Suffering is optional.


「ダイゴくんのせいで知らないんだろ? 俺がをトキワのジムリーダーに推薦したこと」
「トキワジム……カントーの?」
「ああ。前のジムリーダーがちょっとあって、な。以来未だに席が空いてるんだ」


前代のジムリーダーのことを思い出したのか、少し眉を潜めてワタルは言う。


「チャンピオンに比べれば地味な仕事かもしれない。ホウエンを離れることになるが、それでもの良い経験になると思う。トキワはのんびりしているがいろんな発見があるはずさ。俺の勤めるリーグも近いからいつでも力になってやれるし、腕を磨こうと思えばシロガネ山がある」


たくさんの利点をワタルは並べてわたしに聞かせる。どれだけトキワが良いところであるか。自分の手元がどれだけ心地良い場所であるか。
それでも棒立ちのまま、表情さえ変えて見せられないわたしに更にワタルの言葉は急ぎ気味に続けられる。


「はっきり言う。俺はを連れ出しに来たんだ」


多分、幼い子供や妹分を言い聞かせる時の癖なのだろう。ワタルはわたしの足下にかしずいて優しく話しかけてくる。
そんなワタルのことを、わたしはぼんやりと王子様みたいだなあと思っている。カイリューに乗ってやってきた王子様だ。

そういえば、わたしはずっと、この人が迎えにくるのを待っていた。
ワタルならきっとわたしをどうにもならない現実から連れ出してくれる。リーグという義務から、不確かな繋がりの家族から、他人の中で勝手に肥大化した“わたし”から、わたしを引き上げて救ってくれる。優しくて強いワタルなら守ってくれる。
そう幼く憧れ、夢を見ていたことを思い出した。


「無理強いするつもりは無かったんだが」


ワタルの顔が自嘲に歪む。


「でもが困ってるって言うんなら、俺は黙ってられない。連れ出したい」


ワタルがわたしの右手を掴んだ。これがいつも大人であろうとしていたワタルが初めて、個人的で感情的な衝動でわたしに触れた瞬間だったと思う。
けれどすぐにワタルの動きが止まった。
握ったわたしの手に、堅い違和感を見つけたようだ。気づいたらしい。薬指の指輪に。


「これ……」


今まで服の陰に隠れていた薬指が、わたしとワタルの間へ現れた。まるで、二人の間を隔てるように指輪は輝いた。
デザインで、わたしが言うまでもなく気づいてしまったようだ。これがワタルが今、最もわたしから距離をとらせたい人物のものであると。

逃げよう彼から。さっきワタルはそう言った。
わたしは思わず瞼で目を覆う。ワタルってば遅いよ。


「ジムリーダーの席をわたしに、って言ってくれてありがとう。でもごめん。本当にさっき決まったことなんだけど、わたしダイゴと向き合うことにしたの」
「………」
「そう、せざるを得ないかなって思って」
「ダイゴくんのことが好き、なのか?」
「その答えはまだ無いんだ。これから出すつもり」


ワタルは当たり前に、意味がわからないって顔をしている。


「ごめん、意味分からないよね。わたしもよく分からないや。でも、ダイゴに向き合うことがわたしにとってすごく重要なことだと思うの」


ダイゴと出会ってから別に良いことばかりじゃなかった。怒って悩んで嫌悪して、我慢して執着して恥ずかしくなって、寂しくなって、後悔して、夢見ていた自分に気づいたりして、そんなことを繰り返して、悲しくなった。
それでもダイゴと、なんて思ったのは、悪い出来事と同じくらいしきりに伝えられたからだ。わたしが好きだと彼が言ったから。こんなわたしを好きと、ダイゴが何度も言っていたからだ。


「わたし、変わりたいんだと思う。だからダイゴっていう人間と一緒にいてみようって決めたの。見ないようにしてたものとか、逃げてたものとか、自分自身に向き直れる気がする。そのことが一番大きいのかな」


何かを必死に取り戻そうとしている、穴に落としてしまったものを拾おうとして自分まで落ちそうになっている、無くしたものと全く同じものを捜し求めてさまよっている。
そんなわたしを、ダイゴは知っている。わたしは浅はかな人間だ。わたしは満たされない人間だ。わたしは飢え喘いでいる人間だ。わたしはちっぽけな人間だ。ダイゴと関わってるとそう知らしめられる。受け入れ難い自分と、どうしようもない現実をダイゴが教えてくれる。

そう。不完全なわたしを見抜くダイゴを通して、わたしはわたしを知るんだ。不思議としか言いようが無いけれど、ダイゴを知ることが自分を知ることに繋がっている。


「ほんと自分の為に、だね」


人生が切り替わる。そんな予感がずっと警報を鳴らしている。もしかしたら福音なのかもしれない。弾けそうなくらいに鐘の音が荒々しく鳴っているのだ。


「ごめんね、ワタル。わたしは、大丈夫なの」




正確な時間は分からないけれど、長いことワタルは黙り込んでいた。
眉を寄せ、時々わたしに見えないものを振り切るように頭を抱えた。ややこしい問題を抱えた時、ワタルがよくやる仕草だった。
思わずわたしはまた謝罪を口にしてしまう。


「ごめんなさい」
「そんなに謝らないでくれ」
「ごめん、ワタル」
「何も悪いこと無いだろ。が選んだなら」
「ありがとう」
「俺はもう分かった。分かったからな!」


正直なところ、いまいち納得していないのがまるわかりだ。でもとりあえずは“分かった”ということにしておいてくれるんだろう。完璧じゃない優しさにくすぐられて、わたしの表情にも笑顔が戻ってくる。


「トキワのジムリーダーの宛はあるの?」
「いいや。唯一見込んでたがやらないって言うからな。一から探し直しだ」
「ごめんってば」
「全く……。俺はしかいない!と思ってここまで来たんだが、まさか断られるとは思わなかった」
「あのさ」
「ん?」


脱力した様子のワタルに近寄って、わたしはずっと心に引っかかっていたことを打ち明けた。


「彼、今何してるのかな?」
「彼って誰だ?」
「ごめん、名前はど忘れしちゃった。えーっと、あとちょっとで思い出せそうなんだけど……」


外見は思い出せても名前だけがうまく記憶から引き出せない。
小生意気な男の子の顔が浮かぶ。憎たらしいが、女の子が落ちてしまいそうな笑顔。明るい茶髪。その髪型と同様に尖った才能を持つ、非凡なトレーナーだった。


「思い出した! グリーンくんだ!」
「それって、あの時のか?」
「うん! グリーンくん、元気にしてる?」
「いや、俺は特に連絡はとってないな」
「じゃあ連絡してあげて。ずっと気がかりだったの。あの時はひどいことしちゃったから。わたし、グリーンくんにトキワジムのリーダーになってもらいたい」
「彼にトキワジムを任せるのか? 他のジムならまだしもトキワジムを? は知らないかもしれないが、カントーでは最近ロケット団の騒ぎがあって……」
「グリーンくんに何か不足があるの? 実力ならワタルが一番――ううん、二番目に良く知っているはずだよ」
「二番目?」
「レッドくんの次にワタルが、ってこと」
「うーん……」


顎に手をあてワタルは考え込んでいる。
あともう一押し。ぐい、と近づいて手を合わせて頼み込む。


「お願い、わたし、推薦状書くから」
「何もそこまで」
「旧チャンピオンの推薦状じゃ効力無い?」
「そりゃあ効き目は充分あるが」
「じゃあわたし書く! 何十枚でも何百枚でも書くから!」
「……しょうがないな」
「ありがとう!」


嬉しくて思わず抱きつく。しっかりとした腕がわたしを抱きとめる。確かめたワタルの感触に、穏やかすぎる自分の胸の鼓動で悟る。わたしはワタルとはやっぱり恋人になれない。


「またお前は自分ひとりで決めて……」


その時、そんな台詞がため息とともにそっと耳元に届いた。


「っあはははは……」
「なんだ、どうしたんだ?」
「ごめん、だって、笑えてきちゃって」


ワタルのたくましい身体に抱きつきながら、わたしが考えているのはダイゴのことだ。

本当に、ワタルの言うとおりだ。
ついに選んでしまった。自らの手でダイゴに囚われる未来を選んでしまったのだ。

わたしは彼はのモノになってしまった。
さあ、ダイゴに縛られるほんの少し不幸な生き方の始まりだ。