「僕と結婚してくれる?」
急転直下。そう表すのがふさわしいほど、急激に目が覚める。と、同時に一気に体に疲れがぶりかえし、わたしは思わず起きあがり、横に寝そべるダイゴを見る。彼はにこ、と笑んだままで、重くため息をついてしまった。
いつかその言葉が来ると分かっていた。この男との出会いから巻き込まれてきた、感情の、行動の激しさを見ていれば、当然想像できていた言葉だった。
自分の身にそのような……つまり、結婚だなんて出来事が起こりそうな状況は正直簡単には受け入れられない。だけどこの恋愛が、思い描いたような甘酸っぱい恋愛では無いこと、ダイゴはかなり高い確率で本気でわたしを好きでいてくれることは感じ取っている。
今までわたり歩いたホテルでも、このお屋敷においても、ダイゴはわたしを現在の恋人というよりは、自分に準ずる価値の高い人間として周りに扱わせていた。そう、まるで配偶者であるかのように。
プロポーズに対してわたしが苦い顔をしているというのに、ダイゴは未だ涼しげにそよ風に吹かれている。
「ずいぶんと余裕そう」
「なんとなく想像していた通りの反応だから」
わたしの頭痛を予想していただなんて恐れ入る。ならば、わたしが簡単に頷かないことも知り尽くして、手をゆるめてくれたら良かったのに。
ただ、わたしがダイゴへの感謝を抱いた、この環境の幸せに浸った瞬間言い出した彼は、恐ろしく的確だ。
「返事は?」
「……できない」
「僕と結婚できない?」
「そうじゃなくて。返事が、できない」
だって、だってそうでしょう? ダイゴは簡単に口にした。けれど、わたしの中で結婚への同意までは高い壁がある。結婚ってそんな簡単なものじゃないはずだ。
ついでに言うと、わたしはダイゴにそこまで夢を見ていない。彼と恋人同士になったことは受け入れられた。でもそこから先はまだ始まったばかりなのだ。そんな状態で結婚だなんて決断はできないし、そもそも結婚が何かもわたしはよく分かってない。
「無理だよ。答えなんて出せない」
「どうして?」
「……、私には足りてない。何がって聞かないで。ダイゴのこと好きという気持ちはある。だけどそんな大きな決断をするには、何もかもが足りないの」
経験も足りない。彼への信頼も足りない。ダイゴとの出会いを運命だと盲目的に信じるための偶然も必然も足りない。人生への諦めも、わたしにはまだ無い。
不確定な未来に対する予感は、まだダイゴ無しで生きていくわたしの可能性も否定していない。
「人が何かを決断する時、決断に値する材料が全て揃ってる時の方が少ないと思うよ。だから足りないなんてことは無い。その時は否応無く迫ってくる」
「それは、そうだけど」
「ポケモンバトルの中で、僕らは何度だって経験しているはずだよ。決断は、常に賭けだ。安全策も、どんなに分かりきった勝敗に見えても、所詮は可能性の高い賭けでしか無い」
「そうだけど……」
「もちろんのそういう気持ちを埋めて、安心させる努力はする。けれど、決めてしまえばなるようになるものだよ」
ダイゴの本当に質が悪いところは、互いにポケモントレーナーという性質でも繋がり合っているところだ。
わたしはダイゴに反発ばかりしている。けれど、確かに同じ感覚を共有しているのだ。
「っ何を言われても今は無理! 無理なものは無理! 絶対に、無理ーっ!」
わたしは彼を跳ね退け、ビニールチェアから立ち上がった。
手持ちにカードが揃わなくても、決断の時は迫ってくる。その言葉にはわたしも頷く。だけどダイゴが迫る瞬間と、決断が迫る瞬間は同じじゃない。
運命はもっと、あらがいようが無く訪れるものだ。
焦ること、無いのに。
ダイゴの良くないところは、時々妙に急くところだ。
きっとわたし達は永遠に恋人ではいられない。結婚はあり得る話だ。きっとゆくゆくはもうひとつ向こうの関係へ至る。今は至ろうとしている課程なのだと、わたしは感じている。
ダイゴは上手にわたしをここへ連れ込んだ。わたしも、誰かの物になるという感覚を手探りで探している。だというのに、ダイゴはそれでは満足できないらしい。
結婚、かぁ……。
どれだけ考えてもやっぱり、「いいよ」なんて言葉は彼への媚びからでしか生まれない。
「まぁせいぜい頑張ってくださいな」
「うん。そうするよ」
どうすれば、何が揃えば、わたしがダイゴと結婚すると決断できるのか。わたし自身何もわからないのに、ダイゴは余裕たっぷりに頷くのである。
勝ち目の薄いプロポーズを送ってくれたダイゴへ、わたしのからはとりあえず、久しぶりの軽蔑の視線をたっぷりと送り返してやった。
挑発や軽蔑は、わたし達の中でありふれた行動だった。わたしはそう認識している。出会った時から、ここに至るまで、何度彼に呆れ、軽蔑したか分からない。だから今更、そんなことがダイゴの心情に強く作用するなんてかけらも思い至らなかった。
ポケモンたちを全員、ボールに戻す。彼らをボールから出したのに、今日はほとんど何もしなかった。そんなことが、何年ぶりか分からない。
「そういえばね、ダイゴ。今日は素敵な一日だった。ありがとう」
このことばかりは感謝していた。幸せだったと言い切ることができた。
だからわたしはダイゴと一緒にいることに正しさを見出し初めていた。
「……プールに入らないのかい」
「うーん。じゃあ少し、汗を流すだけ」
そう思ったけれど、わたしがまとうのは一応洋服だ。トロピウスを冷たい水で洗うためにどれだけ濡れても良い格好ではあるけれど、泳ぐためのものじゃない。やっぱり、やめようとした時だった。
視界の端で急に動いたダイゴが見えた。そのダイゴがわたしにたいあたりをした。
当たった体同士はまだ、じゃれあいの範囲の力だった。ダイゴの手加減がある。
「ひゃっ」
肩を両方からつかまれて、一瞬の叫び声。何がなんだか分からない、分からないままで、あえなくわたしはプールの中につき落とされた。
耳の穴から音を掻きだし、のどの奥まで入り込んでくる水。なんで。どうして。わたしは泳げるはずなのに、消毒済みの水の中、無様にもがいている。
混乱するのは視界の端で捕らえたダイゴが、笑っていなかったせいだ。
あの時に微かでも笑顔の気配が感じられれば、これは単なる遊びやいたずらと思ってわたしも受け止められたのに、ダイゴはそうじゃなかった。しっかりと見留めることはできなかったけれど、感情を押し殺して急いた仕草でわたしへ掛けよりそして水の中へ落とした。
頭はなぜどうしてと答えを求めるが、身体はとにかく酸素を求めていた。呼吸を求めて上へともがく手を、ダイゴは握った。
彼の白いけれどしっかりとした手がわたしを引き上げる。顔が水上へと出た。
彼の腕にすがりながらゲホゲホと、激しくせき込んで水を吐く。代わりに急に取り込まれる酸素。濡れた髪が頬に絡みつく。
見ると、ダイゴも服のままプールの中へと降りてきていた。透き通った水の中で、彼の白いシャツも泳いでいる。
「きゅ、急にどうしたの……?」
しっかりと支えになってくれているダイゴの腕をつかみながら、わたしも足がつかないかとつま先を伸ばそうとした時だった。
わたしがしがみついていた腕が急に下へとおろされる。
「まっ、!」
十分な酸素を吸うこともできないまま、また頭まで水に沈む。水の染みる目でダイゴを睨むと、ダイゴはきちんとタイミングをつかんで上手に呼吸を止めている。
今度は数秒で上へとあげてもらえた。もう片腕でもがいているわたしの両足を掬いあげて、横抱きにしてからだけど。
急に沈められると呼吸のタイミングが乱されて、本気で苦しい。視界や呼吸を邪魔する水を拭って、ダイゴに吠えてかかる。
「はぁ、っはぁ、……っ殺す気!?」
「まさか」
「下手したら本当に死ぬやつだからやめて! っやだ待って!」
ダイゴがまた目を細めるから、ぞわと背筋に悪寒が走った。その悪寒ごとまた沈められた。
だめだこいつから離れないと、自分の意志で潜ることも浮上することもできない。逃れようとはするのだけど、ダイゴが全て押さえつけるようにぎゅうとわたしを抱きしめる。わたしは逃げていく酸素に無力感を覚えながら、ダイゴの息継ぎのタイミングを待った。悪寒とともに抱きしめられ一緒に沈んでいる限り、わたしはそれを願うしか無いのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
呼吸のタイミングを、浅く生死を握られて、悔しいのに彼のシャツを握るしか無くて。彼の腕の中、多分わたしの表情はひどく恨めしく見ていたことだろう、笑うダイゴのことを。
ゆくゆくは結婚するかもしれないと思っていた5分前のわたしの大馬鹿野郎。目を覚ませ。ダイゴとの結婚なんて、笑って恋人をプールに沈めてもてあそぶ男との結婚なんてありえない。