ここ最近、ダイゴの食事の仕方がわたしにも伝染してきたように思う。彼みたいな温室の雰囲気滲むような作法とは訳が違うけれど、食べるものの順番と、量がふたり重なりあってきたように思う。
まだわたしとダイゴの顔を合わせる場所がリーグだった頃にも、彼と何回か食事をしたけれど、その時は一人前と呼ばれる量をそのまま普通に食していたはずだ。けれど最近のダイゴは小食気味になっていた。
スバメの微かな鳴き声か聞こえるテラスで、ダイゴは朝食のパンを平皿の上に戻した。代わりにコーヒーを手に取る。
「けどほんと」
何が“けど”なのか分からないが、今まで静かに、ほんの少し広角を上げた表情で食事をしていたダイゴがぽつりと呟く。
「よくここまでついてきたね」
それをダイゴ本人が言うのか。言葉もなくあきれた顔をして見せるが、ダイゴの顔は今度ははっきりとした笑顔を作る。
わたしにはそれが、幼い子供がおなかいっぱいになった時の表情に見える。
「僕は楽しいよ」
「そりゃ楽しいでしょうよ」
「君はわるあがきもしなかったしね」
もちろん文句などは言った。理解できない感覚には理解できないと告げた。けれどわたしがダイゴにさほど抵抗しなかったのは、抵抗に値する理由がそれほど無かっただけだ。
ダイゴの言いなりになることへの戸惑いが無かったわけじゃない。でも逃げ出したり、彼を裏切ったりすることで起こるトラブルに対処することの方がよっぽど大変だし、何が起こるか分からなくて怖い。
「ダイゴといて知ったことがある」
「何だい?」
「お金の使い方」
「へえ。僕に言わせれば、お金を使うような出来事は向こうからやってくるんだよ」
「……そうだね。ダイゴといるといろいろ驚きはあるけれど、特にお金についてはまた知らない世界にどんどん出くわす。特にわたしは外でポケモンと遊ぶのが一番好きな遊び方だったし、ポケモンたちと、チャンピオンの仕事についてはお金を使ってきたけれど、それ以外のことはさっぱり分からなかった」
ヒワマキなんて立地で暮らしていると、本当に生きていくのに必要なのはシンプルだと分かってしまう。
ポケモンの神秘に勝るものなんて無かった。
「あのさ、なんで貯金なんかしてたの?」
「………」
「変なこと言ったかい?」
「別に?」
貯金なんか、って。また世間を敵に回す発言だな。
「だいたいの人は貯金してるんじゃない? 将来の不安は尽きないし、何かあった時のためにお金を備えておくのはよくある話だよ」
「ふーん。も不安だったんだ」
「そう、だね。自分が一体どこへ行き着くのか分からなかったから」
特に何に使えば良いか分からずに、積みあがったわたしの貯金。使いようが無いと思いながらも無駄遣いしないようにしてたのは、将来への不安がいつもあったからだ。
突然、たった独りで生きていくことになったとした時に、お金の面だけでもどうにかなるように。
今のところわたしは孤独では無い。こうしてダイゴがいる。ただ、自分のため込んだお金だけではどうしようもない世界に来てしまっているけれど。
「今も将来が不安?」
「……分からない。前みたいに怖さは無いけれど、明るいわけじゃない。なんだか、空しい」
心の内を素直に話せば、ダイゴは「良いことだ」と相づちを打った。
「さっき、僕は“楽しい”と言った。今現在、君がここにいることはもちろん嬉しいんだけど、これからのことを考えると本当に楽しくなるんだ」
「これからのこと?」
「そう。君が何者でもなくて、僕がこれから君のこと何者にも変えられる。そういう状況って今しか無いんだよ、」
“何者でもない”。その言葉がしっくりと、パズルの正解ピースみたくわたしに寄り添う。
両親もいない。わたしをチャンピオンと呼んだ人もいない。トレーナーとして対峙する人もいない。言ってしまえば外見や顔のことをほめそやし、わたしを気持ちよくさせる甘い言葉の使い手もここにはいない。
ふわふわと浮き上がりそうなわたしの存在や、どうありたいかを今握るのは、わたし自身を覗けばダイゴとわたしのポケモンたちだけだ。
「参考までに聞きたいんだけど、はどっちが良い? 今までよりすごい君になるのと、果てしなく堕落させられるのと。多分、僕ならどっちもできると思うんだけど」
今までよりすごい自分。その響きに思い出すのは、リーグにいた頃の自分だ。果てしない堕落、それは慣れない響きだ。
わたしにだって人間として駄目なところたくさんある。けれど、堕落を、それも果てしないまでに極めたことは無い。
「どっちにしようか、ダイゴは決められないの?」
「うん、そうだね。まだ迷っているよ。迷えるのも、今だけだから」
思い出したようにトーストを手にとり、やはり皿に戻すダイゴ。小さなため息がわたしの席まで届く。
「楽しいんだ?」
「うん」
最近小食のダイゴ。もう食べる気は無いらしい。胸いっぱい、という表情で皿を少し遠くへ押した。
「そうだ。明日は朝食の場所を変えようか」
「ええ? 別に良いよ、ここで」
「そう? 飽きたりしてない? いっそ家自体を変えたって良いんだよ」
「……わたし、そういうの苦手。自分の気分で人を振り回すの」
何がそんなにおかしいんだろうか。ダイゴはくっくっく、と奥歯を噛みしめ笑った。
やはり遠いスバメの声と、ダイゴのかみ殺すような笑い声だけが響くテラス。その中、木と蝶番の軋む音がする。執事さん——この施設の初老の使用人を、わたしはとりあえず執事さんと呼んでいる——がそっとガラス戸を開け、顔を覗かせていた。
「ああ、時間か」
時間というのは、ダイゴがエアームドに乗ってリーグへ向かうタイムリミットのことを指している。
「そこまで送るよ」
「ありがとう」
ダイゴは今のところ、きっちりとリーグに通っている。
ダイゴらしい器用さで、そこそこ良いチャンピオンをやっているらしい。そこそこというのがミソである。
彼がリーグにもチャンピオンの職にも、関心も執着も無いことはわたしも感づいていた。
わたしがリーグへの執着が強い方であったのは自覚しているけれど反対に、ダイゴの関心の薄さは異常だ。
「それじゃあ行ってくるよ」
「うん、行ってらっしゃい」
彼が空の色に消えていったのを見て、わたしはため息をついてしまった。
チャンピオンという肩書きはかろうじて、彼が元々持っていた自分への信頼を裏付ける証拠のような役割は果たしている。
ダイゴ自身も、つまらないいたずらをするような人間でもないし、関心が薄いからといって、自分の肩書きに無責任じゃない。
けれど、そう今朝食べきれなかったトーストのように、いつか、「もういらないから」とチャンピオンであることを捨て去ってしまうような匂いを、わたしは感じていた。