the Gospel


「何をそんなに照れてるの?」
「いや、そこまで認めてくれてるなんて思わなくて」


表情を隠す仕草はダイゴにしては珍しい。
彼は口元を手で覆う。けれど赤い耳がしっかりと髪の毛から覗いている。


「わたし何かダイゴを喜ばせるようなこと言ったっけ」
「大切な人、って言った」
「そんなとこから聞いてたの!?」


見上げるとダイゴは目をあらぬ方向に向けてわたしの視線から逃げ出すんだから、ダイゴは少し気が弱くなったと思う。この間の喧嘩と攻撃がそれなりに効果をあげたのだろう。


「……あの子と電話番号交換してたね」
「何よ、チェック入れたりして。もう恋人になったつもり?」
「恋人面してるわけじゃない。単なるヤキモチだよ。片思いの人間にも嫉妬する権利はある」


わたしはこっそり舌を巻く。あのダイゴが、人間のごく最低限の権利を主張している。今日は珍しい事続きだ。
ずっとベンチの後ろで赤面していたダイゴは小さくなりながらようやくベンチについた。
数センチ距離をあけられて座られる。これも今までのぶつかり合いの成果なのだろうか。常に挑戦的にとられていた距離が、今では同情を誘うような隙間ができている。
わたしのスカートとダイゴのスラックスの距離を見つめてふう、と肩を落とす。次に吸い込んだ息にはふわりとしたダイゴの香りが混ざっていた。


「バトルの約束をしただけ。あなたを破ったあとに、連絡してくれるって」
「じゃあ心配いらないね。僕は負けない」


にわかに自信を取り戻してダイゴは言った。やれやれ。そんな調子で良いのかしら。わたしたち大人はいつ足下掬われてもおかしくないのに。


「あ。あの子がリーグに挑戦する頃は、わたしがチャンピオンに復帰してる可能性もあるね」
「え?」


自信に満ちた顔が憎たらしくて、ついニヤッとしながらわたしは意地悪をする。


「ねえ、ダイゴ。わたしが今チャンピオンの座が欲しいって言ったらダイゴはどうするの?」
「喜んで。のためなら僕はいつだってチャンピオンの座をささげるよ」
「ふーん」
「信じてないね」
「だってダイゴは嘘を言ってるもの」
「……そういうところが好きだよ」


ダイゴもいたずらっぽくニヤッと笑った。


「真面目に答えて」
「僕は何にもしないよ。もしが本当にチャンピオンの地位を離したくないのならもう奪いに来てるよ。力ずくでね。僕が倒せそうにないから、なんて言い訳は聞かないよ。だって相手の強さを知りながらも挑戦するのが、ポケモントレーナーって生き物だ。そうしたら僕がにしてあげられる最高のことは、ただあの場に立っているだけ」


分からせただろ、と囁き声が落ちる。


「僕はそんなバカな男じゃない。譲るなんてことするわけがないよ。そんなのはのためにならない。僕があげたいのはが欲してる以上の幸せなんだよ」


よく言う。わたしは猛烈に、今までダイゴが犯してきたであろう罪をリストにして読み上げたい。


「そのために、たまに奪うこともあるよね」


呆れた顔を読み取ったんだろう。ダイゴはそう付け足した。


「ホウエンという土地が僕は好きだ」
「……わたしもだけど?」
「たくさん歩いて冒険をして、これ以上無いってくらい好きになった」
「わたしもだけど」
「それは嘘だ」


いきなり否定されて面食らう。


「嘘じゃない」
「嘘だよ」


抗議のために眉をしかめて睨んだが、ダイゴは優しく否定する。


はまだホウエンを好きになれる。好きになれるし好きになりたいと思っている。隅々まで知り尽くしたいと思っている。だからはホウエンの冒険をジムを一巡りしただけで終わらせたことを後悔してる」
「……ダイゴってどこまでわたしの事知ってるの?」
「僕だって知らないことばかりだよ」
「みんなわたしの事は知ってるけど、知らないはずなのに」


膝の上で重ねた手に力がこもってしまう。自分の爪が自分の肌に深く食い込む。


「僕らはそれぞれ旅をしてきたけど、もう一緒にしてしまおう。ふたりでひとつの旅をしよう。僕が過去のすべての後悔から解放してあげる。僕が好きで、もきっと好きになるものをたくさん教えてあげる」


過去のすべての後悔をほどく。ダイゴなら可能かもしれないとわたしは思ってしまう。
わたしが隠そうとしたから、形を得られなかった気持ちたち。主人に押し殺されそうになって死に際に変形した気持ちたちが、わたしにはたくさんこびりついている。膿んで黒く焦げた後のようなそれはわたしがいくら逃げても離れてはくれないのに、ダイゴの声で言葉を当てはめられると嘘みたく洗い流されるのだ。
ダイゴの声に存在を認められれば、後悔はぬるま湯をかけられたかのように、溶けて流れ出す。
そしてわたしは心の一部が凍っていたことに気づくのだ。


「僕のお気に入りはりゅうせいの滝がある洞窟。少しは行ったことあるよね? 僕はそこにいつも石を見つけに行く。いつもたくさん拾うんだ。毎回新しい発見があっておもしろい」


ダイゴは無邪気に洞窟のことを語り始めた。わたしは言葉を窒息しそうなほど詰まらせているというのに。


も連れて行ってあげるよ。僕が連れていってあげる」
「ダイゴはさ、わたしで良いの?」


これをずっと、聞きたかった。


「わたしはなんにも持ってないよ。もうチャンピオンじゃなくなったし、テレビに出てるわけでもない。見た目だって……。恵まれてるって言われるけど、そんなじゃない。こんなわたしでも、ダイゴは一緒にいたいだなんて思うの?」


いつだってわたしという存在は、どこにでもいる女の子だ。わたしにとって“わたし”は特別な人間ではない。
自意識と対を成して芽吹いた幼稚な怯え。それすらもわたしはもうダイゴに隠せずにさらけ出す。


は重要なことを忘れてる」


ダイゴからの返答は素早くて、すっきりとした音色だった。


「誰もが憧れる""という幻想を壊したのは僕だ。ただの女の子。そういう君を創ったのは僕だ」
「………」
「好きで壊して、好きなように創った」


降参だ、と思った。
白い旗が、風を精一杯受けて洗いたてのシーツのようにはためいている。
肩に羽織っていた重いコートを脱ぎ捨てて、手錠をはずされた。
ようやくわたしは勇気を抱く。身勝手になって自由になって、自分の思うように生きるという勇気。幸せを得ようとする勇気を。

わたしは膝の上で重ねていた手をそっと開く。ずっと自分の手で隠していた。これを見せることがわたしにとってダイゴにとって強い意味を持っているから。

自分の手の熱で熱くなった薬指を、そっと青空に見せる。彼から送られた銀の指輪がついた薬指を。これがわたしの返事だった。


「ねえ、。抱きしめて良いかな」
「いつかすることを今我慢する意味なんて無いんじゃない?」


そう返せばダイゴは彼らしさを失いながらもつれてきた。わたしは、ダイゴのそんな余裕の無さが不思議と嬉しくて、引き寄せられる力に身を任せたのだ。