ダイゴとエアームドが飛んでいった空を見上げる。見るからに雲が少なく、空色ばかりが目に飛び込んでくる。今日は良く晴れそうだ。これから空の青は濃さを増していくよう思われた。
「……、よし」
わたしはぐん、と伸びをして、すぐに部屋に戻る。そして執事さんを見つけるなり彼に近寄る。
「あの」
「はい」
「今日、プールサイドと、それとプールの水を使っても良い?」
「もちろんですとも。いつ頃プールに」
「できれば今すぐ」
「かしこまりました。お席は準備してありますが、日避けの準備が今からになりますので少々お待ちいただけますか」
「あ、ありがとう」
執事さんに予想外の気遣いをかけてもらい、わたしは思わず口をつぐむ。外で遊んでらっしゃいと母親に言われるような軽い反応しか予想していなかったのだ。
彼もこの道が長いのだろう。わたしはこの道、長くは無い。
日避け、だって。思わずむずがゆくなる。執事さんの声色には、わたしを女性として尊重された色が含まれていた。ヒワマキの母親に、わたしの肌についてそんな心配をされたことは無い。
「いかがされましたか」
「……こういうの、恥ずかしくて慣れない」
「無理に慣れる必要はありませんが、遠慮はなさらないでください。お坊っちゃんが大切にしている貴女に、私どもも尽くします」
「ありがとう、……」
かくしてプールサイドに広げられた白いパラソル。サイドテーブルにはすでにタオルが用意されている。明るさを増してきた太陽。わたしは上着を脱ぐと、ビニールチェアに畳んで置いた。
ほんとのわたしならチェアの背めがけて投げているところだけど、ここにいるとなんとなくお上品にしていなきゃいけないような気になるのだ。
屋敷の方を振り返り「ありがとう、もう大丈夫」と告げると、執事さんは上品な一礼をして去っていった。わたしもつい、小さく頭を下げてしまう。
やっぱりこんな、自分でやれば良いこともあで気遣いを受ける生活、きっといつまでたっても慣れないと思う。彼が尽くしてくれる理由が「ダイゴが、ひとまず大切にしている」というわたしの付加価値に基づいたものであると分かっているからなおさらだ。
ひとつ息を吐いて、わたしは気持ちを切り替えた。
どれだけ濡れても良い薄着になると、わたしはモンスターボールを取り出した。
わたしはこの子のボールを投げる時が一番高く、空めがけて投げる。雲の少ない空に放られた、紅白のモンスターボール。一番高いところで、ボールはふたつに割れた。飛び出す巨体、その陰が地上のわたしを飲み込んだ。
その姿を見ただけでつい、「ふふ」と笑んでしまう。ゆるりと羽を揺らしながら、わたしのトロピウスがプールサイドに着地した。
のっそりと首を動かし、目ヤニのたまる目がわたしを見下ろす。
「ご機嫌いかが? わたしの相棒」
手をあげると、トロピウスは目を細めて頬を寄せてきた。彼にとっては厳しい冬の季節を無事に越したものの、それからまたいっそう老けたように思う。その目に強い気力は見えない。
けれど背中の葉がゆらゆらと波のように揺れている。これは気分が良い時のサインだ。トロピウスはご機嫌らしい。
「えーと。まず何からしようか? ……よし。顔を洗ってあげる」
タオルをプールの水で濡らして、目やにから顔のしわ、そしてのどに実る房にひとつひとつを丁寧に拭いてやる。
彼の体は最近乾くのが早い。タオルにたっぷりの水を含ませると、水が首を伝って彼を濡らす。トロピウスはとても気持ち良さそうに目を細めた。
「顔の次は羽で良い?」
低い、わたしのおヘソの芯が揺れるような声で相づちが打たれる。それがわたしの心まで震わせる。
タオルから、トロピウスから滴り降ってくる水がわたしを濡らし、体を伝い、腿まで濡れる。それがたまらない嬉しさを生む。
ゆらゆらと揺れる葉から送られるそよ風が始終わたしの全身を包んでいた。
直に、太陽が頂点に近づき、日差しは強さを増す。太陽の下で、トロピウスの羽はつややかに光を跳ね返している。トロピウスは全身すっきりして気持ち良くなったのか、うたた寝を始めていた。
わたしは彼の眠りを邪魔しないよう、静かにボールを取り出し、今連れてきているポケモンたち、みんなをプールサイドに放った。
一番の先輩ポケモンのトロピウスがもう高齢で、わたしがそれをとても気にしているのは皆、分かってくれている。だから出てきたポケモンはすぐに鳴き声をひそめてくれた。
「みんなでゆっくり、ぼーっとしよ」
そう声をかけると、各々落ち着く場所へ体を休めた。ある子はトロピウスの羽の影、ある子はプールに入って水に浮かぶ、はたまたある子はビニールチェアに寝転がるわたしの膝の上。
皆が落ち着いて、深く長い息を始めた。トロピウスのまどろみが、周りの全員を飲み込んでいった。
空を見ながらその青に、わたしの目は理由もなく潤んでいた。
「……ずっと、こうしたかった……」
わたしはずっと、こんな日を望んでいた。トロピウスやみんなを労り、時間を忘れて一緒にいられる。バトルを休みたいと思えば休むことができる。強さなんて関係無く、絆を結びあったポケモンたちと共に日常を過ごせる。
それは、ほとんどのトレーナーにとって当たり前のことに思えるだろう。けれどわたしには難しいことだった。
強さも弱さも関係無く、仲間として、日なたでお昼寝をする。そんな事が、リーグで働いていた時は途方もなく遠かった。その中に今わたしはいられる。
今日だけじゃない。明日も彼を冷たい水を含んだタオルで拭いてあげられる。時を、忘れることができる。
夢みたいだ。
そう、わたしは夢の時間を得られた。
ダイゴのおかげだ。
このことばかりは、わたしはダイゴにとても感謝していた。彼がわたしの望みを知って、意図してのことかどうかは分からない。けれどわたしの生活に彼が侵入し、主導権を握られたがゆえに生まれた時間だった。
不便なことも、頭痛を覚えるような出来事も彼はもたらした。が、こうしてかけがえのない贈り物も、時にくれるのだった。
身じろぎをして伸ばした手がこつん、と硬いものに当たった。はっきりしない意識のまま、驚きとともに手の先を見ると、わたしが横たわっているものの横にもうひとつビニールチェアが並んでいる。
あれ、と思い顔をあげると、こちらに首を傾けるダイゴと目が合った。
「おはよう」
「………」
トロピウスも、わたしのポケモンたちも特に場所は変えていない。けれど横には自然と、上着を脱ぎ、首もともゆるめ、シャツのそでをまくって寝そべるダイゴの存在が増えていた。
「……、おかえり」
「ただいま。よく寝てたね。でも僕も今、気持ちよくなっていた」
目を細めて彼は青い青い空の方を見てしまう。わたしはそのおでこに滑るそよ風を見た。
目をこすりながら、状況を整理する。ダイゴ、帰ってきたんだ。リーグから。
やはり空は晴れているが、暑さのピークはすでに去っていた。
目元をこすった指先を見ると、しっとりと濡れていた。少しして、ダイゴの「よく寝てたね」という言葉がわたしにすんなりと染み込む。気づけば太陽はてっぺんを越えていた。
すっかり寝てしまった。とても幸せな気持ちに包まれながら。
涙のあとがある手のひらをぼうっと見つめていると、ダイゴがまた首をこちらへ傾けた。
「」
「うん」
わたしはおぼつかない思考で返事をした。
「僕と結婚してくれる?」