その電話は昼下がりにかかってきた。
一度はスマホロトムを無視してしまった。知らない番号からだったことと、勤務時間内だったからだ。
仕事に没頭したい気分だったのだ。ジニアとの弾けて消えた映画デート。その内容はあまり思い出したく無いのに、彼の寝顔や久しぶりに直に聞けた声がどうしても反芻されて消えなくて、振り切るように別の物事に溺れようとしていた。それでも、沈もうとする私を引き上げるようにスマホが震える。
仕方なく電話に出ると、若い女性の声がした。
「さんで間違いないですか?」
「はい」
「アカデミーで養護教諭をしているミモザと申します。えーっと、ジニア先生の件でー、ちょっと……」
ミモザと名乗る女性は歯切れが悪い。訝しがると同時に私は静かに驚いていた。なぜ、ジニアの件でアカデミーから私へ電話がかかってきたのか、さっぱりわからないからだ。
「すみません、本人、倒れる寸前なんですよ。一人で家に帰すのも難しい状態なんで、来てくれませんか?」
「そうなんですか?」
「はい、結構やばめで」
「ジニアの事は心配ですけれど私も仕事中でして、すぐには難しいです……。彼のポケモンに頼むことってできま」
「いいから! 来てください! お願いしましたから。待ってます!」
そんな無茶な。本音を漏らす前に電話は切れてしまった。まるで否定の言葉は聞きたく無いと言わんばかりだ。
こっちだって勤人なのに、ミモザという女性は無茶を言う。だけども、ジニアは私にとって多少の無茶を支払える相手ではある。
深いため息を吐いてから、私は仕事を途中で片付け、自分のカバンを持つ。そしてもう一度、深い深いため息を吐く。別にジニアのことで呼び出されるのを迷惑だと思っているわけでは無い。今の私が彼に会いにいくには、とにかく気合い必要だったからだ。
訪れたアカデミーは放課後を迎え、午後の柔らかい光に包まれていた。まるでお城のようなクリーム色の建物が、朱色に熟れ始めた光に照らされ、淡いゴールドカラーに見えた。
受付に要件を告げると、すぐにミモザ先生が駆けつけてくれた。養護教諭らしい白衣をまとう、あの声にぴったりの、華やかで可愛らしい女性だった。
「すみませんでした、お仕事中に……。でも来てくださって本当にありがとうございます」
「いえ。ジニアは? かなり悪いんですか?」
「最近ずっと調子悪そーにしてたのがついに、って感じです。熱があるとかではないんですけど、ダメダメな方かと」
「ダメダメ……」
「多分メンタル的なものっていうか。……あ。今は生物学の準備室で寝ていると思います」
彼の体調はあまり良く無いけれど、安静に休めている。そう聞いて、私はほっと胸を撫で下ろす。
ジニアがいるという生物学の準備室へは、ミモザ先生が案内してくれるらしい。
私は彼女の後を追って、アカデミーの中へと進んだ。自分がすでに旅立った場所を再び歩く、不思議な高揚感を覚えながら、私は道中思っていたことをミモザ先生へとぶつけた。
「あの、驚きました。ジニアは私のこと、緊急連絡先にしてたんですね」
何かあった時の連絡先に、ジニアが私のことを指定していた。アカデミーから連絡が来た理由はそれしか思い浮かばなかった。
「はい、してました。ジニア先生、それさんに伝えてなかったんですねー」
「はい。私は聞いてなかったですね。……緊急連絡先に恋人の番号を書くのってありなんですか?」
「いや? フツーは書かないです」
ですよね、と返す私は苦笑いだ。常識では、いつ別れるともわからない仲の男女の連絡先を、緊急時には使わない。だけどジニアだったら屈託なくやりかねないと思えた。
「すごく嬉しそうに『一番身近な人の連絡先を書けばいいんですよねえ』ってニコニコしてました。あたしはちゃんと、頼れる相手のことを書いてくださいって伝えてたのに。だからてっきり奥さんなのかと。すみません」
「いえ……」
少しして、ミモザさんの足がひとつのドアの前に止まる。
生物科の準備室。ゆっくりドアを開けると、陽だまりの中のソファでジニアは丸くなって寝ていた。
「どうされますー? 起こしますか?」
「いえ。このまま少し眠らせておきます」
「わかりました」
あ、何かあったら保健室に。その言葉を残してミモザ先生は去っていった。
生物科の準備室は面白いくらいジニア色に染められていた。もっと簡単に言えば、かなり散らかっていた。ジニアの好きなもの、ジニアの頭の中の構成するもので。
机に積まれた本の背表紙を見ると気が付く。ああこの本、ジニアの家にもあったやつだ。ジニアの家へ最後に行ったのはもう何ヶ月も前なのに覚えてるもんだなと、乾いた笑いが出た。
午後の光とジニアの寝息と、窓の外に吹く風の音。ここには優しいものが満ちているはずなのに、胸の奥は凍えたように縮こまっている。
不意に太陽が、雲に隠れたようだ。準備室にまるでゲンガーが入り込んだような寒さが忍び寄ってきたと思えば、背後で衣擦れの音がした。
「さん……?」
息をつめて振り返れば、ジニアのぼさぼさ頭が起き上がっていた。
疲れが祟ったジニアは、深く眠り込んでいるものと思った。けれど疲れが残った表情で気だるげにジニアが言う。
「どうしてここに? もしかして、夢ですかあ……?」
「夢じゃないよ。ミモザさんという方が連絡をくれたの。ジニアが私のこと、緊急連絡先にしてたんでしょ?」
「あ……」
寝ぼけてやわらかだった表情が、みるみる強張る。そんな夢だったらよかった、みたいな顔をしないでほしい。怒りたいのか嘆きたいのかわからない気持ちを抑えて私は微笑みをキープする。
「ごめんなさい……。そういえば、してました」
「驚いた。ああいうのは家族とかを登録するものだよ」
「すみません。あの時は、さんがぴったりだあって、思ったもので……」
本格的に起き上がったジニアはぼさぼさと頭をかく。ただその顔はそっぽを向いていて、あまり私と顔を合わせたく無いように見えた。
耳しか見せてくれないジニアが今、どんな表情を浮かべているのか。私は伺うこともできない。
ジニアはこう言った。あの時は、緊急連絡先に私がぴったりとだと思った。じゃあ今は? 今はもう違った? 急に気まずさが私を襲ってくる。
「ジニア、調子は?」
「ああ、はい」
「はいじゃわからないよ。ミモザ先生は、最近ずっと調子悪そうだって言ってたけど、大丈夫なの?」
「………」
「ジニア?」
「あっ、いえ。心配してくれるんですねえ……」
答えるジニアは、声も意識もふわふわとしている。
こっちは本気で心配をしているのだから、はぐらかさないで欲しいと思う。なのにジニアはぼーっとただ私を見上げるだけで、頼りにはしてくれないようだ。
はあ、というため息が出てしまう。
「この後はどうするの? ミモザ先生はジニアが一人で帰られなそうって言うから来たんだけど、もう平気そうなら私はもう一度職場に顔を出そうかなって思」
「っ行かないでください」
驚いた。気だるげだったジニアが急に立ち上がるから。彼の手のひらが予想外に強く、私の腕を握り込んで引き留めるから。
彼が急に動いたせいで、ソファの端に積み重ねてあった本がばさばさと床に散らばる。拾わなきゃ、と思うのに、ジニアは他の物事なんてどうでも良いと言うように私を見下ろしていた。ジニアの首筋を汗が一筋垂れていったのが、私に見知らぬ緊張を握らせた。
「……あの。さんに、触ってもいいですか」
「もう触ってるじゃない」
「ごめんなさい……」
「別に謝ることは無いと思うけど」
「いえ。ごめんなさいしたいこと、いっぱい、いっぱいあります」
いっぱいあると言う彼の言葉を聞くつもりで私は口を閉ざした。だけどジニアはすぐには喋り出さなかった。
うんうんと、彼は苦しげに頭を悩ませている。その出来の良すぎる頭で必死に考えているように見えて、ジニアが次に吐き出したのは、子供っぽいわがままみたいなそれだった。
「どうして映画の後ぼくの家に来てくれないんですか」
「え。今その話?」
「どうしてですか」
「そんなの、ジニアが」
「すみません」
ジニアが疲れてたからに決まってるよ。答えを言おうとしたのを、聞きたく無いと言うように遮るのはジニアの怯えたような声だ。
「理不尽を言いました、ごめんなさい。実際はぼくもさんのこと呼べなかったんです。ぼくの部屋が散らかりすぎていて、呆れられるのもこわくてですねえ……」
「そう、だったんだ」
「はい。ほんと、ままなりません。でも来てほしかった。行きたいって言ってくれなかったのは、ぼくに冷めてしまったから、ですか」
私は首を縦にも横にも振ることができなかった。私のジニアへの気持ちは冷めてはいない。だけど、ずっと緩やかに燃えていられた感情が、今凍えているのは事実だからだ。
多分私の顔も凍りついていたのだと思う。メガネの奥で、傷ついたような瞳が左右に彷徨って、どうしよう、どうしようとジニアが繰り返す。
「どうしよう、キミがぼくの元からいなくなってしまいそうです。逃げられちゃいそうです。ぼくが焦りすぎてしまったせいで。さん、お願いだからお別れのこととか、考えないでください」
「………」
「ああ、いやだなあ。その顔は考えていたって顔だ」
確かに考えていた。ジニアとの別れを。その可能性を孕んだ状況になってしまったことを。
「どうしたらいいんでしょう。さっぱりわかりません。でも、そんな気もしてました」
そこで私は初めて、ジニアの気持ちの一端に触れられた。
ジニアもちゃんと気づき、考えていたんだ。私たちの関係が壊れようとしていること。だけどどうしようもなさそうでもあること。
そしてジニアがこんなにも身が切れたかのように苦しげな顔をする事も、初めて知ったのだ。
「この前もせっかく会えたのに、さんに全然さわれないまま帰されてしまって。チャンスが無かったわけじゃなくて、もうぼくにはさわらせてくれないのかなって。むしろ、ぼくにはさわられたくないって思われて、かわされたのかなあって。時間が経つほどそうとしか思えなくなって」
私は小さくも、何度も首を横に振った。
「あの朝も。どうしてさんと一緒に暮らしたいなんて言って、欲望をぶつけて追い詰めてしまったのか。時間が経てば経つほど、後悔ばかりで。取り返しはもうつかないのに、言わなきゃよかったって、そればかり考えてしまいました」
私は首を横に振り続ける。胸が痛くて何も言えない。だから違う、違うんだよと否定する言葉の代わりに、頭を横に振った。
「先走って、負担かけましたよねえ。ごめんなさい。そうなんですよ、一緒に暮らしたいと言ったのはその場のノリでは無かったんです。ぼくは毎日、すっごくすっごく、キミに会いたいです」
「……っ」
「でももう何も、ぼくは何も望まないので。どうかいなくならないでください……」
泣きたくはなかった。だけど、会いたい、というシンプルだけどずっと聞きたかった言葉が、簡単に私を崩してしまった。
ポロッと一粒だけ涙がこぼれて、私を掴んで離さない、ジニアの白衣に吸い込まれた。
これ以上泣かないように、私は目元をぐっと抑える。私の涙でジニアにこれ以上、辛い顔をさせたくないからだ。
「ジニア、あのね」
「は、はい」
「正直言うと、お別れのことは考えてた」
「や、やっぱり……!」
「でもね。別れたいって思ってたわけじゃないよ。私は、いつジニアと別れなきゃいけなくなるんだろうって考えてた。私はジニアのこと、まだまだ大好きなのにって」
「っ一生、別れなくていいです!」
涙を必死で堪えていたのに、スン、スンと鼻が鳴り始めて、すぐに私の喉奥から声が漏れた。みっともない嗚咽を受け止めてくれたのはジニアの白衣の胸元だった。
「ジニア、ジニア……っ」
「さん……」
彼に抱きしめられる前の瞬間。目の前のジニアは私の泣き顔を見て、笑っていた。何か辛いものを堪える顔じゃなくて安堵を取り戻した甘い笑み。
その残像が走る私の肩を包む腕は、知らない強さを持っている。ジニアがこんな風に強く強い抱きしめられる人だとは知らなかった。
「ああっ、もうっ。……何を言ったらいいんだろう」
そのセリフはまだ困っているように見せかけて、大好きな柔らかさを取り戻していた。溢れるような甘さを滲ませてジニアが囁いた。
「いっぱい泣いてください」
「さんって、ぼくが寝てしまうと絶対起こしてくれないですよねえ」
髪の毛は爆発状態のまま、メガネを探しながらジニアが言う。私はベッドサイドにあったメガネを彼に手渡すが、ヘアブラシは渡さない。
寝起きの彼が、髪型も含めて可愛くて仕方がないからだ。
「起こさないよ! 休日だからいっぱい寝て元気になってほしいし、ジニアの寝顔かわいいし」
「かわいいはちょっと横に置いておいてですねえ……。……さん、おはようございます」
「うん、おはよう」
なんでもない朝の挨拶のつもりだった。だけどジニアは「うわあ〜」なんて言いながら、再びふかふかのベッドへと倒れ込んでしまう。
いったいどうしたのかと、ベッドを覗き込みに行けば、彼は両頬を手で包み、それは見事にニヤついていた。
「これを早く言いたいなあって思って、わくわくってしながら、昨日のぼくは眠ったんです」
朝の光に透ける、彼のヘリオトープの髪色。その向こうでジニアの染まった頬の桃色がもつれあっている。
まるで夢の続きを見ているみたいだ。朝なのに、ジニアの頬の香りが欲しくなって、私もふかふかのベッドへと倒れ込んだ。