数日ぶりに訪れたポケモンリーグ。その日のさんは、リーグに出勤するなりからげんきの笑顔で挨拶をボクにくれた。
「あ、ダイゴさん。おはようございますー……」
「お、おはよう」
声にも元気がない。目の下のクマも隠せていないさんに、ボクの返事も一瞬詰まってしまう。
疲れが全くとれていないのだろう。無理の滲む笑顔が痛々しい。
さんは目を丸めてるボクに気づく余裕もないようだ。デスクへと向かっていく背中をボクが視線が刺さりそうなくらい目で追っているのにも、やっぱり振り返らない。
パソコンのキーボードを叩き始めたさんの片手が、デスクの上の空を切る。すぐにボクは気づいた。その手はいつも飲んでいるアレを探しているのだろう。
「お疲れ様。ボクが用意してくるよ」
何も昨日今日の話じゃない。ずっと頑張っている姿を見ていた。だからその頑張りに些細な何かしらを送りたかったに過ぎない。
ボクが何を言っているかよくわからない。そう書いてある顔に、
「コーヒー、いつも朝に飲んでいるから、今日も飲むよね?」
と聞けばさんは恐る恐ると言った様子で頷いた。なのでボクも頷きを返して、彼女のためのコーヒーを用意したのだ。
それはもう10分以上も前の話である。
「………」
「さん……?」
本当に、ボクは朝のコーヒーを用意しただけだ。
特別なことは何もしてない。カップを出して、コーヒーメーカーのボタンを押しただけ。砂糖やミルクの加減がわからなかったのでソーサーにスプーンと一緒にポーションミルクやスティックシュガーを添えて、彼女の目の前に差し出した。
ただのコーヒーが一杯。なのに、さんはさっきからずっとゆっくりと湯気をあげるコーヒーを見つめる。その目を輝かせて、固まっている。
喜んでくれているのは、そのぽかんと空いた口を見ればわかる。むしろ、思っていた以上にものすごく喜んでくれているのが伝わってくる。
迷惑でなかったことには安心だ。けれど、ボクの労力には釣り合わない彼女の様子にくすぐったい笑いが込み上げてくる。
「喜びすぎだよ」
それは苦言ではなくて、からかいの言葉だった。
コーヒー一杯で無防備に感動してる姿を見せてくれる彼女。さんの中では純粋な感動が花火のように弾けてきらめているのだろう。
まるで憧れのポケモンに出会えた子供みたいだ。その姿が面白いが故に、こちらも子供っぽいちょっかいを出してしまう。
「だって嬉しくて……!」
「見つめてばかりいると冷めちゃうよ?」
「大丈夫です! わっ私、猫舌なので!」
「そ、そうなんだ」
さんが微笑まし過ぎてボクは笑いを堪えられない。思わず声が震えてしまうくらいだ。ボクが声を揺らしながら相槌をするも、さんはそれどころじゃないというようにカップを見つめている。
よく見れば、彼女の手がポケットにしまった携帯端末に触れては離れ、離れては触れてを繰り返している。
「もしかして写真を撮りたいのかい?」
「あっ、いえ、その……いいですか!?」
「どうぞ」
本当に写真を撮り始めた彼女が面白くてたまらない。角度を変えながら、ボクが用意したコーヒーの写真を撮るさん。真剣な姿に、ボクの目尻にほんのり涙が止まるくらいの笑顔をもらってしまった。
「すっごく嬉しいです……。有り難くいただきます!」
感動をひとしきり写真に収め、さんも多少落ち着いたらしい。ようやくコーヒーに一口つけてくれた。
「あったかい……」
すでにだいぶ冷めてしまっただろうに、彼女は目を細めながらそんな感想を漏らす。
コーヒーはマシンで落としただけだからいつもの味で、ただボクは運んだに過ぎない。なのに、花の咲くような笑顔をさんはボクに向ける。
「ダイゴさん。お気遣い、本当にありがとうございます」
「あまり頑張りすぎたらだめだよ。ボクはさんが心配だよ」
本気でさんのことは心配している。だけど彼女のがむしゃらな頑張りように、ボクの気持ちが伝わりきる自信は無かった。
けれどさんはカップの取手をゆっくりとなぞった後、あまり見せたことのない表情をボクへと向けた。
「……本当はすごく疲れていて、すごく憂鬱な気持ちでここに来たんです。今日頑張ったら終わるはずだって自分に言い聞かせて、気持ち的には這いつくばってここまで来た!って感じでした」
もちろん例えですよ、と彼女は冗談で済まそうとしている。その姿はやっぱり痛ましい。
「昨日も夜遅くまで残業することになって……。夜のオフィスで一人だと、集中できたんですけど孤独感もすごくて、もうちょっとで泣きそうでした。だからダイゴさんが頑張ってるねって言ってくれたの、すごく嬉しかったです」
「さん……」
「自分の頑張りを見ててくれた人がいるんだって思ったら、今度は嬉しさで泣きそうになりました」
ボクが抱くのは後悔だ。ありがとうございます、と彼女が微笑むのを受け止めながら、ボクは自分を恥じていた。
さんの健気な頑張りをボクは知って、認めている。それでもボクは見つめるだけだった。今日まで形にしてこなかったのだ。
見えないところでは彼女のことをあれこれ考えていた。むしろ知られたら驚かれてしまうくらい、彼女のことを考え過ぎている。仕草ひとつを目線で拾い上げていることは知られてはいけない気がして、それを隠すようにさんとは世間話くらいしか交わせていなかった。
事実として、ボクが彼女に手渡せたのは、この一杯のコーヒーだけみたいなものだ。
どうやらボクはもっとこの気持ちを手渡していいようだ。一杯のコーヒーであれだけ喜んでくれるような子なら尚更だ。
そっと育っていた気持ちが、ようやく芽を出す先を見つけたようだった。
「……キミの仕事、何かボクに手伝えるかい?」
「いえ! チャンピオンにそこまでさせるわけには行きませんよ! 本当に終わりも見えてますし! お気持ちだけで十分です!」
「じゃあ何か要望は? 現場の改善のために、ボクからも何か言わせてもらおうと思ってるんだ。来期はこうならないようにしたいよね」
「あ、ありがたいです……!」
ボクに向かって手を合わせるさん。業務改善の気配にボクを拝むほど喜んでくれている。そこまで追い詰められていること、今まで知らずにいてごめんね、と内心で呟く。
「ダイゴさん、落ち着いたらお礼させてください!」
おそらく儀礼的な言葉でもあっただろう。だけどさんが見せた隙を、逃すようなボクでは無い。自然と笑ってしまうままの笑顔で、ボクはその一手を彼女へと投げた。
「じゃあ、お礼にボクとランチデートするのはどうかな?」
「………、……え?」
「考えておくよ、さんと行くところ」
「えっ!!?」
急に血の気が差してきた両頬が可愛らしい。今日のボクはさんに笑顔にしてもらってばかりだ。
さんはボクが入れた一杯のコーヒーであんなに喜び、たくさんの表情を見せてくれた。彼女の疲れを少しでも緩和させたかったに過ぎないのに、むしろボクの方が新鮮な感情をもらってしまった。
それだけでキミを好きになって良かったと思える。
感情の種に冷たい水をたっぷり注いだのはさん自身だ。
この嬉しさをどんな形で手渡そうかと考える今という時間も楽しくてたまらない。溢れそうなくすぐったさを抱えて、ボクは次のさんの休日に思いを馳せるのだった。