おまえを傷つけるぞ。その脅迫はわたしにとってはほとんど効力を持たない。自分の神経がくみ取った痛みに耐えるのは慣れた行為だ。もちろん痛い目にあうのはイヤだけど、耐えきれないものじゃない。無力に喘ぐくらいなら、傷つけられる方が救われる。わたしはそういうタイプの人間だ。
ツワブキダイゴを傷つけるぞ。それは、やめて!と叫び出しそうに恐ろしい脅迫だ。きっと多くに守られてきたであろうダイゴが傷つけられると思った瞬間、わたしは足下の土がごっそり無くなってしまったような、ゾッとした寒気に落ちてしまう。彼の痛みをわたしは感じられない。だからこそ、痛みは想像の中で無限に膨らんでわたしを恐怖の中へ押しやる。
直感的な恐怖を感じてる。
感じたことのない未来はどんな痛みをもたらすのか。未だ知り得ないためににわたしは怯えてる。
なぜだろう。君が傷つけられると、わたしまで傷つくなんて。
電話を切ってすぐ、わたしはモンスターボールを取り出し、手持ちをとりあえず3匹を呼び出す。
けれどそれは結局、自分を守るための行動だ。
「――違うっ」
わたしがしたいのは自分を守ることじゃなくて! ダイゴ。肝心なのはダイゴのことだ。
「でも、どうやって探せば良いの……?」
思考じゃなく、物理的に行き詰まってまたわたしは頭を抱えた。
錯乱気味の主人を見上げるポケモンたちの瞳。わたしを慕うこの子たちはきっと困っている。人間らしさを失って、恐怖するわたしに戸惑っているだろう。
その視線に気づきながら、わたしは悪寒に凍える頭を必死にを動かす。
「どうやって……」
どうやってダイゴのことを見つけたら良いんだろう。
わたしがダイゴのほとんどを知らないこと。薄々だけどそのことには感づいていた。
本当に何も知らないわけじゃない。あれだけよく視界に入ってこられたのだ。彼のことは脳に焼き付いている。ただ、それらは居場所を探るには全く役に立たない情報なだけ。
どこに住んでるとか、電話番号だとか。そういうツワブキダイゴの基本の基本がわたしには足りてない。
「ずるい」
ずるい、よね。ダイゴはわたしのこと、気持ち悪いくらいに知ってるのに。基本の基本も、そうじゃない情報も、こっちが嫌悪感を覚えるくらいにダイゴは知っているのに。
そのくせに求めるのだ。もっともっと、わたしのことを知りたいと暴こうとするのだ。
「………」
思い出しただけでまたせり上がってくる。胸焼けのような感情が。
ダイゴが追っかけてきてわたしが逃げての構図をずっと繰り返してた。今の状況はわたしがダイゴから逃げていた、その報いだ。
ダイゴのこと、エゴイストと呼んだことがある。わたしに関わりたがるのは君のわがままで、わたしが迷惑がってるのを無視してそのわがままを叶えちゃう君はなんてエゴイストなんだろう、って。
でも、今のわたしもエゴイストだ。
ダイゴの都合なんて見えないフリして、ダイゴに関わりたい。
もしダイゴに会えたなら今までの怒りを容赦なくぶつけたい。わたしを趣味じゃない暴力や暴言をさせたその責任までとらせてしまいたい。それが終わったら、ダイゴのことを遠くで案じるのをやめて、すぐ横に行って痛みを引き受けてしまいたい。その方がきっと楽だ。誰でもないわたし自身が楽なのだ。
あの人がどんなにすごいって表される人だとしても、わたしより腕が立つとしても、男だとしてもそんなの関係ない。わたしは、関わりたいというエゴを抱えている。
知りたい。今、君が無事であるか知りたい。どこにいるのか、知りたい。こっちが少し悔しくなるような得意気な顔が見たい。見たいよ。
家の戸を開けると、外では冷たい風が吹いていた。
やだなあ。夕暮れが夜に負けていく。
寒気を感じて自分の二の腕をさする。ヒヤリと冷えた自分の二の腕に、手のひらの熱さが不意に加わり体はますますぞわついた。
ダイゴを心配する夜になんて一秒でも染まっていたくないと思った。
「行かなきゃ」
困らせてしまったポケモンたちに笑いかけながら、わたしは自分にも言い聞かせる。大丈夫、大丈夫。
「うん、だいじょうぶだ」
本当はまだ、何もかもがおぼつかない。歩き出すのも少し怖い。
けれど言い聞かせる。やらなきゃ。大丈夫の次にわたしがわたしに唱え呪文は“やらなきゃ”だった。
「よし」
腹をくくり、わたしは自分のポケモンに向き直った。
「まずはリーグに行くよ。ダイゴについて、それと予告状の差出人について聞く。このホウエンどこにいるのか分からないダイゴを見つけるのはまどろっこしい。そもそも向こうだって、本気でダイゴを狙っているのかは分からない。時刻の指定だって無い。だからわたしはダイゴじゃなくて、ダイゴを狙っている本人をあぶり出したいの。誉められた行為じゃないわ。安全策でも無い。でも今やれることをやらなきゃ、わたし絶対に後悔する……。今ダイゴのため頑張っておかないと、後でどれだけ悔しい思いするか分からないって思うの。お願い、手伝って」
彼のためなにもしないことを選ぶのは、死ぬようなものだと思えた。だからわたしは余りに身軽に飛び出す。
その身軽さは様々なものを捨てて得たものだと分かっている。
わたしは失ったのだ。そして得ようとしているのだ。いや、すでに得た。得たから今こうして走り出せている。わたしは走り出せている。
「支部長、わたしです」
滑稽な台詞だった。もうわたしにはリーグへ介入する権限は何もないのに。
事務室の奥には悠々と支部長が席を構えていた。
「ナマエちゃん。どうしたの?」
「ダイゴ、いますか?」
念のために聞く。これでダイゴが見つかれば、苦労は無いのだけれど、支部長の答えはアッサリと楽することを切り捨てる。
「いや、今日はもう帰ったよ」
「……じゃあさっき電話で言っていた手紙、ありますか?」
返事を待たずにわたしは畳みかける。
「その手紙、見たいんです!」
「ちょっと、どうしたの? ナマエちゃんらしくないよ。落ち着いて」
「支部長こそらしく無いですよ……」
あえてわたしの眉間のしわを支部長が無視するから、わたしの顔はさらに険しくなっていく。
「やめてくださいよ支部長。あなたはそんな察しの悪い人じゃない」
「あーもちろん、分かってる、分かってるよ。その目を見れば分かる。君は無茶をしようとしているってことがね」
「………」
「うーん、ナマエちゃんのことだからなあ。大方、脅迫状の差出人を止める――いや違う、そうだな、説得するつもりなんだよね?」
「いいえ、聞き出すんです! その差出人がいつ、何をするつもりなのか!」
「あのねえ、こっちから危険物を刺激してどうするんだい」
真剣なわたしに支部長は取り合わない。取り合わないどころか、肩が凝ったな、というジェスチャーをし出す始末だ。
「まず、そんなことが可能なのかい」
「分かりません。手紙から手がかりを探してどうにか……」
「そもそも」
食い下がるわたしを振り切るように支部長は言い切る。
「ナマエちゃんはそんなこと大人の僕が許すと思ってるの?」
「それは……」
「ナマエちゃん、君こそもう少し賢い人だったはずだけど。冷静になって、警察に任せなさい。第一にね、君がそこまでやってあげる価値は無いよ」
「――あります!! ダイゴには、わたしがそこまでする価値が、あるんです!!」
それは支部長の首を縦に振らせるために必死に絞り出した台詞だった。
「いや、僕はダイゴくんに価値が無いって言ったんじゃなくて“脅迫状の差出人には関わってやるほどの価値が無い”と言いたかったんだけどね」
「あ……」
支部長の冷静な訂正にやってしまったと気づく。今何か、ものすごく告白に近いようなことを言ってしまった気がする。
ぼわわ、と音になりそうなくらいに熱が顔中にせり上がってくる。そんなわたしを楽しむように支部長はニヤつき始めた。
「そっか。そっかぁー!」
「ニヤニヤするのやめてください!」
「いや~、これはちょっと抑えきれないなぁ。若いって良いね!」
「親父臭いですよ!」
「だって僕親父だもーん!」
「この……っ!!」
「いや、まさかねえ」
「ちょっと! ニヤつきすぎですよ!!」
「ごめんごめん」
年甲斐もなくはしゃぐ支部長の顔は真っ赤になっている。笑いすぎのせいで、寄ったような赤ら顔だ。
ひとしきりニヤついてようやく収まったんだろうか。少し涙目になったまま支部長は今度は同情混じりの笑顔をわたしへ向けてくる。
「気持ちはよく分かった。けど、ごめんね。やっぱり僕から情報は出せない」
「そんな……」
「協力したい気持ちもあるし、ダイゴくんのことも気にかかる。でもね、この立場に就いてる人間としては――」
支部長が大人として正しい意見を言い出して、わたしが次の手を考えようとした。その両方を断つようにこの場に響いたのはコール音。デスクの上でプルルルル……とライトを点滅させたのは、内線電話だった。
支部長が一呼吸置いて、受話器をとる。
「はい、もしもし僕です。うん、……うん、例の? そうか……。ちょっと待って」
電話の口を押さえながら、支部長は苦笑ながらにその電話の内容をわたしに漏らした。
「噂をすればなんとやらって奴かな。参ったな、向こうから来ちゃったよ」
「“向こう”?」
「僕らが目星をつけていた、脅迫状の差出人だよ」
「……うそ」
「ほんとだよ」
「目星って、どういうこと?」
「ダイゴくんの就任から、リーグにずっと複数の妄言混じりのクレームが入っていた。男女ともに合わせて数件あったけれど、男でなおかつナマエちゃんに執着があって、しかも言ってる内容の一部が脅迫状の内容と被っててね。確証は無いけど僕らは彼を疑ってこの情報も警察に提出した。だから落ち着くのは時間の問題……って! ああっ、ちょっと!」
支部長はきっとわたしを安心させたくてこの事を教えてくれたんだろう。だから彼は始終穏やかに笑んでいた。
けれどその情報は正に望んでいた男への手がかりで、わたしが見境を無くすには充分な艶を持っていた。
気づけばわたしは支部長のデスクから体を乗りだし、受話器に飛びついていた。わたしが押し退けてしまった書類が床にばらける。ドミノ式に、多くの冊子が共倒れを起こし支部長のコーヒーマグまでもが傾いて中身をあふれさせる。
まだ支部長の手の中にある受話器に、わたしは口と耳を近付け、連絡係へ怒鳴りつける。
「ねえ、その男とこの電話、繋いで!」
『ええっ?』
「良いから、早く!!」
『は、はい。ただいま』
電話の中でノイズがまた別のノイズへと切り替わる。
繋がった回線。この電話の向こうにいるのが、ダイゴを傷つけようとしている人間。そう思ったら血が冷えきるような感覚とともに頭が熱くなった。
そして囁いた。
「もしもし?」
電話の向こうは沈黙だ。
「突然、ごめんなさい。信じられないかもしれないけど、わたしは――」
『ナマエ?』
「……ええ、そうよ」
初めまして? それとも久しぶり、と親しげに言った方が彼は喜ぶのかしら。
挨拶に迷って、けれど焦る心に背中を蹴られ、わたしは本題を切り出す。
「ねえ、わたしの為にあなたはしてくれるんだよね?」
電話の向こうの歪なエゴイストに語りかける。
「いつもありがとう。ねえ、」
“いつも”なんて嘘っぱち。全部全部、知ったかぶり。それでも電話の向こう君は喜んでしまうんだね。
「あなたのいる場所、教えてよ。お礼を直接言いたいの」
一層甘く、けれどごく自然にわたしはささやきを送る。
「ねえお願い、わたし、あなたに会いに行きたいの」
ゴクリと、支部長が唾を飲んだ。
「うん、うん……。それじゃあ、またね」
きっと向こうからこの電話を切ることは無い。だからわたしはみっつ数えてから、受話器を落とす。いち、にい、さん。
カチャリと、通信が切れる音がした。
「――警察を呼んでください。場所はミナモシティです!」
「ちょっと待ってナマエちゃん!!」
走りだそうとしたのに、肩を捕まえられた。ガッチリと捕まえられて、こちらを向かされる。
「行くの?」
「行くに、決まってるじゃないですか……!」
ダメ、とか、警察に任せようとか、またさっきと同じことを支部長は言い出しそうだ。
だからわたしもまた、同じようなことを叫ぶ。
「わたしはダイゴのためにここに来たんです!!」