重たいくらいの握り飯を二つ。お味噌と漬物をそれぞれ、葉を噛ませてから横に添えて。コトブキムラの外で調査をする人たちのため、お弁当を用意するのは朝一の仕事だ。ギンガ団員の昼食の下ごしらえよりも、何よりも先だ。
しっかりと包みの端と端を結び終えてから、食堂の卓上に並べておけば、舎内でお昼を摂ることのできない幾人かが次々にお弁当を取りにくる。そこにはテルさんも入っている。朝の光差す食堂の方をちらりと覗くと大人と同じ大きさの弁当を手に取った、テルさんの若木のような背中が見えた。
テルさんは今日はどこへ調査に行くのだろう。どんなポケモンと出会うのだろう。彼の育てるポケモンの、どんな仕草をその目に見捉えるのだろう。コトブキムラの外はやせいのポケモンばかりで危なくて恐ろしい。門の外に出るなんてありえないのに、朝毎に、その背中をそっと追いかけたくなるわたしがいた。
水仕事のあとは手をしっかりと手を拭く。お味噌や米ぬかの匂いを残さないように指の間にも手ぬぐいをしっかり押し付けて、からからに乾かしてからわたしはラベン博士のお部屋にお邪魔する。
「博士。今、ポケモン図鑑、見て良いですか」
ラベン博士は、このギンガ団の建物内でも一等の面白い部屋で仕事をしている。博士が世話をするポケモンたちと、部屋の片隅で黙ったままの面妖な鉄の機械。それにたくさんの西洋の学問書。ちょうど緑の塗板に何かを書いていたところだったけれど、ラベン博士は嫌な顔をせず振り返って、笑顔でわたしを部屋の奥へと招いた。
「今日も来ましたね。昨日もページを増やしたばかりのポケモン図鑑、もちろん見ていってください!」
「毎日お邪魔して、すみません」
「いえ、ポケモン図鑑を使ってくれる人がいて、わたしは嬉しいですよ! どんな人にもポケモンの正確な情報を伝えるため、ポケモン図鑑はあるんですからね! そう、さんのような人のためにもポケモン図鑑は必要不可欠なのです!」
ラベン博士は興奮したように語りながら、机の上の本を横に積み、開けてくれる。わたしは部屋の中でくつろぐ、今は二匹となってしまったポケモンが何もしてこないことを確認しながら机へと進んだ。
基本は大人しいこの二匹にわたしも随分慣れてきたけれど、それでも先日博士の元から勝手に逃げ出したという。例の、始まりの浜に落ちてきたあの人が無事に捕まえてくれたからいいものの、逃げ出したと聞いた時どうなってしまうのか恐ろしかった。
ヒノアラシが村に火を放つかもしれない、ミジュマルが村の川を氾濫させたらどうしよう、モクローが空からたくさんのポケモンを村に呼んでしまったら。そんなことを咄嗟に想像して、血の気が引いたのを覚えている。
「はい、これが最新版です!」
「あ、ありがとうございます。……わっ」
渡されたポケモン図鑑はまた綴じた紙が増えたようで、ずっしり分厚くなっている。目映いものを見る心地で布張りの表紙をめくり、わたしは目を見張った。昨日までなかったポケモンの図がいくつも足され、昨日まで墨色だった図にはしっかりと色が塗り足されている。
「ほら、キミが好きなピカチュウの図鑑も完成してます!」
「はっ、博士……!」
ラベン博士があまりに大きな声で言うのはわたしは思わず顔を赤くした。わたしは確かに図鑑を見せてもらう毎にピカチュウの項を舐めるように見ているが、それをテルさんに聞かれたらたまらない。
博士はそんなわたしに気づかないで、ピカチュウの項を開いて、わたしよりも熱心な視線を落とす。
「雌雄の尻尾の違いやヒスイでの生息地がすっかりわかりました。すごいですよね! あのコのおかげで、また一段と中身が充実してきたのです!」
あの人はすごい。それだけは否定しようもなく、ラベン博士にわたしは頷いた。
ヒスイ地方で、初めてのポケモン図鑑の完成。それは博士が自分の一生を懸けるという覚悟とともに始まった夢だった。ラベン博士ほどの優秀な学者先生が、人生を投じなければ成されない。ポケモン図鑑完成はそれほど、遥か遠い先の出来事のように思われていたのだ。
けれど空の裂け目から落ちて来た人が、状況をがらりと変えてしまった。その人はポケモンを次々に捕まえ、目を見張る勢いで調査報告を上げてくるのだという。ポケモンを捕まえるのも、ポケモンと一緒に戦うのも、何か妙な術でも使っているようにすいすいと成し遂げてしまうそうだ。
空の裂け目から落ちてきて、内地か海の向こうか、どこから来たのかも分からないその人には、まるでポケモンへの恐怖が無いようだと聞く。わたしはポケモンに近づくことさえ腰を抜かしそうなほど恐ろしい。毎度腹の底から全身が震えてしまうわたしには、ポケモンを怖がらずにはいられないなんて、皆目見当のつかないことだった。
ポケモンはこわい。遠くに見かけるだけで飛び上がってしまう。だけど、この紙の中の世界でなら、わたしはポケモンを直視することができた。図鑑を読めばポケモンを知ることができるのだ。
図鑑に書き留めてあるのはポケモンのこと。同時にそれはテルさんが飛び出していく先の世界、コトブキムラの外の世界のことでもあった。
臆病な憧れを膨らませ、はやる胸を抑えて、わたしは図鑑の新しいページを開いこうとした時だった。
「ラベン博士!」
弾む声と一緒に飛び込んで来た紺の団員着。伸びかけの背丈の少年が、赤い襟巻きを靡かせる。目を奪われたその顔つきが、ぴたりとわたしを捉えて笑う。
「あ、さん。来てたんですね」
「はい! 今日も気になるポケモンの情報を見に来たみたいですよ」
わたしは会釈をすると気恥ずかしくなってまた図鑑に目を落とした。
感心だと言うようにラベン博士が頷くけれど、わたしは恥ずかしい。言ってしまえばわたしは、本当にポケモンに興味があるわけではないのだ。毎朝見送ることしかできないテルさんが、村の外でどんな不思議な生き物たちと出会っているのかを知りたくて、ポケモン図鑑を見ている。ポケモンを知るためと言うより、テルさんのことを少しでも知るためにポケモンに目を向けているに過ぎないのだ。
ピカチュウの情報は何度も読み返してばかりいるのも、テルさんが理由だ。テルさんがどんなポケモンを育てているのか知りたくて、ラベン博士に頼んで図鑑の写しまで貰ってしまったくらいだ。
気恥ずかしくて俯いていると、急にラベン博士が「あっ!」と声を上げる。
「どうしたんですか、博士」
「依頼の関係で、行かなきゃいけないところがあるのを思い出しました! テルくん、少しの間、ここで留守番を頼めますか?」
「はい、もちろんいいですけど……」
「じゃあ頼みましたよ! あ、さんはごゆっくり!」
全く……、と呆れた様子のテルさんに見送られてラベン博士は出て行ってしまった。
留守番を頼まれたテルさんは、二匹のポケモンの様子を確認してから近くの椅子を引き寄せて座り込む。
「博士、大丈夫かなぁ」
「さ、さぁ」
返したわたしの声はからからと固かった。この部屋にいるのはテルさんとわたしだけだと、気づいてしまっていたからだ。
同じギンガ団なのだからもちろん、テルさんと会話くらいはしたことがある。けれど中身はちょっとした、仕事に必要なたずねごとくらいだ。
普段は朝に弁当を取りに来たのを見送るばかり。視線だって合わさらない。今みたいに同じ部屋に腰掛けて、二人きりで話すなんてことは丸切り初めてのことだった。
「書き足されたばかりの図鑑、見せてもらってるんだ? ラベン博士が毎日喜んでるよ。図鑑を毎日のように見に来てくれる人がいて、励まされるって」
「そう、なんですか」
「さんはポケモンが好きなの?」
申し訳なく、わたしは首を横に振った。ポケモンが好きだなんて到底言えやしない。わたしは今だって、隣の部屋で摩訶不思議に浮かんでいるシマボシ隊長のケーシィでさえ、恐ろしい。
「ポケモンは怖い生き物です。でも……この図鑑の中身は、どうしても気になってしまいます。ポケモンについて、どんどん書き足されて行くから、飽きないですし」
再度視線を下ろすと、真新しい墨で書かれた文字が目をひく。そのポケモンの好きな食べ物、それから雌雄差を書き留めた絵図。生きて動いているポケモン相手を見据えるなんてわたしにはできない。図鑑がなければ、ズバットがオスとメスで、キバの長さが違うなんて、一生気づかなかったことだろう。
紙を捲るたび、知らない世界が遠く遠くまで広がっているのがわかる。力のないわたしには縁のない、知らないポケモンが息づくヒスイの景色が、村を一歩出ればそこに山ほどあるのだ。
「この図鑑を見ていると、ポケモンを知って、もし仲良くできたら、もっと心ゆくままいろんな所に行けるんだろうなと思います。そう、ポケモンと一緒だと、自由に、なれるのかもしれませんね」
この人の走った長さは、コトブキムラ何周分あるのだろう。この人はどれだけ雨に打たれ、風に吹かれてきたのだろう。いくつの山を越えて、川を渡ったのだろう。
家とギンガ団本部を往復するばかりのわたしには、どれも計り知れないほど遠い出来事だ。
「わたし、図鑑をどんどん作ってくれている、その空の裂け目から落ちて来た人のこと……」
本当は嫌いです。そう言いたかったけどわたしは小賢しく踏みとどまった。
よくも知らない相手のことを嫌いになっている、そんな恥ずかしい自分をテルさんに見せられなくて、わたしは咄嗟に言葉をすり変える。嫌い、から耳障りの良い言葉に。
「羨ましいなって思います」
羨ましい。でもやはり、嫌いだ、空から落ちてきた人のことなんて。どこからか急に現れて、あの人は瞬く間にテルさんを変えてしまったのだから。
前までのテルさんはピカチュウのことを怖がっていた。ピカチュウが放つエレキがコトブキムラに害をなしたらどうしようと、考えていたこともあった。ポケモンを恐る気持ちはわたしと近かったはずだ。
だけども今のテルさんは何かに強く呼ばれているみたいに修練場や村の外へ通っている。腰につけたモンスターボールも、今や三つに増えている。
見ているだけのわたしと、ポケモンに対する類稀なる才をもって、村のために常に動いているようなひとでは、比べ物にならないとわかっている。でも羨ましくて、悔しくて、どうしても嫌いになってしまうのだ。
「……オレも、羨ましいよ」
はたとしてテルさんを見上げると、テルさんは眉を下げ、けれど健気に笑っていた。
「もっとオレが、ピカチュウたちと一緒に上手に戦えたらなぁ」
「ピカチュウたちと戦うのが上手になったら、テルさんはどこへ行きたいんですか?」
「あー、えっと……」
テルさんは落ち着きなくハンチング帽をいじる。
「行きたい所があるっていうより、したいことがあって」
「何ですか? わたし、聞きたいです」
テルさんの夢をわたしも聞いて見たい。少し強気になってテルさんの返事を待てば、テルさんは気恥ずかしそうにその願いをおしえてくれた。
「……さんが、見たいポケモン、全部見せに、連れて行ってあげる」
「わ、わたしに、ですか?」
何よりも驚いたのは、テルさんのしたいことの中に、わたしの名前があったことだ。聞き間違えではないかと思い、つい自分を指差しながら聞くと、テルさんはすぐさま頷いてくれた。恥ずかしいのか、テルさんはわたしからみてもわかりやすく赤い顔をしている。
「そう。さんに教えてあげたい。このポケモン図鑑はすごい代物だよ。だけど本当はオレが、教えてあげたいんだ。目の前で、あれはオドシシだよ、とかね」
テルさんの言葉に、わたしは瞬く間に草原のまぼろしを見た。
風にからかわれる背丈の長い草花、その先を見ると立派なツノを生やしたオドシシが草を食んでいる。ツノが岩山に落とす影のかたちにため息をつくところまで、わたしは夢見てしまう。
何よりときめくのは、その横にはテルさんがいることだ。テルさんがすぐ近くにいて、高台に立つ一頭に指をさしながら「あれはオドシシだよ」とわたしに聞かせてくれる。
「その顔は……喜んでくれてる?」
恐る恐る聞いてきたテルさんに、わたしは何度でも頷いた。テルさんと同じ場所に立って、同じものを見られる。それは兼ねてから、願ってやまない憧れだ。
テルさんは熱のこもった息を吐くと、歯を見せるように笑ってくれた。
「コトブキムラの外に出たら、調査隊はまずベースキャンプを作るんだ。そこから装備を整えて調査隊は調査に出る。ベースキャンプなら調査隊の警備があって安全だ。行き帰りに護衛もつく」
わたしはしきりに、そうなんですね、と相槌を打った。ベースキャンプ作りなんてことも、初めて耳にする。そしてやっぱり、それをテルさんの口からひとつひとつ教えてもらえるのが嬉しくてたまらない。
「多分、ベースキャンプの近くなら一緒に歩けると思う。……さんの予定さえ合えば、いつでも」
「わたしを、誘ってくれているんですか……?」
テルさんはわたしのとは対照的な、はっきりとした頷きをひとつくれた。
「いつか、きっと行こう。その時はさんもお弁当持っておいでよ」
「はい……!」
いつの日も、わたしはテルさんを見ているばかりだった。大柄の調査隊の人たちに揉まれながらが包みを取りに来るのを、こっそりと覗いて、声もかけられずに見送るばかりだった。
そのテルさんと遠出の約束をしてしまった。
いつかきっと、わたしは自分のお弁当を持ってテルさんの元へ走ろう。そして横で一緒に包みを開けて、お握りの塩加減はどうかと聞いてみたい。それから、遠くの景色に覗くポケモンたちのこと、ひとつひとつテルさんに聞くのだ。その時は図鑑は開かない。テルさんの口にする言葉だけをわたしは聞きたい。
ポケモンたちが不意に大欠伸をしたあと、部屋の外に立つラベン博士を呼ぶまで。わたしたちはいつの日かに憧れて、照れ臭く笑い合ったのだった。