数年前、彼の腕の中にまあるく収まってうとうとしているヒトカゲを見たのが出会いだった。卵形の頭に短い足。未熟な爪。竜の片鱗はあるもののワタルにしては可愛いポケモンを連れていたのが意外だった。
わたしの前、ワタルはひざまづき、今まさに夢の中へ誘われているヒトカゲを見せてくれた。
「。ヒトカゲだ」
「ふうん。……かわいい」
「だろ? しっぽの炎がヒトカゲの体力のバロメーターだ。ピンチになるとこれが真っ赤な猛火になって勇敢に戦う。今は……眠いから“とろ火”だな」
「あはは」
わたしの笑い方はその時まだ子供っぽかったように思う。歯を戸惑い無く見せる笑い方。
ワタルの笑顔もまだえくぼが柔らかくて、目は優しく潤んで。少年めいていた。
「ほのおタイプ?」
「ああ。今はほのおタイプ。だけどな、進化するとリザードンになって空を飛ぶようになる。今は翼が無いが……、ほら、ここだ。触ってごらん」
「……あ、この骨が成長するんだね」
「そう、翼が生える。すごく丈夫でしなやかな翼だ」
よく覚えている。ヒトカゲのまだ小さな不自然に出っ張った背中の骨を触ったこと。
「の感性でこのヒトカゲを育てて欲しい」
「わたしの、感性?」
「そうだ。君のトロピウスの、静と動にオレは魅せられたんだ。君ならこのヒトカゲ、どう育てる? それを俺に見せて欲しい」
「……うん、分かった」
わたしはホウエンのドラゴンポケモンと引き替えに、ワタルからそのヒトカゲを受け取った。
ただの交換じゃなく託されたのだと、今でも思っている。
すっかり立派なリザードンへと成長したヒトカゲをワタルはきらきらした目で見上げている。
腕や足を触り目の色や肌の乾き具合を確かめ……。パラメーターのことなんて一言も聞かないで、とにかく自分の目や感覚でリザードンを確かめているのがなんともワタルらしかった。
「うん、うん……。なるほど。やっぱり完全なパワータイプにしなかったのか」
「そう。だからある意味余裕が無いし、幸運には期待出来ない」
「ヒトカゲは初心者用ポケモンだが、このリザードンじゃビギナーズラックなんて以ての外、という訳だな」
「そうだね。でもスピードと瞬発力はかなりのもの。このリザードンの才能があっての賜物。体はすごく自由に動く。リザードン、翼を広げてみて」
そう指示すると彼は自慢の翼を大きく開く。精一杯広げ、なつかしのワタルへ向けて誇示した。
「ほら、この羽のかたち! 理想的なの! マッサージとトレーニングがとにかくよく効いて、付け根からしてこんなに動く! トレーナー側の判断をすごく生かしてくれる良い子なの!」
「いやー……。変態的だな!」
感嘆の息を漏らしたワタルの、次の言葉に足から力が抜けた。
「へ、変態って」
「褒めてるんだ。普通じゃないって意味だよ。、すばらしいよ! 実際のバトルでどれだけ輝くのか楽しみだ!」
「あ、……」
実際のバトルならついさっき終えたところだった。ワタルの一言でさっきの敗北がまざまざと思い出される。
リザードンも思い出したらしい。自信に満ちていた顔が同じく陰ってしまった。その子ののどを一番好きな強さでかいてやる。
「相手を倒しきるまでもう少しだったんだけどね。あなたは充分輝いていたよ」
「ん? どうしたんだ?」
「ちょっと……、感情が追いつかないや」
「え?」
「負けたの、わたし」
「誰に」
「グリーンくんだよ」
絶句したワタルが抱いたであろう感情。多分それは“ずるい”だと思う。
さっさとグリーンとリベンジマッチを組んだわたしがずるい。そういうトレーナーとしての本能にまみれた感情だろう。
「言っとくけど、あっちから申し込んできたんだよ」
「そうなのか?」
「うん。レッドの前に立つグリーンは世界最強のグリーンじゃなきゃだめだから、って」
「ふう、ん?」
「分かってないでしょ」
ワタルがちょっといない、半日にも満たない時間にいろいろあったのだ。
「ワタル。ちょっと」
「ああ」
わたしとワタルはポケモンセンターから人気の無い廊下へ場所を移した。誰もいない場所を探して、わたしたちはバトル場へ続く通路のベンチに落ち着いた。
ひんやりとしたベンチの上、隣あって座る。誰にも聞かれないように注意しながら、わたしはあっと言う間の展開、そのひとつひとつをワタルへと語った。
ワタルの言葉通りグリーンを仲間に引き入れることを考えたこと。
彼がものすごい剣幕でわたしに噛みついて来たこと。
どうしてもチャンピオンになりたいと語ったこと。
グリーンくんのライバル・レッドくんのこと。
わたしがそれを利用して交換条件を持ちかけたこと。
たくさんの嘘をついたこと。
そして中庭でリベンジマッチを持ちかけられ、敗北したこと。
「わたしにもライバルがいたら、って思わされちゃった。ライバルがいれば何か違ってたのかもって思ったよね」
「………」
「わたしの正義はわたしが決める、わたしが作る。そういう覚悟でやってきたけど、……グリーンくんはわたしと正反対だった」
彼は正義の在処を、自分じゃない、信頼と敵意を同時に向けたライバルへ託していた。
他者でありながらまるで自分のことのように理解し、嫌悪し、誠実でありたいと願う存在を持つグリーンと、自分さえ良ければそれでいいと考えどこかで他人を諦め始めているわたし。
追いかけてくる存在を見据えるグリーン。高慢に染まり始めたわたし。
始まろうとしているグリーン。迫り来る終わりから逃れられないわたし。
天と地ほどに違う。
ワタルに呼び出され、カントーに来て、わたしは己と相反する存在に出会ったのだ。
「もう自分のずるさがよーく分かった。諦めがつくくらい」
「……なら、……」
「え、何?」
「いや、なんでもないよ。何でも……」
ワタルにしては珍しく歯切れが悪い。彼の困った笑みを見たら続きを聞こうとは思えなくて、何でもない風の笑顔を作っておいた。
何を、言おうとしたんだろう。
もう一度横を見ると、歯がゆいような、悔しさを滲ませた顔をしている。たぶんその苦悶の表情をさせているのはわたしなのだ。
「ありがと、ワタル」
ゆるりと彼の頭に抱きついた。彼のしかめられた眉間が鎖骨の下に当たる。
「やめろ」
「だって嬉しいんだもの」
「何が嬉しいんだ。嬉しいことがあるものか」
「あるよ。泣きたくなるくらい嬉しいよ」
「……あのな、君も女の子なんだ。しかも若い女の子。軽々しくこういうこと、しちゃダメだ」
「変なワタル。ワタルだって若いでしょ」
「………」
「ワタルにだっていっぱいいっぱい未来がある……。本当に、ありがとう」
止まらない愛しさが沸き上がってわたしはワタルの額にキスを落とした。
「……おでこ、か。そうきたか」
「っわ、わ」
わたしの手を解くように握ってワタルが立ち上がる。
彼が立ってしまえば、ワタルの大きさ、わたしの小ささが際だった。
わたしの右手を左手で、わたしの左手を右手でとらえたままワタルが体重をかけられれば、わたしは自然と背中を反らし首を上へのばした。
ワタルの真剣な顔に、顔中が熱くなる。唇がどくりと脈打った。目を、閉じてしまいたかった。
「ダメだ。どこにしたら良いか、分からないよ」
同じ気持ちだった。唇にされたらきっと期待を抱いて、愛しくなる。頬じゃただのじゃれあいみたいで足りない。手の甲では愛しさの意味が違ってしまう。それ以外の素肌に触れるのは怖すぎる。
拘束していた手は解かれる。代わりに抱きしめられた。もたれかかるようにワタルが覆い被さって、強ばったわたしの肩にも彼のマントがかかった。遠くからみたらわたしたちはひとつになったように見えただろう。
「、俺悔しかったよ、グリーンに負けて。いや、今も悔しくてどうにかなりそうだ」
「そっか」
「君は悔しくないのか」
「チャンピオンを背負ったワタルとわたしじゃ、違うよ」
「……帰る、んだよな」
「帰るよ。待たせてるもの」
「そうだな。君を求め必要としている人は山ほどいる」
深い呼吸と布ずれの音。今どんな顔をしているんだろう。もう一度抱きしめたい。あなたに助けられてばかりのわたしだけど、それでもここにいると伝えたい。わたしはあなたを求めているのだとはっきり言葉にしてしまいたい。
もう一度確かめられるように強く抱きしめられる。わたしのかかとが数センチ浮いた。
「。俺を見守っていてくれ。強く、なるから……。俺もずっと見守ってるよ、君のこと。大好きだ」
わたしを包んでいた温もりが去っていく。
肩から彼のマントが滑り抜けていく。
少し崩れた顔でワタルは言った。
「元気でな」