人が涙を流す理由。それは様々だ。悲しさ、辛さから泣くこともあればその真逆、喜びのために涙を流すこともある。わたしの涙は、悲しみでももちろん喜びの涙でも無い。混乱の涙だった。
はた、と意識を浮上させた場所が暮らし慣れた自分の家で、この空間に居るのは自分と、愛するポケモンたちだけだと気づいたとき、わたしの混乱はようやく涙になった。
「う、ああああああぁぁぁ……」
明かりをつけないまま、泣いた。
のどが痛くなれば、がむしゃらに水を飲んだ。
時が止まったように無言になるときもあったけれど、少しすれば思い出したように泣いた。
そしていつの間にか暗い、泥のような睡眠の淵にわたしは落ちていた。
翌朝、わたしに目覚めをもたらしたのはクロバットだった。
「ん……」
耳にそよぐ風。ぐっ、と腹にのしかかる体重。全部、わたしのわき腹にうまく乗ったクロバットの仕業だった。部屋の中で起こる微風も、から生まれたものだ。
おはようの意味を込めて、羽をひらひらと動かす彼をそっと撫でる。
クロバットへ延びた腕。服の袖に寄っていた深い皺が伸びをする。トロピウスの背中の葉が撫でる窓ガラスには午前とおぼしき明るさが満ちていた。
「いてててて……」
体を起こそうとするといたるところが軋んだ。
頭、痛い。のども痛い……。感情にまかせた消耗の反動としてふさわしい鈍痛が体中に宿っていた。
この気だるい覚醒の味は、海から上がったときの感覚に似ている。
抜けきっていない憂鬱。水っぽく膨張する疲労。
寝起きという理由以上に整理のついていない頭から少し記憶を起こせばすぐにわたしの鼻がスン、と鳴る。昨日あれだけ喚いたというのにまだまだ泣けそうだ。
「……大丈夫だよ」
頭痛に思わず眉間を押さえた主人へそよそよと仰いでくるクロバット。わたしはそっと彼を抱きしめた。
ポケモンの存在は、わたしを安心させる。
この子たちはわたしに何の言葉もかけない。何も示さない。ただ、そばにいてくれる。そっと光に濡れた瞳でわたしを見つめてくれる。
そのことが分かっているからわたしはポケモンに甘えてしまう。
今渦巻く問題の前では彼らは無力である。そのことが不思議と、魅力として静かに輝いている気がした。
わたしを慰めるように体をすり付けてきたかと思えば、ひらりとクロバットは腕の中から逃れていった。目で追うと、この部屋の出口へと導かれる。
わたしのポケモンが扉の前に立つ。
それは、来客の印だ。
案の定、玄関をのぞくとすでに扉は開いていた。逆光の中に訪問者のシルエットが浮かび上がっている。
眇めた視界でわたしはその人物を確認した。
「どちら様ですか?」
「やあ」
「ミクリ……?」
いつもと同じく、緩やかな笑みを携えているミクリがそこにはいた。
「主人を連れてきてくれるなんてさすが君のクロバットだね。なんて賢い」
「どうしたの? なんでミクリが?」
「昨日、言ったはずだ。明日また様子を見に来るよ、と」
「……ごめんなさい。ちょっと頭がくらくらしてて、今は思い出せないみたい……」
「良いよ、そんな気はしていた」
話しながら彼の前へ近づいていきながら、思っていた。笑顔を作らなくちゃ、と。
ミクリのこと、笑顔で出迎えなければ。彼に心配を抱かせない、案外元気そうなわたしを見せなければ。
そんなからげんきを一瞬で忘れさせたのは、視界いっぱいに広がったのは赤色。
胸をしめつける酸っぱさのある香りが広がる。
ミクリの腕にあるのは見事な薔薇の花束だった。
「ど、どうしたのこれ」
「君のために」
白い歯を見せ、薔薇に負けない華やかな笑みをミクリはこぼす。そんな彼の手にあるだけでこの深紅の花は、バラではなく、薔薇と表記するのがふさわしいと思えた。
「嬉しいけど……、わたしがもらって良いの? こういうのって普通、恋人に送るものじゃない?」
「良いじゃないか。こんなに美しいんだから。それに美しいものはそれに相応しい人に送りたい」
「ミクリらしいね」
お世辞をお世辞と意識していないミクリの台詞にわたしが曖昧に笑っていると、すかさずミクリはもうひとつ、手に持っていたものを差し出す。
「こっちは、お菓子?」
「笑顔は君をさらに美しくするよ」
「ごめんなさい、気を使わせてしまって」
「良いんだ。それより、今日は素晴らしい天気だ。少し外に出た方が良いよ」
唐突に話題が変わったと同時に、ミクリは体の方向も変えた。
「そうそう実は私は前から、君の家のテラスに興味があるんだが……」
つまり、庭へ誘ってくれと。そうミクリは言っているのだ。
遠回しなアピールについわたしは笑ってしまう。
ルネのジムリーダー・ミクリとはこんなにひょうひょうとした人物だったのか。
経歴と、その性別などどうでもよくなってしまいそうに整った顔。ミクリについて知っていることと言えばそれだけのわたしは、彼の様子に驚かされた。
「よかったら見ていってくれない? このお菓子もせっかくだから一緒に食べましょう」
「ありがとう」
導きに乗っかって彼を誘えば、輝くような笑顔が返ってきた。
「どうぞ。こっちから奥に入れるわ」
ミクリの先を歩き、ふと空を仰いだ。
確かに今日は良い天気だ。ふわりと風がわたしの産毛をとく。風は春に向かって吹いていた。
「この前はごめんなさい」
「何か、謝られるようなことがあったかな」
あったよ、いっぱいあった。
けれどわたしは曖昧な微笑みを返すに止まる。
実際に言葉にできることは多くなかった。
わたしとダイゴの間に起きた問題を何も知らない人にどのように話したら良いのか、分からないのだ。
「謝りたいのはむしろ私の方だ。友人が、君に苦労をかけているようだから」
「友達、だったの」
「そう。あの場所に居合わせたのもダイゴに突然呼び出されたからなんだ。今日私がここに来たのはのことが心配だったのもそうだけれど、ダイゴのためでもあるんだ」
「ダイゴ?」
「元々器用な奴なんだが、珍しく困窮しているみたいでね。少し助けてあげたくなって」
ミクリと、あのダイゴが。意外な人物のつながりにわたしは驚いた。
同時に思った。やっぱりわたしはダイゴから逃げられないんだろうか。
ミクリがわたしを訪れた理由にダイゴが関係している。それだけのことが胸につっかえる。
まだわたしは彼の手の届くところに……。
「どうしたんだい?」
「え、あの、二人が友達だったなんて知らなくて驚いてたの。それに、思ったよりずっと仲が良さそうだから」
「そうだね。ダイゴとは長い付き合いと言えると思う。彼のことはよく見てきた。君のこととなると別の顔を見せるのも昔からのことだよ」
「そう……」
「………」
「………」
訪れた沈黙。正直、今一番されて困る話題はダイゴのことだ。
彼を思い出す度にわたしはまた混乱の渦に巻き込まれてしまうのだ。
ダイゴの事はもう、話したくない。思い出したくもない。なのに記憶には、ダイゴばかりが強く焼き付いている。
何なんだ、あの男は。なんでわたしは、彼との思い出を持ってしまったんだ。
頭がこんがらがって、怒りと、それ以上の塩水の気配がわたしを取り巻く。ああもう、ムカつくのかなんなのか分からない。
わたしが放つ負のオーラで悶々と渦巻く空気を少し変えるようにミクリが切り出した。
「ねえ、君は」
「何?」
「人前での君はまるで黄金の太陽だ」
「た、太陽ねぇ……」
しかも黄金の、と来るか。
ミクリの中でわたしはなかなかドギツい印象のようだ。
「でも、本当の君は銀の月だ。多くの人は気づかないけれどね」
「………」
その比喩を、どう受け止めれば良いのか。わたしには分からない。
肝心なところは示さずにミクリは続ける。
「月は傷を抱えながらも輝き続けるもの。わたしは月を見る度に思うんだ。誰かあの傷だらけの月を癒してあげてほしい、って」
ミクリのロマンチックな例え。それはわたし自身の話にうまく繋がらない。
「えーとつまりミクリは、ダイゴと月が仲良くなれば良いと思ってるの?」
自分で自分のことを月というのは気恥ずかしい。
受け入れるというよりは流しながら、話題に乗ってみる。
「その通りだ。ダイゴのためにも月のためにも、そう思っている」
「……どうしてダイゴなの?」
「………」
「ダイゴは全然謙虚じゃないし、自分勝手だし、趣味も変。家が良くても顔が良くても、そんなのは正直どうでも良いの。イケメンが何になるっていうのよ!」
さっきまで気が滅入っていたはずなのに、気づけばわたしは語尾を荒げていた。
ミクリも、わたしがいきなり怒り出すとは思っていなかったようだ。目を見開いたまま固まってしまっている。
「ダイゴじゃなくても、男の人なんてこの世にはいっぱいいる。ダイゴより優しくって正義感が強くって頼れる人をわたしは知ってるもの。なのになんでダイゴなの!? どうしてダイゴとかダイゴに関係するものばっかりがわたしの周りを占領してるの!? 意味分かんない!! ……ミクリ、どうしたの?」
気づけば固まっていたはずのミクリが肩を震わせていた。
きょとんとしていた表情が、みるみる赤らんでいく。
次第に目を潤ませはじめたミクリに、アンチダイゴの熱弁を繰り広げていたわたしも思わず固まった。
「……っく、」
焦ったように口を覆った動作でようやく気づいた。ミクリが笑いを噛み殺しているということに。
ついに耐えきれなくなったみたいだ。口を手で覆ったまま、ミクリは腰を折って笑いだした。
「っあはははは!」
「ちょっと。笑い過ぎじゃない?」
「ダイゴにそこまでケチつける女性は初めて見たから、ふふ……っ」
「本当にそう思うんだもの。しょうがないじゃない」
「そうだね。私も同じことを思ったことがある」
ひとしきり笑い、ミクリは目尻の涙を拭っている。
「ダイゴにもう一度だけチャンスを与えてほしいということを伝えにきたんだけど、そうか。はダイゴのこと、好きになりかけているのか」
疑問ではなく確信を、ミクリは口にした。