※主人公が幼少期に厳しい教育を受けていた、という軽微な虐待表現あり。苦手な方はお気をつけください。
目は、買付一覧表の紙に置いたまま。指は算盤(そろばん)の珠に滑らせたまま。だけど香りで、セキさんがまたギンガ団の会計室を訪れてくれた事に気付いていた。
セキさんはいつもいい香りがする。コンゴウ団の人が着物に纏う香と、彼が共に歩くリーフィアの香りが混ざり合った、深い森の香りだ。
彼が来ていることは分かっていた。だが私は計算中である。取り掛かっているのは備品購入に係る貸借対照表、つまり金勘定の取り扱いなので間違えるわけにはいかない。
全ての計算が終わって、ギンガ団の秘密である出納帳をしっかりと閉じてから、私は顔を上げる。
「いらしてたんですね」
表を見て算盤を弾くばかりの会計室に、全く似合わぬ男がそこに立っていた。
「応!」
派手な羽織。彼自身にもそのまま舞台に上がれそうなほどの華があり、笑うと目尻の化粧が目立つ。
「待たせてしまいました、すみません」
「いいさ。入っていいか? それとも外にするか?」
この部屋の常連であるセキさんは、この部屋の御法度がよく分かっている。会計室はギンガ団の懐事情を始めとした秘密の宝庫だ。だから彼は戸から先に、勝手に入ったりできないのだ。
「外にしましょう。天気が良いですから。お茶を持って行きます」
私はそっと引き出しを開けて隠しておいた紙箱を取り出した。
セキさんと食べようと思って、密かにとっておいたお菓子。無駄にならずに済んだことに胸を撫で下ろし、それを手に私は立ち上がった。
セキさんが会計室に現れるようになったのは、三月ほど前だろうか。
ギンガ団の活動が広がるにつれて、コンゴウ団間のやりとりが増えた頃。時々コンゴウ団の方々をムラでも見かけるようになり、私も本部内の廊下で何回かすれ違ったのを覚えている。
ぱちりと目が合った次の瞬間に、私はセキさんに名前を聞かれていた。狼狽えながら「です」と答える。すると、とんとん拍子に質問を重ねてくる彼が、当時の私は少し怖かった。セキさんはまだ私にとってはよく知らない、余所からの人という認識だったのだ。
「何回か見かけたが、ここで働いてるのか?」
「はい」
「……どんな仕事だ?」
「会計室で、算盤を弾いてお手伝いしてます」
「そろばん?」
セキさんは算盤を知らない様子で、片眉を上げる。
私も手伝いとは言え会計係。常日頃から懐に差してある算盤を取り出す。珠の滑るじゃらり、とした音は彼の好奇心をつついたようだ。
「なんだ、これ?」
「こうやって珠を弾いて、計算するんですよ。私はこれが少しばかり使えますので」
廊下で立ったままぱちぱちと珠を弾けば、みるみる彼の目が輝いていく。それが私とセキさんとの出会いだった。
算盤という、見たことのない内地の道具が大変に面白かったのだろう。以来、彼はコトブキムラに来るごとに私の仕事場へと訪れるようになったのだ。
最初は物珍しさでかまわれているのだと思っていた。だから一度二度、顔を合わせれば飽きて来なくなるだろうと読んでいたのだが、セキさんの会計室通いは途切れることなく続いた。
そんなセキさんの好奇心に、私は随分困惑させられた。
コンゴウ団の長であるセキさんは、本来ならデンボクさん直々にもてなすような相手だ。だけど私は、計算中は特にお構いできない。だから私が彼を戸の外で待たせてしまうことがしばしば起こり、全てが終わった後にずっと待っていたセキさんに気づき顔を青くした事が何度もあった。
コンゴウ団の人は時間を大切にすると聞いたから、待たされてしまい、きっと気を悪くしただろう。なのに、次も、そのまた次もセキさんは変わりなく足を運んでくれるのだ。熱心な有様に首を傾げていた私へ、答えをくれたのはシマボシさんだった。
『、分かっているな? コンゴウ団の長がどれだけ色男だろうと、ギンガ団の懐事情は絶対の秘密だ。同時に貴様自身もギンガ団にとっては貴重な人材だ。こちらは余程のことがない限り、貴様を手離すつもりは無いからな。軽々しく着いていくなよ』
なるほど。目の前が開けたようだった。
セキさんはギンガ団から会計の仕事ができる誰か、もしくは私が握る財政の情報が欲しいのだ。それで小娘の私に近づいている。シマボシさんの忠告は筋道が通っていてしっくりと腑に落ちた。
セキさんの熱心さがずっと分からなかった私はそれからは秘密は守ったまま、セキさんとは適度で清い人付き合いを続けている。
清く、絆されず、それでも失礼のないように。相手の美男っぷりに道を外れそうになる感情は、都度冷水を浴びせながら。私は気を引き締めてセキさんの来訪のお相手を務めた。
だけどある日のセキさんが私を変えた。
私からつい、ぽろりと口にしたのがきっかけだった。
『私を待つ時間は、コンゴウ団の教えからしても無駄な時間ですよね。申し訳ないです』
セキさんの答えは直ぐだった。
『そんなことない。腹の底が知れない相手には誰だっておいそれと自分のことは話せないだろ? でもオレはさん、あんたの事が知りたい。そのために必要な時間を、必要になるまで注いでるんだ。それは無駄な時間とは呼べないな』
すばりそう言い切った彼の流し目が、その日の晩も明くる朝にも瞼の裏に残った。あまりの色気に、いつまで経っても心の臓が落ち着かなかった。
ずるい、と思った。私を待つ時間には価値がある、いくら注いでも惜しくないという口ぶりは、勘違いしてしまいそうになる。
悔しいと思っている時点ですでに私の心はすっかり見出されている。私は諦め、認めた。私はまんまとセキさんを慕うようになってしまったのだ。
思い返せば、相手が悪かった。セキさんほどの男はムラをひっくり返してもそういない。私はこの人に簡単に落とされてしまう定めだったように思う。
それでも、住む場所も、信じるものも違う相手だ。セキさんの興味だって私自身に向いている訳ではない。だから私はギンガ団の会計係の端くれとして身の程を弁えて、今日もぱちぱちと算盤を弾いている、というわけである。
外に出て正解だと思った。
彼には高く晴れた空がよく似合う。常に花を担いでいるかのような彼に、あんな埃っぽい部屋はなんだか似つかわしくない。
お茶を注ぎ、菓子を広げればセキさんの眼がまた輝く。見た目が面白いこのお菓子を、ひと目見た時からセキさんにあげてみたいと思っていた。願った通りに彼が喜んでくれていて、私は密かに笑んでしまう。
セキさんはするりと懐から出てきたイーブイにもお菓子を分けてあげる。鼻をひくひくとさせてから人間と同じものを食べたがるイーブイは可愛らしい。
「さん、随分イーブイにも慣れたな」
「まあ、セキさんのポケモンですから。野生のポケモンはまだ怖いですけど」
「そうだな、でもムラの外で見かけてもイーブイなら大丈夫だ。臆病な奴らだからイーブイの方から逃げ出すぜ。ああでもちょっかいは出すなよ、オヤブンがいつ飛んでくるか分からねえからな」
「ちょっかいなんて出しませんって」
ムラの中で過ごして、算盤を弾いてばかりの私には、セキさんの話はどれも面白く感じられた。野生のイーブイは、遠くから、味噌の中の豆粒より小さいところしか見たことがない。
「さん。そっちも何か、幼い頃の話でもしてくれよ」
「そんなの、聞いて面白いですか?」
「ああ、前にも言っただろ。オレはさんの事が知りたいんだ。あんたはどんな子供だった?」
「そうですね……」
セキさん相手にギンガ団のことは何も喋れないが、私自身の事なら話しても問題ないだろう。私は努めて明るく、口を開く。
「幼い頃はあまり遊ばせてもらえなくて、勉強ばかりでした。算盤も。座れるようになってすぐに、叩き込まれたんです」
「へえ。教育熱心な親御さんだったんだな」
「いえ」
興味を持って耳を傾けてくれるセキさんに私は苦笑いをした。そんな良い話ではないからだ。と同時に思ったのは、私はなぜこれから楽しくもない身の上話をセキさんに打ち明けようとしているのか。でも喋り始めた舌は、するりと回り出す。
「生まれた時から決まっていた嫁ぎ先が、商家だったので。将来の旦那様からの言い付けだったんです。算盤も出納についてもよくよく習わせておけ、いずれ家業を手伝う事になるからと」
「……その旦那は、コトブキムラにいるのか?」
「いえ。私、逃げ出したんです。実家から」
「………」
「旦那様になる方は、二十余り歳上でした。算盤も、その方も好きになれませんでした。それで家から逃げ出したんです」
「そりゃあ、大変だったな……」
「一筋縄で行かず、大騒ぎでした。でもデンボクさんに、お知り合いの用心棒をつけていただいて。とても腕の立つその方と、彼のポケモンの力を借りて、どうにか……」
逃げ出すまでは本当に散々な日々だった。周囲に味方になってくれる人はいないのだと悟って、あの日、身一つで抜け出した。
野垂れ死も覚悟していたが、結婚相手の評判の悪さが幸いして、デンボクさんが情けをかけてくれたのだ。
数日後にヒスイ地方へと旅立つ船が港から出ることを知り、私は新天地へと逃れることを決意した。数日耐え忍んで隠れ切るためにムベさんと彼のポケモンを頼った。彼とエルレイドは今思い出しても頼もしく、この世に味方なんていないと思っていた私は、心までも救われたものだ。
「その方が算盤の腕を生かして働くように言ってくださったんです。嫌々ながら身に付けた算盤でしたけど、おかげさまで仕事にありつけて、今は私を助けてくれています。ちょっと、面白いですよね」
何時間も正座をさせられて、計算を間違えれば顔も腹も叩かれた。両親の顔を思い出すと、どうしても郷愁よりも恐怖が呼び起こされる。
だけど、今の生活を思えば私に算盤があって良かったと言わざるを得ない。算盤を扱えるということがギンガ団内での私の居場所を作った。そしてセキさんが、興味を持って、訪ねてきてくれるようになったのだから。
「人生どうなるか、分かりませんね」
暗い話をうまくまとめたつもりだった。だけどセキさんから返ってきたのは、楽しんでくれたとは言い難い硬い声だった。
「……その知り合いってやつは?」
「え?」
「話の通りなら今もムラにいるんだよな?」
セキさんの勘の鋭さが怖い。デンボクさんの知り合いと濁した存在を彼は流してはくれなかったようだ。ひやりとした汗が首を伝う。
ムベさんの事もまたギンガ団の、限られた者しか知らない秘密だ。私はそっとセキさんから目を逸らした。
「……そろそろ仕事に戻ります。セキさん、私のお菓子も持って帰ってください。変なお話を聞かせてしまったお詫びです」
「さん」
「助けてもらったその方には感謝しています。恩義を果たしたいので、その方のためにも一生懸命働きませんとね」
ムベさんの所在には触れず、笑顔で話を畳んで、私は会計室へと逃げ去った。
自分の机に戻ってから、ふうと熱い息を吐き出す。
秘密を喋ってしまいそうになったこと、それから胸の内を少し、出してしまったことが私の顔を火照らせた。
褒められた過去ではないくせに、セキさんに知って欲しい。そんな欲求が自分の体内に渦巻いていたことを思うと、私は言葉もなく悶えて、しばらくあちこち歩かないと収まりがつかなかった。
それにセキさんの聡さには肝が冷えた。危うく秘密事項に彼を触れさせてしまうところだった。
デンボクさんとムベさんに、私は恩義がある。それこそ命を救われたのだから、ギンガ団を裏切ることはしたくない。
気を引き締めないと、シマボシさんにも叱られる。自分を叱咤して、算盤に指を這わす。
だけどその日からセキさんは、ぱったりと会計室に来なくなってしまったのだ。
釣るまでは熱心に通うくせに、釣りあげると途端に興味が尽きて餌はあげないという、あれだろうか。それともやはり、婚姻をわがままに拒否し、育ててくれた両親を裏切るような女だったことを知って、セキさんを落胆させてしまったのか。
今日もまた、答えの無い問いが私の中をぐるぐる廻る。
セキさんからの訪問が途絶えてから、私は底なし沼に突き落とされたかのようである。
コンゴウ団が慌ただしいという噂も聞かない。セキさんに何かあったというわけでも無さそうで、なので一層私の身の上がきっかけとしか思えないのだ。
彼の関心を失ったことが日増しに確かなものになっていく。事実を知られて、見切りをつけられたのなら仕方がない。仕方がないと自らに言い聞かせている。
けれど、一日に何度も、悔いてしまう。
セキさんに対面するのは上辺だけの私で良かったのだ。
時を巻き戻せたら、あんな身の上話は絶対セキさんに聞かせない。セキさんに知ってもらいたいなんて欲も抱かない。
はぁ、と後悔が今日もため息になる。
「一度でいいから行ってみたかったなぁ、コンゴウ集落……」
セキさんはとても話し上手な男だった。彼の口から語られるあれこれは幾度となく私の胸を躍らせた。
特に愛情に満ちた口ぶりで聞くコンゴウ集落での生活や、そこで見られる景色やポケモンの話には興味をそそられた。コトブキムラの外は怖いと知っているのに、いつか自分の目で見たみたいと何度思わされたか。
それももう叶わぬ夢だ。また深々としたため息をついてしまう。
「え? 来てみる?」
独り言が口から出ていたこと、それから返事があったことに思わず振り返ると、ヒナツちゃんは慌てた声をあげた。
「あっ、首を動かすな! 髪が崩れるだろ!」
「ご、ごめんなさい」
「もう少しで完成するからね」
「はーい……」
私は大人しく椅子に座り前を見る。
散髪屋に訪れたのは久しぶりだった。起こってしまったことは仕方がない、仕方がないという言葉で片付けようと試みてはいる。けれど実際は、がつん、と岩で頭を殴られたようになって、どん底に沈んでしまった私は、少しでも気分を変えようとここに来たのだった。
たまには髪を結ってもらおう。それは我ながら良い思いつきであった。
ヒナツちゃんの女の子らしい手が私の髪を掬い、一房ごとに櫛を通していく。自分の一部が丁寧に扱われているのだからそれだけでも心地がいい。
渡された手鏡を覗き込むと、どんよりとしていた顔つきや頬の色が随分良くなっている。
「さん、コンゴウ集落に興味があるんだ?」
「あ、うん。良いところだって話に聞いたから……」
「聞いたってのはリーダーからだろ?」
返事が途切れて沈黙してしまった私を、ヒナツちゃんは晴れた空のような笑顔を向ける。
「ちょうどあたしも集落に用事があって、一度帰ろうと思ってるところなんだ。髪も結ったんだから、リーダーに見せに行くっていうのはどう?」
「うーん……」
私は曖昧に笑んだ。ヒナツちゃんに結ってもらう髪は誇らしい。けれど私は体の良い言い訳を口にする。
「コンゴウ集落には一度行ってみたいと思うけど、私にはギンガ団の仕事があるから難しいかな」
「……そっか! じゃああたしが言っておくよ! さんがとびきりのお洒落してたってな」
ちょっとした気分転換をとびきりのお洒落に変えてくれたのはヒナツちゃんなのだけど。まあ彼女がセキさんにどう言おうと私は構わなかった。
私が少しくらいめかし込んだからって、そんな事がセキさんの心を動かすとは思えない。悲しいけれどそれが事実だろうなと思い、軽く流しておいた。
だけど、ヒナツちゃんがコトブキムラから出て数日。
私は今日も財務に係る経費をまとめた紙を受け取って、算盤を弾いていた。あれこれ、けちけちと金勘定のことを強くいうのは苦手だ。なので、ただただ、間違える事なく計算する事に集中する。
ぱちぱち、じゃらり。その音を聞きながら、また、算盤ができてよかったなんて思う。計算に心の全てを注げば、悲しいことから目を反らせるからだ。
ちょっとしたことで気持ちが挫けて少しだけ泣きそうになるのも、見ないふりをすれば、じきに霧散する。そうやって私は今日という日さえも誤魔化してやり過ごそうとしていた。
ふと、深い森の香りがした。珠を弾く指が止まって、紙から目が離れて、今まで積み上げた計算がばらばらと崩れてしまうのも構わずに、私は顔を上げた。
「……セキさん」
「……、……よお」
思わず立ち上がる。私が何か言う前に、セキさんは私に背を向けてしまう。
「あー、やっぱりだめだ。すまない」
ようやく顔が見られたのに、セキさんは踵を返して去ろうとしている。
気づけば私は自分から会計室を飛び出して、彼の前に立ちはだかっていた。
「い、行っちゃうんですか!」
「すまない、悪いのはオレの方だから……」
「そんなの、嘘ですよ……」
まるで泣き出す前の子供みたいに息が上がる。セキさんを待っていた時間の分、積み上がった感情が溢れかえりそうになっているからだ。
「どうして急に顔を見せてくれなくなったんですか……?」
それは精一杯の理性的な問いかけだった。本当はもっと聞きたい事がある。
私に飽きたんですか? 過去を知って、もう満足したんですか?
他に誰か、良い計算の腕を持つ方でも見つけましたか? そちらの方が良くなりましたか?
算盤ができるように育ててもらったくせに、それを裏切ってここにいる私が、汚らわしくて嫌になりましたか?
全部事実で、仕方がないことだ。もし頷かれたとしてもセキさんは責められる筋合いがないだろう。それでも彼からしたら面倒臭い感情ばかりが次々と私の胸を突き上げてきて、ついに剥き出しの本音が私の胸の内で戦慄いた。
それとも何。遊びだったんですか?
すぐそこまで迫り上がった独りよがりな問いを、はぁ、と切れる息を奥歯で噛めば、涙が一粒目尻からこぼれた。
苦しい。そんな思い上がった文句が思い浮かぶほど、私は目の前の男が好きだったようだ。
「さん、色々と誤解がある。いや、オレが誤解させちまったんだよな」
「何の誤解があるっていうんですか」
「オレの行動は多分あんたを悩ませてしまうって分かってた。分かっていて、このザマで、すまない」
私をまんまと嵌めた男が眉根を寄せる。やはりずるいくらいに美しい。
同時に、この場に及んで彼を美しいなんて思っている自分が愚かしくて、横に崖があれば身を投げてしまいたいくらいだ。
ふとしたら、セキさんの胸を叩きそうにもなる衝動が、私の手足に走っていた。けれど寸でのところ、セキさんから零された一言が、私の時を一瞬止めた。
「嫉妬してたんだ」
「嫉妬って……」
「まんま子供のそれだ。さんの事が知りたかったくせに許嫁の話やら、恩義のある人のことを聞いたら、つまらない欲や苛立ちでどうしようもなくなっちまった。過ぎた話なんだから妬いたって仕方ないだろって、どんなに頭を冷やそうとしても、冷静になれなくてな」
セキさんは私がどうでもよくなったんだと思っていた。
だけど、二人の間に曝け出されたそれは無関心とは正反対の感情を象っている。
「集落に居ても四六時中腹が立って仕方がないんだ。だからここに来てもオレは苛立つんだろうなと思って。余裕のない格好つかないところをさんに見せるくらいなら、取り繕えるようになるのを待つつもりだったんだが」
吹き出しそうな衝動は細い煙を上げて鎮火した。代わりに、自分の鼓動が遠くで近くでわんわんと鳴っている。
「……嫉妬って。やきもちって、ことですよね」
「さっきからそう言ってる。元の許嫁にも、恩義がある知り合いとやらも気に食わねえ」
「嘘」
「嘘なことあるか。かつてあんたを娶ろうとして生きる術を与えた男にも、そこから救い出したのがオレじゃない事も、腹が立つんだよ。全部オレだったら良かったのに、なんて思う。でもオレは、そういう時を経てここにいるさんが、綺麗だと思って好きになったわけで……。この葛藤がわかるか?」
わかるかわからないかで言えば、わからない。ムベさんはまだしも、あんな男とは比べようも無いほどセキさんの方が良い男なのに、ひとつひとつに嫉妬して悩むセキさんがわからない。
だから私は呆然と首を横に振る。それにセキさんが私を綺麗だと、好きだと言ったことが、耳の奥で何度も響き渡って、すぐに頭に入ってくれないのだ。
「と、いう訳だ。だからさんがあれこれ悩むようなことじゃねえよ」
「そんな事を気にして……?」
「ああ、くだらないさ。格好悪いことは百も承知だが」
「っセキさん!」
意を決して彼を呼ぶ。言葉を遮る形になってしまったのに、応、と頼もしい返事がある。
「……私がここに来るまでのあれこれは、決して褒められたものでは無いかと思います。で、でも、私は無ければよかった過去だと思いません」
過去について、これで良かったのかと悩む夜もある。耐えられやしなかった、他に道は無かったと思う一方で、道義に反してしまった行いだと、誰か呪うように私に言うのだ。
けれどこの地に住み着いて年々育ってきた思いが確かにある。ゆっくりと根を張り、背を伸ばしてきた木に実ったそれを、初めての恋をした人へと、私は差し出す。
「どんな過去でも、おかげでこうやってヒスイの地に流れ着いて、セキさんに会えたんですから!」
「な、なんでそう……」
「セキさんに出会えた今を思えば、これで良かったのだと思えるんです。セキさんは私にとってそんな人なんです……!」
「さん……」
もう一度、セキさんが私の名を呼ぶ。さん、と噛み締めるように。
「あんまり言うと、連れて帰っちまうぞ。それも時間が勿体無いから今日のうちにな。いや、今のは忘れてくれ、さすがに順序ってものがあるよな」
セキさんの、布が巻かれた手が彼の顔を覆っている。鮮やかな髪の隙間からは赤い耳が見えている。余裕のない、恥ずかしがっているセキさんはなんだか可愛い。そんな表情を初めて見られて、密かな達成感に私の顔は緩んでしまう。
胸の内を打ち明けて、私の全身は熱くなっていた。声や視線にまで熱が帯びて、きっと赤いであろう目元でセキさんを見上げると、私はそのまま似合わぬわがままを言った。
「……、もう会えなくなるくらいなら、連れて行って欲しいです」
セキさんの喉仏がごくりと上下して、私は思わず彼の返事に期待をしたのだが。
「それは困る」
ぴしゃりと遮って入ったのはシマボシさんの声だった。小さいが逞しい背中が、セキさんとの間に割って入ってくる。
「はうちの会計係の大事な一員だ。簡単に代えの効くものではない。まずは私に話を通してもらおう」
はたと思い出せばここはギンガ団の廊下。私とセキさんのやりとりは衆目の中で行われていたことに気づき、私は恥ずかしさを急に思い出す。
廊下には人が散見され、何人かが私たちのやりとりを見ていたようだ。
「せ、セキさん! 周りに人が?」
「ん? さん気づいてなかったのか?」
セキさんは恥ずかしくないのだろうかと袖をひけば、どうやら周りが見えてなかったのは私だけのようだ。セキさんはわかって堂々としていたことを思えば、ますます恥ずかしい。
あ、あ、と変な声を上げて物言えなくなってしまった私とは打って変わって、セキさんは怯むことなくシマボシさんに対峙する。
「おいおい、隊長さん。人の恋路を邪魔するもんじゃねえよ」
「例え恋路の邪魔であろうと大事な者の行く末がかかっているなら、口も手も私は躊躇なく出すぞ。軽い気持ちでに手を出すようなら頭領も、頭領の懐刀も黙っていないので覚悟しておけ」
「望むところだせ」
有難い言葉の応酬に全身が赤くなるやら、やらかしていた事に気づいて顔が青くなるやら、こんな風に私を思ってくれる人がいる事に涙が出るやらだ。
セキさんは住む場所も、生きてきた地も信じるものも違う相手だ。まだまだ前途多難、きっと困難が再訪することもあるだろう。けれど、今は溢れんばかりの幸せを感じる。深い森の香りを吸って、私は笑った目尻の涙を拭った。