は大丈夫なんですか?」
「暇な時はとことん暇なリーグは今も健在だよ、ちゃん」
そして支部長は自然な動きで奥へと歩き出す。勝手知ったるリーグの内部。行き先を示し合わずにわたしたちはそこから移動した。
湯気をたてるセルフサービスのお茶とお茶受けのフエンせんべいを挟んで、わたしと支部長は座っている。
そっちはどうですか? とわたしが切り出そうとしたとき、不意にポツリと彼は言った。
「ちゃんがいないリーグはすごく静かだよ」
「ええ?」
「ダイゴくんは何でもやってのけてしまうから、こっちはだいぶ違うよ。ゆとりがあるよね」
「それって、」
わたしがチャンピオンとして力不足だったって言ってません?
そう意味を込めて苦笑すると、支部長は焦ったように手を振った。
「違う、違う! 勘違いしないで! ちゃんの仕事がどうだったって話じゃないよ。僕が言いたいのは、君はよくやってくれてたんだなっていうことだけ」
「やだなぁ、支部長。辞めた後に誉めても何にも出ませんよ、本当に」
「まあまあ。最後まで聞きなさい」
よほど話したかったことなのか、それから支部長は息つく暇さえも無く言葉を接いだ。
「チャンピオンの範囲を越えた様々なことを君はやっていた。避けて通れる道から君は逃げなかった。もちろん前からすごいと思っていたけど、平穏の中にいるとよく分からせられるよ。こういうのを身に染みるっていうのかな! 今更だけど、前にも伝えた気がするけれど、やっぱり言いたいんだ。ありがとう、ちゃん。君のような人がチャンピオンで良かった」
こんなにわたしを持ち上げたりして、どうしちゃったんだろう、支部長は。
あとで何かやっかいごとでも頼まれる? それとも何かに追われてる? そうとしか思えない支部長の語りっぷりにわたしはぽかん、と口を開けていた。
「わたしはただ……、仕事をあまり選ばなかっただけですよ」
「そこが大事なんじゃないか。何でもやるって、普通できることじゃないよ」
「………」
「ダイゴくんはあまりたくさんのことをしようとしない。自分の興味あることにはべらぼうに強いけれど、興味が無いものにはとことんだめだ。ハッキリし過ぎてるよ、彼。リーグと自分を完璧に分けている」
「ああ、フヨウから聞きましたよ」
「そうなんだよ……!」
たった一言だけの相づちでも、支部長にとっては心当たりがあったらしい。すぐに腕を組んで眉間の皺を揉み始めた。
「“石集めの時間が減るから”が理由って、ねえ……。どれだけ石集めに燃えてるんだよと……!」
「不満なんですか?」
「いいや。静かなのは嫌いじゃない。ただ彼みたいに栄光に浸らないで、トレーナーとしてものめり込まないチャンピオンは初めてで正直……拍子抜けしてる。ダイゴくんはまあ仕事人としては優秀だ。でも、ちゃんはすごくリーグのことを思って人生を投じる勢いを持っていた。全身全霊をかけてチャンピオンで在ろうとしてくれた。絶えず理想を追い求めて、僕らを引っ張ってくれたのはちゃんだ。リーグの黎明期っていうのは大げさか」
「……本当にどうしたんですか、支部長。死期でも迫ってるんですか」
茶化してそう行ったけれど、支部長はそうかもしれないと一言つぶやいた。
え、あれ、本当に支部長死んじゃうの?
「……リーグはダイゴくんの代になって昔のように戻りつつあるよね。保守的で、良く言えば安定している。悪く言えば物足りないかな。リーグはよくある公的機関に戻ってしまった」
「それを含め、ダイゴの手腕じゃないですか?」
「いいや。その保守路線にこうも早く戻れたのは、君が作った土台が生きていると僕は思うんだ。ダイゴくんは既存のシステムに乗っかってるに過ぎないよ。まあ、そこで乗りこなしてしまうあたりさすが社長令息というか、世渡り上手なダイゴくんらしいと思うけれど。僕はね、思うんだ。ダイゴくんには無い情熱が、ちゃんにはあった。君とのお仕事、やりがいがあったよ」
「………」
「だから伝えようと思って。君がやってきたことは全て上手くいっている。君が整えたホウエンリーグにちゃんと、彼は守られているよ」
「ありがとう、ございます」
やはり、この人はわかっていた。当時を知る人は違う。
カップから一口すすったコーヒーの苦さを噛みしめ、わたしは笑う。
彼は謝らないだろう。
いや、誰も謝れやしないのだ。
責めを受けるべきは誰もいない。
だからわたしはリーグを変えた。
自分は守られなかったと吠える傲慢な犬のために。
鏡に映る、弱い人間のために。
「もうひとつ大げさなこと言うとさ、聞いてくれる?」
「はい……」
「ダイゴくんがリーグに現れたんじゃない、ちゃんが、ちゃんの才能が、ダイゴくんを引き寄せたんだ」
「………」
「あれ、嬉しくないの?」
ああ今まで、良い話の流れだったのに。
舌に広がる味のままの表情でわたしは、正直微妙です、と返した。