バレンタインデー、私は必ずダイゴの元へ行く。心を託したチョコを渡すためではない。普段の自分じゃ絶対に食べられない、美味しすぎるチョコレートをいただくためだ。

 始まりは恋も知らない未就学児の頃。バレンタインデーにダイゴくんが、チョコレートをたくさん持っていることが私には不思議だった。なんでダイゴくんばかりチョコレートをもらってるの、とお母さんに聞けばそれはダイゴくんが男の子だからだという。まだ文字も読めない幼い私は、そこで間違った刷り込みを得てしまったのだ。
 バレンタインデーは男の子、ひいてはダイゴくんの元にチョコレートが集まる日だと。

「いいよね、ダイゴくんは」
「どうしてだい?」
「そんなにたくさんチョコレートもらえて、ずるい! わたしにも一個、ちょうだいよ」
「じゃあ……」

 ダイゴくんは自分のカバンから、チョコレートの箱を取り出した。綺麗なラッピング、ココア色の印字されたリボン。中にはチョコレートが一粒ずつ仕切られて寝かされていて、それぞれがナッツを上に乗せていたり、模様が描いてあったり、おしゃれをしている。そのひとつひとつ違ったチョコレートのことを書いた小さな絵本まで入っていて、私と同い年のダイゴくんにふさわしくない、大人っぽいチョコレートだった。

「これ、どうしたの……?」
「親父の仕事先の人が来てて、くれたんだ」

 なるほど。バレンタインデーのダイゴくんは、知り合いの大人からもチョコレートを貰えるらしい。
 スーパーでたまに買ってもらえる棒付きチョコに慣れ親しんだ私には、ひとつひとつが宝物のように大事に包まれているチョコレートはまるで本物の宝石のように見えた。

「食べて、いいの?」

 ダイゴくん自身はあまりチョコレートに興味がないみたいだ。だから私の待ちきれない様子に、ダイゴくんは少し引いていたと思う。
 彼の頷きを得て、私はココドラを触らせてもらっていたそのままの指先をチョコレートに伸ばした。そして私は今まで全く知ることのなかった、絶品チョコレートの味を知ってしまったのだ。

 かくして私への刷り込みは完了した。バレンタインデーはダイゴくんの元へ行けば、最高のチョコレートを食べられる日なのだ、と。




 バレンタインの日は毎年予定が入っている。しかも男の人の家を訪ねる予定だ。こう書くと私がまるで恋愛イベントに熱心な女性のような印象を与えるけれど、実際はその逆だ。
 25歳にもなって幼馴染の元に高級チョコレートをたかりに行く。うん、だいぶ酷い実態である。
 だけどダイゴからおすそ分けして貰えるチョコレートは本当に美味しいのだ。食べた時の幸福感が凄まじく、屈服してしまうと言っても過言ではない。しかも年ごとに様々なチョコレートを食べさせてもらうおかげで、チョコレートに関してだけは舌が肥えてしまった。チョコレートブランドはもちろん、ショコラティエにも詳しくなってしまった。
 その至高の体験を天秤にかければ、幼馴染にチョコレートをたかり続けているという恥ずかしさも一息で吹き飛んでしまう。

「うっま……!!」
が好きな味だと思ったよ」

 そう言ってダイゴははにかんで淹れたてコーヒーに口をつける。私は身を乗り出して、ダイゴにコーヒーの感想を聞く。なぜなら自分のお金を少し持てるようになってからは、チョコレートと一緒に合わせる飲み物は私の担当だからだ。

「どお? 多分そっちもダイゴ好みだと思うけど」
「大丈夫、ばっちりだよ。香りが立ってきた時から気に入ってたよ」

 それを聞いてほっと一安心する。いつもバレンタインデー前日は専門店にいくつか行き、必ず一時間以上かけて悩んで、コーヒー豆を買っている。ダイゴの笑顔という結果を見てようやく安心できた。
 そう、ダイゴはもらった方々から貰ったチョコレートから、私と食べて良いものを差し出す。私はそれに合いそうな飲み物を持ち寄る。これが友人歴の長い私たちの、色気のないバレンタインデーの過ごし方だ。

 そんなにコーヒーにも詳しくない私は毎年相当頭を悩ませているが、このバランスは気に入っていた。
 チョコレートのお礼も兼ねて奮発して買って来たコーヒー豆を渡すと、ダイゴが新品みたいなコーヒーカップとドリッパーを出して、キッチンに立つ。丁寧にコーヒーを淹れてくれる。それを後ろから見るのは私の小さな幸せだ。カップがあまり使われた様子がなくて、ダイゴが洞窟に行く際に持って行くマグカップの方が明らかに使い込まれているのをセットで思い出すと、くすぐったい気持ちになれる。

「ねえこれ本当に美味しかった! ダイゴも食べよう!」

 そう言ってチョコレートの平箱を差し出せば、彼も興味の惹かれたであろうチョコレートに手を伸ばした。完璧なツヤを持つ、四角形のチョコレートだ。
 うん、美味しい。そう小さな声をダイゴが漏らすを聞いて、私もはにかんだ。
 美味しいを、笑顔を共有し合う。舌から広がる幸せに身を浸すと、色々なことがどこかに吹き飛んでしまう。
 私がこの年になってもダイゴの元にチョコレートを食べに行くのは、こんな瞬間が手放せないせいでもあるのだろう。

 一粒をじっくり味わい終わった後、コーヒーで口の中をリセットしつつ私たちは雑談に興じる。

「ダイゴは今年もいっぱいもらったの?」
「付き合いで渡されるものも多いよ」

 そうは柔らかく誤魔化されたけれど、私にはさっき冷蔵庫の中に積み重なったチョコレートの箱が見えてしまった。ダイゴは相変わらずおモテになるようだ。

 目の前に広げられて二人で食べているものも、ダイゴをどんな感情であれ想って贈られたものの中のひとつなのだろう。私に食べさせても良いものということは一応付き合いでもらったチョコレートだろう。確証はないけれど、想いを寄せてくる女性からのものをそう無下に扱えるダイゴではない。なので今年も深く考えず食欲にしたがって、私は二つ目にどれを食べようか吟味する。

「キミは?」
「え?」
「今年は誰かにあげた?」
「上司とかには一応あげたよ。でも今日、ここにいる時点で答えは見えてるんじゃないの?」

 幼かった私のバカな思い込みのせいで、私は未だ、バレンタインデーに自分がチョコレートを用意する側だという意識が持てないでいる。いくつになってもダイゴの元で食べられる絶品のチョコレートに舌鼓を打つばかり。生まれてこのかたバレンタイン特有のそわそわに身を浸したことがないのだ。

「え……。何、その顔」

 ダイゴがわずかに目を見開いている。何に対して彼が驚いているような表情を見せたのか、私にはすぐわらかなかった。

って、バレンタインデーの本来の意味、もう忘れてるものだと思ってたよ」
「何それ。忘れてないよ。だってこういうのって、嫌でも周りがこう……、浮き立つじゃない?」

 バレンタインデーが男の子の元にチョコレートが集まる日ではなく、チョコレートとともに想いを送る日だと気付いたのはいつ頃だったか。やはり周囲でそわそわし出した友達たちの空気を読んで、私は次第にバレンタインデーが本当はどんな日であるかを知っていった。
 でも記憶はあやふやだ。バレンタインデーの真実を知ることは、ダイゴの元に多くのチョコレートが集まる本来の理由を知ることと同じだった。
 私が何もかもに気づく前から、彼を好きだと思う人が多い物的証拠。私はその事実を直視することを避けたのだ。だから本当のバレンタインデーの境目は、誰でもない私自身によって有耶無耶にされている。

「ダイゴのせいで最初の方に美味しいチョコレートを知っちゃったからなぁ。美味しいものを友達に食べて欲しいって気持ちくらいはあるけど、自分の気持ちを乗せる勇気はなかなか……」

 恋心の前に極上の美味をダイゴと共に知ってしまったのは、私にとっては不幸だったかもしれない。思いを伝えるには手作りなんかが定番らしいけれど、絶品のチョコレートを知っていると自分の稚拙さが目についてしまう。手作り感がいいという意見もわかるけれど、それを可愛いと言われて受け取ってもらえる年頃はもう過ぎてしまった気もしている。

 もし誰かにチョコレートを渡すとしたら、相手はやっぱりダイゴだ。すぐにそう言い切れるのはそれが何度も首をもたげてきた考えだからだ。
 ダイゴにチョコレートを渡したらどうなるのだろう。たくさんの感情の中に私のもあっという間に埋もれてしまうのは目に見えている。けれど、私は貴方を好きだよ、好きな気持ちはここにあるよと呟いてみたい。そういう衝動に飲まれそうになったことは、一度や二度じゃなかった。
 だけどダイゴだからこそ気後れする。彼と何年も一緒にチョコレートを食べてきた。プロの作るチョコレートの味を知っているのは彼もまた同じなのだ。

「……うん、バレンタインデーに乗っかって気持ちを贈るってそういうの、私にはもうできない気がするな」

 逡巡を終え、出てきた答えはやはり変わらないものだった。
 ただ、何年も付き合ってきた感傷はやはり年月ごとに重たくなってきた。大人になるって嫌なことだなぁと思いながら、またひとつ、チョコレートに指を伸ばす。これはきっとピスタチオの味がするのだろう。目を閉じて味わおうと口に近づける。

「でもこれは、ボクからだよ」

 さらりとしたものだった。ダイゴの口ぶりは、私とは対照的に軽やかで、静かだった。
 言われたことが信じられないと、ダイゴの指先がそっとチョコレートの箱に添えられる。大事そうに添えられる指先は、人から貰ったものを横流ししているものへの触れ方と言うには繊細だった。

「ずっと。最初にが食べたチョコレート以外はずっと、ボクからキミにあげたものだった」
「なんで……?」
「食べた後の幸せそうな顔で、好きになったからだよ」

 耳に飛び込んできた言葉から逃避するように、チョコレートを食べる前に言われてよかった、なんて思った。こちらを見る真っ直ぐな視線にやられて、喉を詰まらせるところだった。

「ボクはずっとキミにチョコレートを贈り続けてきた。バレンタインは好きな人や大事な人にチョコレートを送る日だってこと、キミはすっかり忘れてると思ってたよ」

 苦笑いするダイゴ。確かにそう思い込んでいた時期はあった。でも今の私はバレンタインデーのチョコレートに、本当はみんながどのような想いを抱くか、知っている。

「それでも構わなかったから贈り続けてきたんだけどね」
「ま、毎年……?」
「うん、毎年だよ」

 ダイゴがやってきたこと、言わんとしていることが私にはちゃんと分かっている。理解して言葉を詰まらせる私を、ダイゴは目元を緩めながら見据えてくる。
 呆然としてしまう。ずっと彼がもらったたくさんのチョコレートの中で、しがらみのない幾つかから、おこぼれに預かっているのだと思っていた。
 でも今知らされたのは真逆の真実だ。

「ごめん、高級なチョコばっかりだったから……。そういうものとは、思わなくて……」
「そう思うのも仕方ないよ。ボクも最初の方は照れ臭くて、背伸びしたチョコレートを買っていたんだ。誰か大人からもらってそうで、でもが美味しいって食べてくれるチョコレートを毎年探してた」

 かろうじて出てきた言い訳のなんとみっともないことか。私は顔を真っ赤にして慌てふためいてるのに、ダイゴは溌剌とした笑顔を私に向けてくる。
 真っ直ぐにこちらを見てくるその目の色は見慣れたもの。だけど気持ちを知ってしまった今になって思い至る。もしかしてそこにずっと宿っていたのは、愛情だったの?

「今まで通り食べればいいよ。でも、これはボクからのチョコレートだからね」

 まだあったかく、湯気をくゆらせるコーヒー。チョコレートも私とダイゴがひとつずつ食べただけ。魅惑の甘さがまだたくさん私たちを待ち受けていた。