ポケモントレーナーと同じか負けないくらい、ポケモンのことばかりを考えている。幼い頃から、ずっと。
 その自負が、10代を過ぎる頃には私のアイデンティティとなっていた。つまり、大勢の誰かと自分を隔てる柔らかな壁だったのだ。

 けれど進学した先にて、私は一人の男によってその他大勢の側へと押しやられることになる。
 ポケモントレーナーに負けないくらい、じゃなく、誰よりもポケモンのことばかりを考えている天才によって。
 ジニアの存在は、私にとっては脅威だった。

「ジニア!」

 脅威の名を、私は大声で呼びつける。ピリピリとした声が響くのは私の部屋だ。ただし、ジニアによって持ち込まれた本に埋もれようとしているが。

「ジニア、いるんでしょ!」
「はーい」

 柔らかな声。それから、方々へとふんわり立ち上がってるウイのみ色の頭髪が、部屋の中、積み上がった本の山脈から姿を表す。

さん、おかえりなさあい!」

 へにゃっと笑う、私より背の高い男。これが、ジニアこと、私を凡人のラベルを貼った天才である。




 ジニアとは大学時代に知り合った。同じ研究室に所属したのが始まりだ。つまり専攻も同じだったものの、私は彼をそれとなく避けて過ごした。
 相手がどうやっても、私の上を行く存在だったからである。知能、人柄、成績、名声、その他諸々。彼が軽やかに去っていった後の課程を、ヌメラの歩みのごとくのろのろとしか進めない自分を直視することができなくて、私は彼から視線を背けていた。

 ではなぜ大学も卒業し、大人になった今、彼が私の家にいるか。答えは、シンプルにジニアが勝手に転がり込んできたからである。

 学生時代から住み続けている私の部屋は、大学の近くにあった。親族のツテで格安で借りたもので、古いものの立地も広さも学生の身分には贅沢なものだった。
 そこへ同じ研究室のメンバーを複数人、泊めることとなった。よくある、学生同士でささやかなホームパーティーを開催したのである。皆は一晩、私の家でどんちゃん騒ぎの後、すんなりと自分の家へ帰ってくれた。けれど、ジニアだけはなぜか、翌日大量の本を持って現れたのだ。
 言い分は以下である。

「欲しい本を買いまして」
「はあ」
「それがざっと20冊ほどなんですがあ」
「はあ!?」

 よく見ればジニアはボロボロのバックパックを背負っている。なおそのバックパックには本がぎゅうぎゅうに詰め込まれているのだろう。まるでジオヅムそのもののように、バックパックが四角く出っ張っている。

「重くて仕方がないのと、あと早く読みたくてですねえ。我慢できません。なので大学から一番近い、さんの部屋を少しお借りできたらなあって」
「……少し?」

 なるほど、ジニアは私の部屋をブックカフェ代わりに使おうと現れたのである。人の家をなんだと思ってる、という言葉が喉からでかかったが、それを押しとどめたのはジニアが手に持つ本の存在だった。
 背表紙のタイトル、それから著者名。そこにはポケモン博士として名高いオーキド博士の名が刻印されている。

「……その本さ、絶版になってて、すっごく高いやつだよね」
「はい! 高かったですよお。おかげでぼくはすっからかんです! あ、こっちのも見ますか?」
「あ、これはオダマキ博士の……。私もずっと探してた」
「そうなんですよお、たまたま手に入ったんです!」
「え、プラターヌ先生って、こんな本も出してたんだ。知らなかった……」
「欲しかった本ばかりで、選び抜いたんですが、気づけばこんなにたくさんに……」

 ジニアがバックパックを開け、中から本を取り出す。取り出しては私に渡していく。
 どれも生物学を身に浸すものなら一度は読まねばと思っていた本ばかりだ。急に宝物のような本が腕の中いっぱいに積み上がっていく。感情が渋滞を起こし始めた私に、ジニアは目を細めて、うんうん、と頷いている。わかりますよお、とでも言いたげだ。

さんも、読みたかったら読んでください」

 ジニアのことは苦手である。彼が、私が逆立ちしても敵わない天才だからだ。
 だけど、私は知ってしまった。彼は、本の趣味が良い。分厚い本たちを通して、初めて私はジニアと自分に共通するものを見つけてしまったのだ。
 今更、「早く読みたくて、我慢できない」と言っていたジニアに共感すら覚えた。
 そこから迷うことはなかった。20冊の本、あとおまけについてきたジニアを、私は自分の部屋へと招き入れたのだった。

 誤算だったのは、ジニアがその後しぶとく居着いてしまったことだった。
 最初は20冊の本から始まったのが、翌月になればジニアは再び20冊近くの本を私の家へと持ち込んだのだ。
 しかも持ち込んだのは本だけじゃなかった。

「あと、これ。エネココアの大容量パック、買っちゃいましたあ」
「ええ……」
「頭の栄養補給にさんも飲みましょう!」

 好きな飲み物と自分の手に合うサイズのマグカップ。まとめ買いした付箋に、歯ブラシセット、お気に入りのブランケット、普段使いのポケモンフーズ。読書のお供という名目で、ジニアはちょっとずつ私物を持ち込み始めたのだ。
 危機感はあった。だけどもやはり追加の本を読ませてもらいたかった私は渋々ジニアを受け入れてしまうのだった。

 読み終わった本やマグカップの類は、いつか持って帰るようには言った。だけどジニアは困り顔で以下のように言い逃れた。

「ぼくの家はもう、あまりスペースがなくってですねえ。本棚なども買えていなくて」
「買いなさいよ、本棚」
「この本買ったら、お金なくなっちゃいましたあ……。あと、論文の掲載費用なんかも高くってですねえ。……ここに預かってもらうのはだめですか? 捨てられちゃいますか?」

 ずるい言い方である。私にはこの本たちの価値がわかっている。捨てられるわけがない。

「……あなたが置いていった本は、売らないし捨てないし、汚さない。だけどそれ以外は好きにさせてもらうからね」
「もちろんです!」

 この発言は失敗だったように思う。
 許可を得たと思ったらしいジニアの本が瞬く間に、私の家に溜まり出したのだから。
 そして半年後には200冊以上の本が私の部屋の一角に積み上がり、新たに本棚を買ったのはジニアではなく、私だった。

 ジニアが私の家から帰ってくれない。彼とは恋人関係でもなければ、友人であるかすら怪しいのに。
 それを学友に愚痴としてこぼせば、返事は以下のような冷たいものだった。

「まあ、が少し面倒見てやったら? ジニアほどの天才を支えてやるのは、最早パルデアの未来への貢献だろ」

 パルデア地方のため。さすが天才は人材としてのスケール感が違う。

「それは、そうかもしれないけど……」
「そのままがジニアを貰ってやるってのはどうだ?」
「悪趣味……」

 パルデアの未来が明るければ、私程度の凡人の私生活がジニアに荒らされても良いというのが、この学友の意見らしい。
 そんなの絶対ごめんだと言えないのは、私自身もジニアという人物を認めているから。そして、彼が案外憎めないことを知ってしまったからである。

 同じ家で、ジニアは椅子、私はソファの上でふたり静かに読書に耽っている時。私が何度も同じページを言ったり来たりしていると、ジニアは気づけば横へと移動してくる。
 ソファの揺れに気づいて、何よ、というように私は顔を上げる。ジニアは動じず、柔らかく笑んだまま私の手元を覗き込んでくる。

「その本、良いですよねえ。もちろん書いてある内容が興味深いですが、ポケモンへの観察の眼差しが優しいところとかあ、大好きです。今、どこを読んでるんですか?」
「ヘイラッシャの……、味覚と巨大化遺伝子の相関について……」
「ああ、そこはですねえ……」

 ジニアは、どうやら面倒見が良い性格のようなのだ。
 彼は私が躓いていることにすんなりと気づくと、こうして隣に座る。ひとつの本を覗き込んで、疑問を優しく聞き出して、意見を交わし合って、最後にはちゃんと私を理解へと導いてくれるのだ。

「あ、なるほど。そこに繋がるんだ……」
「そういうことになります!」
「……ありがとう」
「いえいえ! さんならちょっと整理がつけばすぐ分かると思ってましたよー」

 この家がジニアの本で埋まり始めた時、私は自分のアイデンティティどころか、家まで奪われてたまるものかと抵抗した。だけど不思議なことに、ジニアの存在によって私という自己像は元気を取り戻しつつあるのだ。

 やっぱり、ポケモンという生き物が好き。
 いつまでもポケモンの不思議にわくわくしていたい。

 面白い本を読み、ジニアと語り合うたびに、そんな子供の頃から変わらない私が、息を吹き返すのだ。

「……、ねえ」
「はい」

 私の疑問をほどき終え、自分の読書に戻ろうとしたジニアを、気づけば私は引き止めていた。
 読書の邪魔をしてしまった、と思ったが、ジニアは本の間に指を挟み、私へを顔を向けてくれる。唇を柔らかく閉じ、私の言葉の続きを待つジニア。その態度に甘えて、私はどことなく引っ掛かっていた疑問を彼へと投げかけた。

「ジニアって、私の何?」

 家はジニアの蔵書で侵食され、週に3回はジニアは私の家で読書に耽る。たまに書き物だってしている。
 栄養補給が必要になれば各自食事をするし、タイミングが合えば一緒に食べることもある。
 でもそれ以上の何かはない。私には、ジニアとの関係は名前がつけられないのだ。

 ジニアはわしわしと髪をいじりながら、伏せ目がちに言った。

「何と言われると難しいですねえ……。けど、ぼくはさんが大好きですよお」
「ふーん……。私は、ジニアが苦手だけどね」
「ええっ!」

 なし崩し的に、彼が自分のパーソナルスペースに入ることは許してしまった。だけど私は彼が苦手なままだ。
 週に何回も二人きりで会っている。なし崩し的に寝顔も見せている。やっていることは友達のラインすら既に超えている。それなのに、一般論で括れない彼が、苦手だ。

 私が顔を曇らせている横で、ジニアは少し落ち着かない様子だ。ソファの下で、裸足の足がそわそわと動いている。

「まあなんとなく、さんの態度でわかってましたけどお……」
「うん、隠したこと無いかな」
さんのわからないところのひとつなんですが、苦手なのになんで、ぼくをここに入れてくれるんですか……?」
「え?」
「ぼくとしては、すっごい不思議です」

 最初は、彼が持ってきた本が目当てだった。追い出さなかったのも、彼の本を粗末にできなくてだ。
 だけど彼を部屋へと受け入れ続けているのは、その理由は。
 霞みがかった胸中で、私は惑った結果、先日の悪趣味な学友の言葉を思い出した。

「ジニアが天才だから、じゃない?」
「ん、んんん?」
「パルデアの未来への貢献だと思ってジニアの面倒見てやれって、誰かさんに言われたのよ。……ジニア?」

 私は思わず目を丸くした。私より背の高い、意外にしっかりした体格の男が、ぺしゃんこに潰れそうになっているからだ。
 ジニアは本を横に置いて、両手で顔を覆っている。その下からは、ふやけた声が漏れ聞こえてくる。

「聞きたく、なかったです……」
「なによ、ジニアの方から話題を振ってきたんじゃない」

 どうやら私の返事はジニアが思い描いていたものとは違ったらしい。でも仕方がない。それが私の本心だ。

「ぼくは、間違っても自分が天才だなんて言えませんよお……。思ったこともないですし……」
「でも教授が一番注目してるのは他の誰でもない、ジニアだよ」
「ぼくよりすごい人はたくさん、たっくさんいますよお。ぼくはそんな大層なものじゃありません……」

 ジニアのその発言は、私の神経を逆撫でする。
 ならジニアに追いつけないところで走っている私や、私以外の大勢は何になってしまうのか。でも、ジニアらしいとも思う。そんなものは彼の目には入らないのだ。

「でも、強いて言うなら、ぼくは大好きなものや、大好きな人のことを考えるのは、大得意だなあって思います!」
「ふーん」
「全然興味持ってくれませんねえ」

 やっぱり、ジニアとの関係は名前がつけられていない。
 ジニアは私の何なんだろう。そしてジニアの横で、また読書を再開した私は、ジニアの何なのだろう。




 お金がない。それが私の家に入り浸る、ジニアの言い訳のひとつであったはずだ。だけど教職を得た今も、彼は私の家に勝手に作り上げた書棚に手を伸ばす。
 馴染みのソファに体を預けて、口元をほんのり綻ばせながらページをめくっている。夢中になるあまり片足のサンダルは脱げている。

「んん?」

 本を読み込んでいたはずの急にジニアが顔を上げた。
 窓の外、何かポケモンのなきごえでも聞こえたかなと思ったが、ジニアが視線を向ける先は私であった。メガネの奥の目は細くなって、私へ懐疑の視線を向けている。

「なんか……、今日のさん、ヘンですねえ?」
「変って何よ。別に普通だけど」
「普通ではないですよお! そうですねえ……」

 本はその場に置いて、ジニアは私に近寄る。じいっと重たげな観察の眼差しがこちらに張り付いていて、私は思わずどぎまぎしてしまう。

「今日のさんは息が浅い、かなあ」
「い、息……?」
「なんかさんの呼吸って、こうじゃなかったと言いますかあ」
「なんで呼吸音の判別がついてるの……? おかしいよ、それ」

 そもそも呼吸がこうじゃなかったと言われても、抽象的すぎてピンと来ない。ジニアの思い過ごしじゃないかと思ったのだが、私は次の瞬間違和感を覚えた。
 ふう、と吐き出す息が少し重たいのだ。

「ほらあ!」

 ジニアが焦った表情で詰め寄った、と思ったら視界の上半分が見えなくなった。ジニアの手が私のおでこに当てられたからだ。
 あれ。ジニアの手がとっても冷たく感じる。
 気持ちよさに目を細めれば、ジニアは苦笑いで言った。

さん、すごい熱です」

 学生時代から私の家に転がり込み、入り浸りも年単位になってきたジニアの行動はスムーズだった。寝室のドアを開け、私を寝かすと洗面所から救急箱を取ってくる。私に体温計を手渡すと、次はキッチンに戻って水差しと、使い慣れたグラスを持ってきてくれた。

「水分は多めに取ってくださいねえ。今は気分、悪いですか?」
「ううん、全然平気。むしろびっくりの方が強い。私は自分の不調に全然気づいてなかったから……」
さんってそういうところ、ありますよお。自分のこと、自分じゃあまり気づいてないですよね」

 ベッドの端に腰掛けるジニアはなんだか楽しげに笑っている。横についている手はしっかりと大きいのに、長いまつ毛に縁取られる瞳は夢見る子供のようだ。

「なんか機嫌が悪いなあって思ったら、大体お腹空いてるか、寝不足ですもんねえ」
「何それ、子供みたい」
「そうですよお。素直で可愛いです。あとは疲れが溜まってくると、指先が荒れて来ますよねえ。すごく痛そうで、見てるぼくも悲しくなります」
「よく見てるね……。悲しくなるくらいなら見るのやめればいいのに」
「そんなの、できませんよ」
「何それ」
「悲しくても苦しくても、どんな気分になったとしても、さんのこと見ちゃうんです」

 何それ。また同じセリフを私は繰り返してしまった。ふっと唇から溢れた笑いは、そんな自分がなんだかおかしかったからである。

「……やっぱり、今日のさんはぼくに対してにこにこし過ぎています。熱がありますねえ」

 一人で滑稽に笑っている私にも、ジニアは観察の眼差しを絶やさず、分析を述べる。それがまるでポケモンという不思議な生き物に、天才ぶりを発揮してる時と同じだったから。熱に浮かされていた私は思わず、言ってしまったのだ。

「……ジニアって、私のこと好きなの?」

 ジニアの反応は特大だった。ベッドを叩いて揺らしながらジニアが言う。

「ええっ! ひどくないですかあ!? 好きに決まってるじゃないですかあ!」
「き、決まってるかな?」
「前にもぼくはさんが大好きだって言いました!」
「それは言われた気がする」
「うろ覚えなんですねえ……」

 ジニアが、こちらにじとっとした目線を向けてくる。確かにうろ覚えだ。
 だけどすっかり忘れたわけでもない。ジニアが私にとっての何に当たるのか分からなくて、聞いたけれど答えが見つからなかったあの時のことは、朧げながら記憶している。

「ぼくはさんは別にそうでもないって言ったこと、ショックだったのに……」
「え、別にすぐに普通に戻ったじゃない」
「そんなの当たり前ですよ。さんがぼくのことをどう思ってようと、ぼくの気持ちは何も変わらないですし」
「はあ」
「離れる理由が無いです。近くにいられるなら、いた方がぼくは幸せなので」

 ぼくが幸せだから、ここにいる。簡潔明瞭な証明文に私はシーツの中で密かに肩をすくめた。

「ジニアって、私の何なんだろうね」
「何でしょう? でもぼくは、さんのことを考える天才だって自信はありますよお! 好きなもののことを考えるのは任せてくださあい!」

 なんだっけ。ジニアは昔も同じこと言っていた。ぼくはさんが大好きですよとかジニアが言っていて、その後の会話だ。

「……好きなものや、好きな人のことを考えるの、大得意なんだっけ」
「はい! 一生こうしていたいと思ってますし、そんな仕事があったら、きっとぼくの天職だと思いますよお」
「ふーん……。さんのこと、大好き? なんだっけ?」
「はい、大好きですよ?」

 そういえば、体温計を脇に挟んだままだった。音を聞き逃してしまったが、もう測れていることだろう。
 取り出して見れば、それはなんでもない数字を刻んでいた。

「37.3……」
「あれ、微熱ですねえ」
「………」

 じゃあこの顔の熱さは、単なる赤面ってことか。
 ジニアは私の何でもない人。ただ彼は私を大好きらしいけど。じゃあ私がジニアを好きになってしまったらどうなるのだろう。そこから先を考えるには刺激が強すぎて、私は顔を枕とシーツで隠したのだった。