Go back into my room


ミナモシティの松の木の影に憎き人を見つけた。
しゃんと伸びた背筋。すっきりと整えられた襟足が憎たらしいあの人の、背中を見つけた。
クロバットの上から伺ったその人の視線は鋭くとがっている。対峙する見知らぬ人物にダイゴが敵意を向けているから、わたしもその人間を敵だと、認識した。


「あいつが……!」


地面が近づかないうちにわたしはクロバットの背から降りていた。野生のポケモンに弾かれた無惨なモンスターボールのようにわたしはミナモシティの地に転がり落ちる。転がりながらもどうにか足を地面にくっつける。
転んでいるのか走っているのか分からないほどにひとりもつれながら、わたしはダイゴの背を目指し、対峙する人間を目指した。

とにかく相手を止めなくてはいけない。人間相手に出して良い技……、たいあたり? いや、すなかけなら!


「クロバット! す、すすす……!」


すなかけと、命じようとした腕を捕まえ止めたのはダイゴだった。


「落ち着いて、!」
「でも!!」
「彼はもう、拘束済みだ……!」


その言葉に弾かれて、周りが見えるようになる。
ダイゴの肩口からメタグロスが覗く。メタグロスから発せられる念のオーラ。そして瞬きすらもしない彼。その男の体は攻撃の体勢をとったまま、メタグロスのねんりきに固められていたのだ。
そして少し離れた場所には瀕死状態のポケモン。たぶん、彼の手持ちだ。

なんだ、もう大丈夫なんじゃない。彼が動けないことにどうして気づかなかったんだろう。
そう思って気を抜いた瞬間だった。男と視線が噛み合って、わたしは戦慄した。

裏切ったなと、彼の瞳が怒りに蠢いていた。呪いを注いでくるような黒い眼差し。激しい怨念がわたしを縛り付けて、目を背けられなくなる。


「……っ、あ」
、見たらダメだ」
「ごめんなさい……」
「見ないで……っ」


ダイゴがわたしの頭をギュッと抱える。男の姿はダイゴのスーツに遮られてもう見えない。
守られた視覚。けれど焼き付いた男の瞳の炎がわたしの脳裏に焼き付いている。
強く、くぐもった聴覚。自分の声さえも聞こえなくなるほどに強く抱き締められながらわたしは多分、こう言った。


「裏切ってごめんなさい。あなたの気持ちを利用して、ごめんなさい。でもわたしは嘘もつくし、ほかにもいろんなことをするんだよ……」


裏切り。その言葉の針をわたしの心臓は深く飲み込んだ。心臓とひとつになりそうなくらい、きっともう取り出せないくらいに、針は深く潜り込む。痛い。




「意味、分からないよ……!」


状況に異を唱えたのはダイゴだった。
ようやく頭を解放されて見上げたダイゴは珍しい、怒ってるみたいな表情だった。


がどうして謝らなきゃならないんだ!?」
「あ、ご、ごめんなさい……?」
「だから、謝らないで。ねえ自分で何言ってるか分かってる?」
「多分、分かってない」
「……バカ」


突然、ダイゴが雰囲気に合わない罵倒を言い出した。ダイゴにバカにされたのはきっと初めてだ。


のバカ。どうせ分かっていないんだろ。僕がなんでここにいるのか」
「偶然、じゃないの?」
「偶然なわけないだろ? 支部長が知らせてくれた。君がミナモシティに向かって男と会うつもりだって」
「支部長が……」
「ありがとう。でもさすがに君のことバカだって思った」


正直に言うとダイゴは顔をくしゃくしゃにした。わたしに呆れているような、悲しむような、でも多分この人は本当は笑おうとしているような。


「無事で、良かった。心配した」


ダイゴが笑いかけようとしてくれている。そのことにわたしは途方もなく安堵して、涙が滲んだ。



「……心配したのはわたしの方だよ。怪我、してないの?」
「僕はこれでも現リーグチャンピオンだよ」
「そんなの何が関係あるのよ」
「関係あるだろ。僕にはポケモンがついてる。」
「わたしが言いたいのは! ダイゴだって、ただの男でもあるでしょってこと」
「………」
「怖、かった……」


そのまま、わたしはしょぼしょぼと彼のスーツを濡らした。ダイゴのために泣くことに、違和感はあまり無かった。そのことが本当はおかしいのに。わたしはダイゴのために泣くことに疑問を覚えなくてはいけないと思うのに泣いてしまう。止めることが出来ない。
彼が頬をさわってくるせいで、彼の指先、そしてあの不思議なリングたちも濡らしてしまった。ぼんやりと、脳天気なもうひとつの思考でそれを申し訳なく思った。

少し見上げるとそこに在るダイゴの顔は驚きに固まっている。目を見開いて、うっすらと開いたままの唇。目の前の光景が信じられないと、その顔には書いてある。


「わたしが泣いてるのが、そんなにおかしい?」
「いや、そうじゃなくて」


そう言いながらダイゴは視線を反らした。その視線のやり方が明らかに誤魔化しの意味を含んでいる。少しは違和感を感じているらしい。


「わたし、それなりに人間らしい人間なのよ……」
「知ってるよ。そんなのずっと感じてた」


当然だよとダイゴが付け足す。そっと頭を撫でられ、胸へと寄せられて、わたしは結局警察がその場に到着するまで、涙をダイゴのスカーフで拭った。







本日、陽が暮れる少し前。
ホウエンリーグの支部長からわたしがミナモシティに向かったという連絡を受け、わたしとその男の遭遇を阻止するべくツワブキダイゴもミナモシティへと足を向ける。わたしよりもいくらか早くミナモシティについたツワブキダイゴへ、その男は襲いかかった。手持ちのポケモンをけしかけられツワブキダイゴもポケモンを以て応戦する。ツワブキダイゴのポケモンに手持ちを全て押さえられ、その男は素手でツワブキダイゴに襲いかかろうとしたため、ツワブキダイゴは相手をメタグロスのねんりきで拘束。そしてツワブキダイゴが警察に通報した後、結局一番遅れてやってきたのがわたしであった。


一通りの手続きが終わり、わたしたちは警察署から出た。
あちらは現行犯逮捕。ツワブキダイゴには正当防衛が成立すると思われる。

あの男の詳細や今後なんて、聞いても良い気持ちにはなれない。彼が捕まったという以上の顛末を、わたしが誰に語ることもないだろう。
後日の処理にわたしはどこまでつき合うべきだろうか。責任を、感じている。見知らぬ男になど構っていられないが、わたしには彼をそそのかした事実がある。
しばらく警察署や他の機関にはお世話になりそうだ。わたしは背後の薄灰色の建物を振り返った。
すぐに、犯人につき合うことを選択をしたわたしのこと、バカだ愚かだと叱るであろう親しい顔がたくさん、浮かんだ。

瞼の裏に浮かぶ顔を思うと、指先が冷えきるような心地がした。ごめんなさい。わたしを好きだと言ってくれる人たち。

血が抜けていく冷たい指先を、手首から掬うようにして手に取る人がいた。やはりダイゴだ。
ダイゴの手も暖かいとは言えない温度に落ちていたが、けれどわたしより熱はある。冷たい手を寄り合わせながらダイゴは問いかけてくる。


「ねえ、僕が前にあげた指輪、持ってる?」
「……捨ててはいないよ」
「なら、良かった。どこにあるの?」
「家。コートのポケットに入れっぱなし」


捨ててはいないけど、はめてもいない。コートのポケットにあるのは、君に突き返そうと思ってそのまま忘れていたからなのだけれど、ダイゴが気にする様子は無い。
指輪の雑な扱いを嘆くこともなく、むしろそれだけ聞ければ上出来だとでも言うようにダイゴは笑んでいる。


「じゃあの家に行こうか」
「な、なんで?」


言うが早いか、ダイゴはそのままわたしの手を引き歩きだした。
まさか、指輪を引き取りに来てくれるとか? なんて考えはあまりに場違いで、口をつぐむ。


「すごく、はめさせたくなったから」
「……はぁ?」
「やっぱり君は僕のものなんだと思って。早くちゃんと捕まえなくちゃって」


早く捕まえなくては。それは今こうしてわたしを連れ去っておきながら言う台詞だろうか。わたしの手を握っているのは紛れもない貴方なのに。


「君は本当に優しい人なんだね」
「……どこが?」
「自分のせいで誰かが傷つけられるのを見過ごせないところ。という人間のことだから、こういうことが起こるんじゃないだろうかって心のどこかで予測はついてた。ごめん、計算なんかして。けど、なんだろうね」


半歩先にあるダイゴの後ろ姿。
髪が少しかかる耳のかたちが歩調に揺れている。


「僕は妬まれ慣れているんだけどな。僕はただの人間だと言って、その上僕のために泣いてくれる人がいて、それがだってことが嬉しい。嬉しいんだよ」


少し前までの、わたしにツワブキダイゴと呼ばれていた頃の彼とその後ろ姿はダブって見えた。
ダイゴが元の調子を取り戻していく。けれどわたしは違った。わたしの視界はもうダイゴを他人として映さない。世界が表情を変えたとまで感じるようなひとかけら、胸をしめつける感情が、生まれてしまっていた。