紙、紙、紙。わたしの仕事は意外にも紙と向き合うことが多い。駆け出しトレーナーだった頃は向き合うものと言えば出会ったポケモンと、新たに踏み入れた新世界。紙に触る機会と言えば、旅のレポートくらいだった。そのレポートも一行一行に感動や反省が込められていたっけ。
こうも感情の無さそうな文章を乗せた紙に埋もれていると、ところどころ泥のついてしまったノートに一心に旅の記録を書き込んでいた、あの頃に戻りたくなる。
バトルを終えたわたしとワタルは早々に執務室へこもり関係書類を引っ張り出した。今回のグリーンくんの出現に合わせ、諸々の手続きを進めるためだ。あの条例はほとんど完成に近づいていたのにグリーンくんのやろう、滑り込みで本当に面倒事を呼び込んでくれた。
「ところで」
「何?」
「お前、グリーンに勝ったな」
「うん、勝ったけど……、………あ゛」
ワタルに改めて言われて気づく。
わたしが勝ったのは、ワタルを負かした相手だ。
おわかりいただけるだろうか。
ワタルはグリーンに負けている。
そのグリーンにわたしはついさっき、ワタルの目の前で勝っている。
バトルには相性もあって簡単に実力は計れないとしても、わたしはワタルの敗北に新たな敗色を塗り付けたのだ。
全く気づいていなかった事実に、血の気が引いていく音が聞こえた。
自分が可愛げのない女の子なのは分かっていたけど……。好きな人を越える戦績を持ってるなんて、可愛げなさ過ぎだ。
「いや、良いバトルだったよ」
「ま、待ってワタル! わたしが勝ったのは偶然だよ!」
「そうか?」
「そうだよ偶然に決まってるよ! グリーンくんがホウエン地方のポケモンを知らないと知ってやったんだし。トロピウスの珍しさを利用したの、まぐれみたいなものだよ。よく見ればごり押しだったってワタルも分かってるでしょ、だから、だから……」
「こら」
ワタルが人差し指でわたしの心臓の辺りをたたいた。
とんとん、と優しく教えるように。
「まぐれだなんて言うな。失礼だろ。グリーンにも、のポケモンたちにも。偶然でも勝ちは勝ちだ」
「あ……」
「それにフォローになってないぞ。俺はそれもできなかったからグリーンに負けたんだ」
ごめんの言葉が口を突きそうになってぐっと押さえる。
謝っても、ワタルがますます惨めになるだけだ。
年端もいかない少年に敗北をきして、悔しいはずだ。叫びたいくらいに。そのグリーンを誰よりも先にわたしが倒してしまった。
数日の間で二重に敗北を見せつけられたのに、それでもワタルは笑った。グリーンに勝ったわたしをおめでとうとワタルは讃えた。
「の勝ちを責めるつもりないんだから、そう落ち込まないで」
「でも……」
「なんなら今からうちの四天王倒してくるか?」
「え、なんで?」
「そしたらがカントーチャンピオンになれる。ホウエンカントー兼任チャンピオン。また初の偉業だな!」
「いやいや、非公式戦だからね!?」
「あはははは」
ワタルの朗らかな笑い声で完全に部屋の空気が変わった。
本当になんて言ったら良いか。胸の内で暴れ出しそうな感情を制御し、自分を律する彼を、強い人なんて簡単な言葉では表せきれない。
「ワタル、大変な時なのに本当にありがとうね。わたしも、……頑張るよ」
ワタルの目の前だと“頑張る”という言葉ってすごくちゃちく思えた。
ワタルは何も言わなかった。代わりに目と目で通じ合う。ワタルはわたしにとって比べようもないくらい高みにいる人間だ。なのに立場を同じくする人間だからか、ワタルが寄り添うように優しくしてくれるからか、こうして言葉がいらなくなる時がある。
わたしの胸が幼く跳ねる瞬間だ。
雰囲気を壊したのは、ばすばすと廊下を踏み抜く足音だった。
「なんだ……?」
「いい、わたしが出るからワタルは作業を続けてて」
すぐに音の主が誰か分かった。来たな。また明日と言ったはずなのに。
「おい!」
執務室のドアを開けたそこにいたのは、ほらやっぱりグリーンくんだ。
わたしの顔を見るなりかみついてくる。
「オレをチャンピオンにしろ!」
「えー? ヤダ」
「なんでだよ……!」
「子供チャンピオンに反対だから」
「自分だって子供だろ!」
「確かにわたしも若い方だけど。わたしと君じゃトレーナーとしての年期が違うのよ」
「っ聞いたぞ! 今の最年少記録を持ってるのはあんただ」
「へえ、よく知ってるね」
「おい卑怯者! あんたがオレをチャンピオンにしないのは、自分の記録が破られるのが怖いからだろ!」
「何言ってるんだか……」
わたしがそっと扉を閉じようとすると、グリーンくんの声は激しさを増す。
「逃げるってことは、図星なんだろ! 違ったらオレをチャンピオンにしてみろよ!」
「ちょっとそこの警備員、この子邪魔だからこのフロアからつまみ出しといてくださーい」
「おい……!!」
「残念、この部屋は一般人立ち入り禁止だから」
「オレはチャンピオンだ!」
「一般人でーす。どうみても一般人のマセガキでーす」
「なんだとぉ……!!」
バチバチとビームでも出そうなくらい煮え狂った視線が飛んでくるけれど、火花は散らない。わたしには取り合う意志なんてないから、ビームは一方通行だ。
程なくして警備員が来てグリーンくんは強制退場となった。大人の警備員に摘まれている様子を見るとやっぱりグリーンくんは子供だ。
「……」
「言わせておけば良いのよ」
ふう、と一息ついてドアを閉めた。
「いや、そうじゃなくて、俺は思うんだが……」
「ん?」
「俺たちはグリーンを利用するんじゃなく、彼を協力者として迎えるべきじゃないかな」
いきなりの提案にわたしは思考停止気味。一応ゆっくりと動いているけれど、グリーンくんを巻き込んで何になる? そんな疑問でいっぱいいっぱいだ。
ワタルは、実はに連絡を出したときから考えていたんだと言って笑った。
「仲間は多い方が良いだろ。それには一人で何もかも成し遂げようとするのをやめた方が良い」
「でもグリーンくんを巻き込むのは……」
「巻き込むんじゃない。彼にも利益を与える。利用してポイよりずっと良い」
マントの中から顎をつん、と上げ不敵な笑みを浮かべた。
「戦術は力押しだけじゃない。そうだろ、?」