はじまりはとても些細だった。僕の人生を変えた一瞬ではあるけれど、小さな恋がやぶれた、ただそれだけのこと。
そこから生まれた決意は、純情というスカーフでくるんであった。
僕は自分が生まれ持っていた勘の良さに感謝している。
18才の誕生日パーティー。あの数分、たった一度の関わりでも僕は彼女のたくさんを感じていた。
という人は確かな才能を持っていても、ただの少女なんだということ。そして彼女が抱いているものを悟った。は寂しさの中にいる。
確信があったのか、と聞かれると困る。僕の気のせいである可能性ももちろんあった。けれどそんな疑心はすぐに気にならなくなった。僕はとんでもなく思い上がっているんじゃないかという恥ずかしさよりも、見過ごせない、何かしてあげたい、そんな想いの方が圧倒的に勝っていた。
思い過ごしで片づけられないほど、僕は強烈に引き寄せられていた。
そう、決意は、純情のスカーフにくるまれて生まれた。なのに、いつの間にほどけ、もつれてしまったんだろう。
2年前と今。
僕の何が変わってしまったんだろうか。
ポタポタと前髪から垂れる淡水。服を着たまま全身ズブ濡れになるなんて、久しぶりの感覚だ。
バッジ集めをしていた時は山を登り、洞窟の奥を目指し、海を渡って海の底を撫でるように進んで、灰まみれにも泥まみれにもなったというのに。
チャンピオンである僕は、毎日洗い立てのスーツをまとっている。これがトレーナーとして実力を極めた末の生活なんだよな、と思うと不思議な感じがする。
逃避気味の思考を続ける僕を見下してくる男、ミクリへ僕はへらりと笑いかける。
「やあ」
「まったく君は何をやっているんだ」
この場に戻ってきたミクリはムスッとした顔をしていた。
「ミクリこそ。ハイドロポンプなんてひどいよ。そこはせめてみずでっぽうだろ」
「手を抜くのは君のためにはならないと思っての事さ」
「へえ、僕のためか」
「当たり前だ。私の愛のムチを疑わないでくれたまえ」
「というかなんでミクリがここに?」
「君が電話をかけてきたんだろ。頭がおかしくなりそうだとか、このままだと自分が何をするか分からないとか言うから急いでかけつけてやったんだろう」
「……そうだった」
すっかり忘れていた。自分からミクリに助けを求めていたということを。
とワタルさんの写真を見つけ、僕はたやすく平静を保てなくなって。静めようとしてもいっこうに収まらない嫉妬心に、自分でも危険を感じた。このままでは何をしでかすか分からない。
だからとにかくミクリに連絡をとった。脱出経路を求めて、SOSを発した。
「まったく。案の定、この有様だ」
「ごめん、ありがとう」
結局、ミクリというレスキューは間に合わなかった。僕は感情に身を任せ、事をしでかしてしまった。けれど、やっぱりミクリを呼んで良かったなと僕は思っている。
自分のことをよく知っている人物がここにいると思うと安心できた。まさに湯水のようにさらさらと流れ出てくる食えない言い回しも今は心地良い。
「……は?」
「私が責任をもって家まで届けさせてもらったよ」
「それは……、うらやましいな」
「ハイドロポンプで少しは頭が冷えたかと思ったのだけど。口が減らないな」
「自分としては結構こたえてるんだけどな。見えないかい?」
全く見えないね。しれっとミクリに言われてしまい困ってしまう。
こんなに途方にくれたのは久しぶりだというのに。
「たいていイヤな事があった時は洞窟に行けば気が晴れる」
洞窟の空気を吸って冷たい石に触れていれば、僕の心もだんだん冷静に戻っていくし、堅い意志が持てる。なんて小さな事で僕は悩んでいるんだろうっている気にさせてくれる。
「けれど今回のは無理だろうね」
「例えが分かりにくいのだが……。重傷だと受け取れば良いのかな?」
「重傷も重傷。むしろ重体、いや瀕死と言ったところかな」
「なるほど」
ふざけ気味の掛け合いが途切れて、僕らは事へと向き合わなくてはいけなくなる。先に切り出したのはミクリだった。
「同じことを言うが、まったく君は何をやっているんだ。彼女を手に入れるつもりでやってたんじゃないのか?」
「僕はなんでもよくできるけど、こればっかりは上手くいかないよ」
「不要な前置きは謹んでくれ」
不要な前置きとは何を差しているんだろう? 心あたりが無いので僕は流して続きを話す。
「上手なやり方なんていくらでもある。いくらでも思い浮かぶ。だけどね、彼女の前で僕は僕でいられない。の前でいつも正しい選択ができるか? できないんだよ」
「………」
「彼女はいつも僕を壊す」
は言った。僕は壊れていると。
その通りだ。今、僕の全ては正しい選択を導き出せない。
でもそんな僕を作ったのは、だ。
手にはまだ灰がこびりついている。さらさらとした灰は指紋の間や爪の奥にに入ってしまったようで、ハイドロポンプを浴びた今でも少し僕を汚している。
“わたし、もう幸せだから”
指輪になんて目もくれず、にそう言われたとき、途方もない距離を僕は感じた。
幸せという言葉の盾は強固だった。自分は不可侵なのだと彼女にハッキリ言われ、その翌日見つけた写真にはワタルさんと笑顔の。頭が真っ白になった。
僕はワタルさんには勝てないのか? 敵わないままなのか?
そうして焦りに焦がされた僕は……。
卑劣なやり口だった。人の思い出を焼ききり、引き裂こうとするなんて。
「こんな男、誰が好きになるって言うんだ」
ワタルさんには一生敵わなそうだ。そう痛感する。
そもそも、好きな人を蹴落としてチャンピオンになった男が、その好きな人を手に入れられる。そんな虫の良い話は無い。あるはずが無い。
ああ、諦めてしまいそうだ。のこと。
同じチャンピオンになった。名前を呼んでもらえるようになった。それでも届かない人なんだよ、は。
どうやら今僕は、投げ出したいと思っているみたいだ。何もかもを。
辛いばかりの恋に嫌気が差している。その考えが、もはや愚かだ。
「僕はまだ子供のままだ」
出発点から2年。
僕の何かは変わってしまったと思ったけれど、実は全く変われていないのかもしれない。
「今回の件、どうやら君が一番困惑しているようだね」
「違うよミクリ。僕よりもだよ。困らせちゃったな。どうしよう?」
どうしよう? なんて、口では軽く言っておいたけれど、僕は完全に絶望していた。息詰まっている。いろんなことが。
「……ダイゴは嫌われる覚悟があったから、あんなことをやったのか?」
「そんな綺麗な理由じゃない」
に嫌な顔をさせたいわけじゃない。もちろん心は彼女に好かれたいという気持ちでいっぱいだ。嫌われる覚悟なんて大層なものも僕には無かった。なのに、彼女に嫌われそうなこと、いろいろとやってしまった。
どんどん狂っていく。思うようには行かない。
が好きだ。
好きすぎてダメなんだ。こんらん状態は続いているんだ。自分のことも、のことも、その他のことも全部全部、コントロールが効かない。
「僕は彼女の前ではただの男に過ぎなかった」
それだけの話なんだ、と言って僕は会話を締めた。