君が鍵を出せと言うから鍵を出し、指輪はどこだと言うから床のコートをわたしは拾った。
獣的だった。コートのポケットから目当てのものをもぎ取り、ダイゴは肝心の物をつまみ出すと箱を投げ捨てる。かん、かこん。暗い部屋のどこかで放られた空箱が虚しく踊るが、見向きもせずダイゴはわたしへと襲いかかる。やはり獣的だ。人間性を失っている。
強引に右腕をひかれ、わたしはされるがまま肩から先をダイゴに奪われる。そして彼が常にしているのと共通するデザインの指輪がはめられた。音も無く指を昇ってくる銀の輪。
こういうのって普通、向かい合ってはめるものじゃないんだろうか?
けれどわたしの腕全体を抱え込み、無理矢理つけるところは首輪をつけるのにふさわしい仕草だった。
後ろから拘束をしてくる、指先の保有者に投げかける。
「これで少しは落ち着けそう?」
わたしを形で捕まえて。
「どうかな。でも思ってた以上に、満足だ」
「なら良かった」
自分のものではないような指先と指輪を眺めながら、
「これから話すのは、秘密の話」
「………」
「ここだけで存在する話。朝になったらすっかり消えて、透明になってしまうような話」
これを語る時が来たんだ。ついに白状し始めたわたしは今どんな表情をしているんだろう。
そっと返された、うん、という頷き。
「わたしは確かに思ってたよ。リーグから解放されたい、と」
また、うん、とだけ返される。目頭が熱くなった。
「リーグが大切だ、チャンピオンの品位は守られなければならない。そう思って10代を過ごしたのも本当。でもどこかで、もうどうでもいいやって思ってたのもホントウ」
「うん」
「気づいちゃったんだよね。わたしのやりたかったことは、ポケモンリーグで偉くなることじゃ無いって」
わたしの背筋を熱く駆け上るのは、尊守し、重んじてきたものが無意味だったと気づいた瞬間の虚無。
自分のやりたいことを我慢して、チャンピオンであり続けることにどんな意味があるのか分からなかった。いつしか分からなくなってしまった。
「わたしはチャンピオンになりたかったんじゃない。ただポケモンと旅をするのが楽しかっただけの単純な子供だった。たくさんの人が、大好きな人たちが褒めてくれるから、チャンピオンを続けてた」
「うん」
「その癖に、なんでだろう。気づいたときにはわたしはチャンピオンの立場を恨んでた。わたしをリーグに、窮屈な世界に縛り付けるから」
「うん……」
「だから」
だからわたしはリーグの中身をいじって変えた。
20歳以下の少年少女が、チャンピオンを継げないようにした。才能ある他の幼いトレーナーが、わたしの二の舞にならないように。つぼみが閉じこめられないように。
それは未来を憂いた革命でもあったが、やつあたりでもあった。子供なわたしを未成熟なシステムはかばってくれないからと、抱いた怒りだった。
けれど今の立場を嫌と言えない、良い子なわたしが上げた、身勝手な悲鳴だった。
低俗な言い方をするのなら、他ならない自慰行為。
「そうやって立場を利用した。わたしは悪い人間なの」
ダイゴは頷かなかった。
「わたしがここにいることは正しいと、感じた時なんて無かったよ」
違和感は、何度も何度も胸の奥に閉じこめた。
自分に課せられた立場を受け止めて、ただ、正しくあらねばならないと、誰が口にしたでもない正義を守っていた。
「チャンピオンであり続ける意味なんて、ずっと前に無くなってた。でも誰にも伝えられなかった。知られたくなかった」
お父さんにも、お母さんにも。四天王のみんなにも。わたしに優しくしてくれる全ての人の、気持ちを裏切るようなことはできなかった。
「言えるわけ無いでしょ? わたしはチャンピオンよ。ポケモントレーナーなら誰しもが一度は見る夢を、掴んだひとりだもの。わたしは幸せなの。自分が不幸だなんて、思っちゃいけないの。思ったとしても誰にも気づかせてはいけないの」
大切で、守らなければならなくって、憎たらしくってむかついて、嫌いなんだけど傷つけるようなことは言えなくて、でも、どうでもいい。
そういう感情でわたしはリーグを愛してた。
「ねえわたし、間違ってるでしょ? 」
こんな間違った考えを持つ人間に、逃げ場なんてなくて良いと思っていた。
「なのに、なんでダイゴは現れたの? なんでダイゴなの……っ?」
なぜ今、救いの手は差し伸べられているんだろう。そしてその手がわたしを後ろから抱きしめてくるのは、なぜ?
「僕が御曹司だからかな」
ふわりとした笑みに添えられたあっけらかんとした答えはダイゴらしかった。
「誰もが羨むような裕福な家庭に僕は生まれた。でもそれはただの偶然だ。運命と呼ぶことも簡単かもしれないけれど、僕にとってはたまたま巡り会った“偶然”でしか無い。偶然だからこそ受け入れるしか無いよね。僕は幸福なんだって」
緩やかに語り出すダイゴの、穏やかな表情。ぬるま湯のような語り口で、わたしの名前が強く呼ばれる。「」と。
「お金があるとか、容姿がどうとか、そんな目先の価値観にとらわれないで。自分は幸福なはずだなんて。全部、どうでもいいよ。僕にとってはがどう感じているかの方がずっと大事だ」
ダイゴは次々に紡ぐ。嘘としてしか存在を許されない言葉を。
「世界はどうにもならないことばかりだけど、君だけは救いたいと思った。救われて欲しいと思ってた」
「なんか、大げさ」
「どんなこともするよ。君を手に入れるために」
もうわたしには、肩にあるこの人が今どんな表情をしているのかが分かる。柔和な笑みが、怪しく張りつめた影を帯び始めたことも、分かる。
「の望みを教えてよ。僕なら叶えられる。僕が、世界から君を隠してあげるから、ねえ」
夢のような出来事にそぐわない、現実的なギブアンドテイクが提示される。
ダイゴなら言葉通りのことをやるんじゃないかと、経験が戦慄く。リアリティをはらんだ取引に心臓がその体を捻った。
「は僕のものになろう」
このタイミングで近づけられた唇を、わたしは目をつぶって受け入れていた。
「――何よ、その顔」
今夜のダイゴは秋のように表情豊かだ。月光に照らされる頬は大人びていて、けれど瞳は子供のように煌めいている。
「僕は本当に、しょうもないなって。嬉しいことだらけだ。僕はやっぱり、のことが好きだ。どうしようもなく好きなんだ」
ぎゅうっ、と一瞬だけ強いハグをして、ダイゴはわたしから離れた。
「今答えが出なくても良いんだ。どんな返事でも良い。いつまでも、待ってる。ただ……」
「ただ?」
「君のこと少し諦めかけたんだけど、やっぱりやめることにするよ」
強気にダイゴは笑って、それじゃあ。風邪をひかないように。戸締まりに気をつけて。などのわたしを気遣う言葉を少し残し、月光の中にダイゴは消えていった。