Sorry, I couldn't do anything


次の日は寝坊のふりをした。そうすればわたしはダイゴと話さなくて済む。「今日はどうするんだい?」と問いかけられて、当たり障りの無い予定の嘘をつかずに済むからだ。
問いかけさえ受けなければ、こちらから「あなたの支配から少し、抜け出してみようと思って」と素直な気持ちがうっかり出てしまうことも、無いだろう。

目をつぶっていると、昨日の感触がよみがえるようだった。
わたしの体とは激しい温度差があった冷たい水。沈むわたしを、ダイゴの、あのシルバーカラーの指輪をつけた手が追いかけきて、わたしは瞬間的にひどく怯えるのだけど、その手はすぐにわたしを救い出す。しかしまた、呼吸をすれば沈められるのだ。

シーツの中に沈んで眠くて聞き分けの悪いふりをする。窓の外でエアームドの鳴き声が聞こえるまで、わたしは強引に目を瞑った。
水中での出来事がまざまざ思い出されるけれど、それで良い。その恐怖が、きっとわたしの背中を蹴り飛ばしてくれるだろうから。さあ行け、と。




友人に多くを告げずに自宅を空け、連絡をとらず、バトルを封じ、ひとつの敷地から出ない。そんなダイゴの願う生活に身を投じてみた。
わたしたちの生活がちゃちな夢だったこと。それは、ダイゴも分かっていんじゃないかと思う。結局、わたしが彼のされるがままだったのはひとつの幻想を演出したに過ぎなかった。
だってわたしが外に出るつもりで身支度をすれば、すぐさま叶ってしまうのだから。

わたしはポケモントレーナーだ。ポケモンがいる限り、ポケモントレーナーはどこまでも行けてしまう。だからわたしを本当に大人しく飼うつもりならポケモンを取りあげてしまうのが確実だった。
ポケモンも、モンスターボールも取り上げられたらわたしはその時本当に、か弱い人間の女に戻るのだと思う。

でもダイゴはそれをしなかった。
外行きの服にトレーナーらしくポーチを備え付けながら、思わずぼやく。


「できなかったんだろうなぁ……」


ダイゴもポケモントレーナーだ。腕の良さならわたしは痛いほど知っているし、その強さがきちんとポケモンへの愛情に裏打ちされていることについても同じ。
今だってチャンピオンをしているのは、まあ自分がチャンピオンふさわしいと思っているからというふざけた心理もあるだろうけど、ダイゴの活動を根っこで支えているのは、ポケモンが好きだから。その強さを突き詰めることが好きだからなのだろう。

わたしたちは愛して、育てて、ポケモンを戦わせる。摩訶不思議で溢れているのに、時に自分の一部のような錯覚を覚えさせる、可能性の塊。同じトレーナーからそのポケモンを取りあげる痛みを、ダイゴは想像してしまったのだろう。
その生臭い優しさが香る。つくづくバカなひとだ。

装備は簡単に済ませた。ポケモンがいれば活路はいくつでもあると分かっている。それにわたしが育てた良い子たちなのだ。
改めて、チャンピオンまでやると怖いもの無しになってしまうなぁと感じた。


さま」
「……どうも」


もはや怖いものなしと思った。確かに怖いものは無いのだが、わたしの行く先を止めたのは執事さんだった。

皺が多いが清潔なその手には、モンスターボールがある。
まさかと思い視線を上げると、執事さんと目が合ってしまった。挑もうとする視線と見合うとわたしもいつの間にかボールを触っている。ポケモントレーナーとしてのは健在らしい。


「どこへ行かれるのでしょうか」
「ポケモンバトルでわたしを止められると?」
「いえ……。けれど黙って見過ごすことは出来ません。結果が分かっていても何かするのと何もしないでいるのとでは、大きく違います」


執事さんは指に込める力をゆるめない。


「事を荒立てないで欲しい。わたしは出かけるけれど、戻る予定があるわ。今のところ」
「それは……本日中のお話でしょうか?」
「ダイゴが帰ってくる時間は? その時間は守る」
「………」
「だってわたしがしっかり帰れば、貴方が主人に対して嘘をつかずに済む。そうでしょ? ダイゴから何か聞かれても、他のことを優先的に伝えれば良い。それは嘘じゃない。ただわたしがお屋敷から出たことを伝えるのは、一番最後にすればいいだけよ」


執事さんは直に、わたしの提案を飲むだろう。
だって、結局ここで決裂してしまうより、わたしが確実に戻る方法を選択した方がわたしとダイゴは長くこの家で暮らすことになるのだ。


「貴方がダイゴに今回のことをとっとと報告するようなら、わたしも行方を眩ますしかなくなる。だから、ね……?」


懇願しながらも問うと、執事さんはふっと肩の力を抜いて、モンスターボールを腰に戻してくれた。
わたしを咎めないけれど、笑んでもいない、心の読めない表情で執事さんは言った。


「ご帰宅は16時の予定です」
「は、早いわね……」


もっと働けダイゴ。わたしはチャンピオンしていた頃、残業はそれなりにしていたぞダイゴ。心境としてはもうすぐにリーグに乗り込んで、業務形態を抜き打ちチェックをかけてやりたい気分だ。


「まあ分かったわ。時間は厳守する。行ってくるわ」


執事さんを抜き去って、わたしの実家の敷地くらい広いエントランスを抜けて、大理石の上にひかれた絨毯を踏みしめて、そして扉を抜ける。
もう幾日かをここで過ごしたけれど、この扉から出ていったのは始めてだ。まあこの屋敷はドアの数もやたら多くて、いろんな出入り口があるのだけど。

さて、正々堂々門から出ていくか、それともパートナーたちと空へ逃げるか。どうしてくれよう。
外の景色をにらみつける。窓の外にあった景色の中に立つわたしは鋭さのある、挑戦的な気持ちだった。





これは脱出だ。一種の、ダイゴの世界からの。だと言うのに、案外わたしは晴れやかな気持ちでは無かった。
さあ空へ! ……と、張り切れるほどの解放感も無くて、実際のわたしは自前の足でとぼとぼと歩いていた。

ダイゴはわたしからポケモンを取り上げなかった。ポケモンと一緒にいる限り、わたしはいつでも彼に反抗できると分かっていながら、その手段ばかりはとらなかった。
けれど、わたしも逆らわなかった。
贅沢に見せかけた不自由、理不尽に呆れたり嫌悪したりしながらも、そっとその流れに従った。

なぜならわたしも願っていたからだ。ダイゴに愛される術を知りたいと。

ばかばかしい日々の中で、わたしなりに模索していた。ダイゴに、上手に愛されることを。
外見はどうあれ、わたしは自分の可愛げのなさを知っていた。初恋は見事に破れたし、わたしを愛玩してくれた人々はいたかもしれないが、彼らが愛していたのはチャンピオンのという、わたしの虚像だ。
わたしは、わたし自身がそう愛される人間じゃないと分かっている。ダイゴが現れたけれど、誰かのものになるという感覚はまだ掴み切れていない。

どう見ても早すぎるのに結婚のことを口にしたダイゴは、確かにわたしと一緒に生きる時間を願ってくれていた。
わたしも、そうだった。
振り返るとわたしもダイゴも二人して、どうにか寄り添い合えれば、というひとつの小さな願いを持って、ひとつ屋根の下向き合っていたわけだ。

わたしが彼のされるがままだったのはひとつの幻想に過ぎなかった。おままごとのような、ごっこ遊びのようなちゃちな夢だったことは、わたしも分かっていたし、ダイゴも分かっていたことだ。
だから、さくさくと進む、屋敷から離れていく歩み。その一歩一歩は、やはり裏切りだ。
彼に愛されるために折れようと思っていたくせにもう反発している。
自分の生死が彼の手にわたった一瞬が恐ろしくて、メッキは流れ落ちた。

わたしのこういうところがいけないんだろう。至るところで名を売って、あんなにも人気商売はしていたくせに、真には愛してもらえない。
可愛くない、はわたしをよく表す言葉なのだ。


綺麗に揃えられた芝生を視線で撫でながら、切ない、と思った。
ダイゴとわたし、同じ願いを持ち、同じ理想を見つめているのに、上手くいかない。
泣きそうになる資格は無いなと眉を寄せてこらえた。裏切りを働いたのはわたしなのだから。

だいぶ歩かされた。けれど、もうすぐこの敷地の端を知らせる門に到達する。少し息が上がってしまっているのは、引きこもり生活のイヤな成果だ。

これから晴れて自由の身を味わうというのに、ため息が出てしまう。結局わたしはダイゴから逃げようとしているし、ダイゴとの関係に挫折を抱えた現実から、逃げようとしているのだ。

死神が憑いたかのような顔を隠さなかったのは、このあたりには誰もいないと高を括っていたから。


「浮かない顔をしているね」


門の向こうに立つ美しい顔が、わたしを見つけて微笑している。
彫刻ようのような顔。別にわたしをあざ笑っているわけじゃない。保護者と離れた絶望をこらえる迷い子を見つけて、気持ちを寄せながらもいじらしくて愛しんでいる、導き手の微笑み。
しばらくぶりに会ったミクリは、そんな笑みをわたしに向けていた。