漫画やドラマの中でしかないと思っていたような世界は、現実にもあったのだ。ダイゴさんという人を見かける度に私はそう感嘆してしまう。
 髪の毛一本から指の先、足のラインまで眩しさを反射する。隙がなくて、きっと何かの間違えで触ることはできるのだけど、その瞬間に罪を咎められるのではないかと思うような存在感。
 私の勤める会社に彼が現れる度に、私はずっと後を引く苦しさを覚える。

 ダイゴさんを見かけるのは月に一度か二度。カナズミの端に位置する社屋。建物にも古さが帯びてきた私の勤務先。場違いなそこへ彼は現れる。
 ダイゴさんが目の前に現れると私の息はいつも止まってしまう。ダイゴさんが去っていくとようやく肺が動きを思い出す。惚れ惚れというよりは圧倒されて息が詰まる感覚が正しい表現だ。
 値段がつけられないくらいお高そうと、一眼で分かる美術品が目の前を通ったら、まるで存在を気取られてはいけない気がしてきて、動きを止めてしまう。あれと同じ。

 彼が物語に出てくる登場人物のようだと思う訳は、そのかっこよさや高貴さの他に、もうひとつある。ダイゴさんが会いにくるお相手だ。
 私の先輩でもある彼女は、この会社で一番の美人である。
 お二人の父親が友人である関係で、ダイゴさんとは幼い頃からの仲だそうだ。ダイゴさんは私の勤める会社に突然現れると、必ず彼女の顔を一番に見に行く。先輩の方からロビーへと降りてきて、ダイゴさんと談笑している姿も私は見たことがあった。

 ダイゴさんが先輩の婚約者であるというのは、社内の皆が知っている。公然の秘密というやつだ。
 それを知ったときは驚きより、納得ばかりが胸に広がった。
 先輩もダイゴさんほどではないけれど綺麗な人だ。持ち物や、ちょっとした生活の話題からもお金持ちだとわかる。それでいて嫌みが無い。振る舞いには常に余裕があるところとかもダイゴさんにぴったりのお相手だ。

 カナズミの隅にある古びた社屋。そこに現れる、名のある結晶みたいな彼が会いにくるのは、幼馴染で美しい婚約者。
 まるで少女に夢を見させるための作り話だ。何度目の当たりにしてもため息が出る。惚れ惚れを通り越して、魂がちょっぴり抜けていくような、そんなため息が。
 とにかく眩しすぎるもの。私にとってダイゴさんとはそういう存在だったのだ。


 予定変更でやるべき仕事が泡みたいに溶けてしまった。別の仕事は先方の連絡待ちで動けない。午前帯。どうしようもなく時間が浮いてしまったので、私は上司に一声かけてデスクを離れた。
 足は慣れた道筋を辿っていた。気分転換にと足を向けた社内の中庭。カラカラ鳴る戸を引くと、私の顔を上げさせたのは光を含んだ柔らかい風だ。たっぷりと吹いて木々を揺らす。枝のたわみに耐えかねたスバメが、それならばと木の葉と一緒に風を捉えて飛び出す。
 ふらつくスバメを見送りながら進んだ先で、空から目線を戻してすぐ、私はビシリと固まってしまった。ダイゴさんに、近づき過ぎてしまったからだ。
 ダイゴさんが来てるだなんて思わなかった。彼が木漏れ日に巧妙に隠されていたせいもあって、私はダイゴさんから1メートルもないところへ入り混んでしまっていた。

「やあ」

 意外なことにダイゴさんの方から声をかけてくれた。ばっちりと目が合って、強い眼差しが私の全身を射抜いている。そう思えるくらいダイゴさんは意識を真っ直ぐに私へ向けていた。

「こ、こんにちは……」
「こんにちは」

 まだこの人の前で私はどんな役として振る舞ったらいいか、どの立ち位置にいたらいいのかがわからない。所在無い私に対してダイゴさんは、はきはきとした挨拶と微笑を返してくる。

 意外に思われるかもしれないが、私とダイゴさんは何度か言葉を交わしたことがあった。まあ先輩よりは格段に少なく、会社の受付とどっこいどっこいくらいの回数だが。
 理由はこの場所にある。
 ダイゴさんが腰掛けているベンチは私のお気に入りスポットだ。考え事をしながらランチを食べたいとき、資料をしっかり読み込みたいとき、足に力を入れ直して今日を乗り切りたいとき。そんな瞬間に私が腰を落ち着けるのがこの、中庭のベンチなのである。
 ベンチ自体がかなりボロいし、ツチニンどころかのヌケニンが出るとの噂もあって社内では人気がない。だけど、ひんやりと冷たい日陰が最高に気持ちの良い場所なのだ。
 ダイゴさんという生まれも育ちも何もかも違う男性。だけども彼はこのベンチの心地よさは不思議と同じものを嗅ぎ取ったようで、この木陰に時々現れるのだ。

「あの。先輩のこと、呼んできましょうか?」
「先輩?」

 ダイゴさんは一瞬きょとんとし、それから柔らかく首を横に振った。

「ああ、それには及ばないよ。彼女にはついさっき、会社の前で会えたからね」
「そうなんですか? じゃあ、他に何か御用が?」

 どこかの担当者にでも会いにきたなら内線くらいはかけられる。意識を事務所の方に向かわせながらダイゴさんの用を聞こうとすれば、彼は微かに苦笑いをしていた。

「ボクのことなら気にしないでよ。さんは? 座るかい?」
「いえいえ!」

 両手を振って遠慮を示したのだけれど、ダイゴさんはそれよりも早く腰を少し浮かせ、私の座るスペースを作っている。
 横にスペースを開けてもらっても、座れるわけがない。私が動けないでいるとダイゴさんは言う。

「それともボクがいるとさんの邪魔になってしまうかな?」

 セリフの割に声も顔も悪びれていない。彼に腰を上げるつもりは無さそうなので、これは遠慮でもない。こんな状況では私は「そんなことないです」と言うしかないではないか。
 横に座る流れがいつの間にかできている。ぐらぐらとした目眩がするが、仕方なく、私はなるべく体を小さくしながらベンチの横へと座らせてもらったのだった。

 ベンチに差すひんやりとした影の冷たさが好きだった。だけど今日は影の中にいても、首の横に熱が燻る。暑くって仕方がない。私の膝の横に、スッと伸びたダイゴさんの足。視界の端ではダイゴさんの指輪の反射光が踊っている。
 私は横が見られず、下ばかりを見た、四つのつま先は同じ方向を指している、それだけを見つめた。

「……それで、ダイゴさん。他の御用件は? 大丈夫なんですか?」
「キミの言う”他”ってなんのことだい?」
「だって先輩にはもう会ったんですよね? その他にうちの会社に来る用事があるんでしたら私が取り次いだりしますけれど……?」

 ふう、というダイゴさんの息遣いが聞こえた。息ひとつが耳に届く距離であるのがまざまざ感じられ、私は舌の奥が痺れていくのに感じ入った。

「まず、ボクは彼女に会うためにこの会社に来ているわけじゃないよ」
「えっ、う、ウソだ」

 思わず気やすい声が出るほど驚いた。会社中に知れ渡っている常識がたった今、覆されたのだから。
 私の素の反応が可笑しかったのだろう。ダイゴさんは「嘘じゃないよ」と言いながら口元に手を当て、小さく笑っている。

「どうしてそう思われているんだろうね」
「先輩とは幼い頃からの仲だって聞きました」
「うん。それは事実だね。彼女の父親は、ボクの親父と古くからの知り合いなんだ」
「はい、それも皆さん知っています。だから先輩とダイゴさんって”そういう”仲っていうのも皆さん存じ上げてますよ」

 ダイゴさんも先輩もいわゆる結婚適齢期。お互いに仕事は順調そうだし、いつ先輩の結婚報告が耳に入ってきてもおかしくないと思っていた。
 だけどダイゴさんには眉唾物だったらしい。恐る恐る横を見たダイゴさんは言葉を失っているようだった。
 そして気がついた。ダイゴさんが、首筋にうっすらと汗をかいている。あ……、とごくごく小さな息が私から漏れた。

「彼女のためにわざわざ来ていたんじゃないんだけどなぁ。どうしてそう思われてしまったんだろう」
「どうしてって。大人になってもわざわざ会いに来る相手なんて、特別な存在に決まってるじゃないですか」

 その点については異論がないようで、ダイゴさんからも「それは、そうだね……」と同意が返ってくる。
 大人には大人の関係性がある。実利的で、でも自然に手に入る、どこか薄い関係性。だけど二人の間柄はまるで違う。
 環境の変化と共に子供時代からの関係なんて簡単に切れてしまう。脆いそれが今日まで大事に保たれているというだけで、何も無いわけが無いのだ。

「だから会社の人たちはみんな、お二人が将来の約束をした仲なんだと……。違うんですか?」
「違うよ」

 はっきりとした否定だった。ただ信じ切れない私の戸惑いを感じ取ったようで、ダイゴさんは困ったように説明を重ねていく。

「ただ、近くに来たら挨拶しただけだ。そういったマナーは親父から叩き込まれているからね。癖みたいなものだよ。だからさん、ボクと彼女については誤解だよ」
「本当ですか? ただの挨拶にしては……、よくこちらにいらっしゃるじゃないですか」

 そう。会社の中で流れる噂を裏付けたのは、ダイゴさんの訪問が頻繁だからだ。足を運ぶ頻度の高さに私は感じ取っていた。これがダイゴさんから先輩への愛の証だと。

「そちらの社長さんとボクの親父は古くからの知り合いだ。その関係で、ボクがこの会社に寄贈したものがあるんだ」

 ダイゴさんは途端に子供っぽい顔をして、ベンチの横へと手を広げた。

さん、この石はボクが見つけたんだ」
「………」

 自慢げにしているダイゴさんの腕の先を見上げる。中庭の木々と一緒に、ベンチにひんやりとした日陰を作ってくれるもの。台座の上に鎮座する石、としか言いようのない塊。抱えるには大きすぎる。だけど私が子供に戻れたなら丸まって中に入り込んでしまえそうな、そんな大きさだ。

「この石、実は結構面白くてね、いろんな種類の石が混ざり合っているんだ。何かしらの地殻変動の痕跡があり、加えて小さなポケモンの化石が混ざり合っていてね……。きっと少し割ったらもっといろんなものが見つかるのだけど、そのままの姿でも非常に美しい唯一の存在感があるよね!まるで宝箱のような石だよ!」
「は、はあ」
「ボクはこの石を見に来ているんだ」

 石を見上げていた私は、引き寄せられるようにダイゴさんの方を向いた。真正面の笑顔と一緒に声が落とされる。

「彼女への挨拶は、そのついでだよ」

 私を支えてくれる大事な場所だ。そこに石があることは知っていた。じっくり目を凝らすと側面が少しきらめいて見えることも。
 だけども、なぜここにあるのかの由縁を私は今知った。最後のピースが足されて、私はこくりと頷いた。

「……ここ、私にとってお守りのような場所だったんです。落ち着くし、一人ぼっちのまま過ごすだけでも元気が出るんです。どうしてなのか分かりませんでしたが、この石が見守ってくれていたんですかね」

 私としては恥ずかしさを覚える秘密を打ち明けたに近かった。だけどダイゴさんは少しも驚かない。その反応を見るに、ダイゴさんはもしかして知っていたのかもしれない。私がこの暗がりに、心の一部を預けることがある、と。

「誤解は、解けたかな」

 石を見にきているなんて説明で腑に落ちてしまうのもおかしな話だ。けれど石マニアとしても有名なダイゴさんならば納得が行くし、先ほどの語り口も納得するには十分すぎるほどの熱さだった。
 私が頷くと、ダイゴさんは「よかったよ」言う。

「だけどそうか、困ったね。単なる挨拶だけでそんな誤解を受けてしまうんだね」

 ダイゴさん、あなたはそこにいるだけでもそういう夢を抱かせてしまうかっこよさがあるんですよ。そんなこと言えるわけがなく、私は曖昧に微笑む。

「彼女にもちゃんと伝えないとね」
「否定しちゃうんですか? 噂とは言え会社内だけの話ですけど、そんなわざわざ……」

 私は思わずダイゴさんを引き留めてしまった。
 だって会社では有名な話だ。ダイゴさんと先輩の関係は。その有名な話はきっと先輩の耳にも入っていた。先輩もはっきりとは言わなかったけれど、否定しなかった。だから社内では事実として扱われていたのに。

「あ……」

 そこまで考えて、私はたどり着く。指先がさあっと冷えていく。
 気づいてしまった。まるで二人の婚約が事実であるかのように扱われていたのは、先輩が、”意図的に”否定しなかったからだ。
 彼女は『違うの、ダイゴさんとはそんな関係じゃないよ』なんて、一度も言わなかった。その言動を今から振り返った途端、先輩の心がどこにあるかわかってしまった。

「うん、ボクは困るからね」

 ボクは、とダイゴさんは言った。私がたった今気づいたことは、ダイゴさんもとうに気づいているのだ。
 ぎゅっと胸が痛くなった。先輩にこれから訪れるであろこと、それをダイゴさんがどこか冷酷に行うであろうこと。想像して血の気が引いてしまう。
 大変なことになった、という思いがあった。先輩がきっと今日まで守り続けていた硝子のような、嘘とも言えないそれが壊されてしまう。私が変なことをダイゴさんに聞いてしまったからだ。
 ダイゴさんにとっては先輩の嘘は肯定できないことなのだろう。だけども私はどうしても先輩の側の気持ちの方が痛く、分かってしまうのだった。

 顔を青くする私に構わず、ダイゴさんは凪いだ声色で話す。

「ボクは石が好きだし、こうやって石を見るのも好きだ。ボクの家にもね、石がたくさん飾ってある。もちろん集めるのも、触るのも、飾って誰かに見てもらうのも好きだよ。だけど全部合わせたら、そっと見ている時間が一番多いと思う。大好きなものをそばで見て、感じ入る事がボクは好きなんだと思う」
「はあ……」
「石ならばそれでも付き合っていける。けれど好きな人には見ているばかりじゃダメだね……」

 ダイゴさんの思案していた瞼が開く。後から思えば、私はひどく無防備に、ダイゴさんの言葉を聞いていた。

さん。次この石を見に来る時は、一番にキミの顔を見に行くよ」
「は……? なん……」
「キミに会いたくなったら、ちゃんとキミ自身に会いに行く。会社やキミの仕事に迷惑をかけてしまうからね。だからデートにも誘うよ。ボクが好きなのはさんだから」

 なんでですかと聞こうとしていたのに、デートという言葉で答え合わせされてしまった。その上でのトドメに甘い声。私は人体の限界と思われる角度まで仰け反ってしまった。

「ど、っきりか、何かですか? ですよね? そうじゃないとおかしいです」
「ボクは本気だよ、さん」
「あの、とりあえず会社で私の顔を見にくるっていうのはやめてください。想像しただけでも気まずくて吐きそう……」
「そうなのかい?」

 心臓がうるさい。胸の高鳴りは単純なときめきだけでは構成されていない。すぐ横で目を細める彼が恐ろしいからだ。
 あの気品の良い先輩が大事に守ってきたであろうものを、彼はきっと近いうちに取り壊す。その上で自分の願いは当然のように叶えようとしている。
 色恋沙汰なんてそんなものなのかもしれない。けれど、ダイゴさんの堂々とし過ぎた振る舞いは姿はなぜか私に恐怖心を抱かせた。

「じゃあボクたち、どこで会おうか。相談に乗るよ!」

 流れるように二人で会う話を進めるダイゴさんにまた、ぞわっとしたものを覚える。けれども、そんな片づけ切れない感情もまとめて、私のテンションは否応なしに舞い上がっていくのだった。

 後日。案の定会社で気まずい思いをすることになった私の相談に、ダイゴさんは乗るだけ乗って手は緩めてくれなかった。
 古びたベンチ。横には彼が見つけ出して寄贈したと言う、お守りのような石。分厚い風吹く木陰の中のあの日。私は夢物語をひとつ壊して、ずっと抱えていた苦しさの意味を紐解いた。そしてダイゴさんという、実はとても厄介で手強くて、なのに私に恋をしたその人と、たくさんの言葉と感情を交わし合う旅の一歩目を踏み出したのだ。








(2022/11/14 今年のいい石の日に寄せて)