美味しい、と気付けば目が輝いていた。お茶と一緒に出てきたお菓子は、一口で私を虜にした。
2月になったばかりの日のこと。フヨウちゃんとポケモンを育てるためのアイテムを交換し合うことになって、その日の私はサイユウシティまで足を運んでいた。生半可なトレーナーじゃ辿り着くのも一苦労の、ホウエン地方の隅っこ。その一室で、私は広大な世界を錯覚していた。フヨウちゃんが出してくれたひとつのお菓子によって。
まるでひとつの冒険のようなのに、透き通るように消えていった後味。味わいへの感動は余韻として残りながら、自分の口の中にあった世界が容赦なく溶けて消失してしまったことに、私は声にならない声でうめいた。
衝撃のあまり動けなくなっている私に、フヨウちゃんは悪戯が成功したと言うようにきゃはは、と笑う。
「美味しいでしょ!」
「うん、すっごく……。ねえこれ、どこのお菓子?」
「えっとねー」
フヨウちゃんがお菓子の入っていた箱を見せてくれた。しっかりとした作りの箱には、なんだかおしゃれなロゴが金の箔押しで刻印されている。
かろうじて読み取ってみると、どうやらホウエン地方のお店ではなさそうだ。
「えー、知らないお店だなぁ。けど、めっちゃくちゃ美味しい……!」
「ね! あたしもダイゴさんがくれて初めて知ったんだ」
「え!!」
ここでダイゴさんの名前が出てきたのは予想外だ。思わず身を乗り出してしまう。
「去年義理チョコってやつ? たまたまリーグに顔出してたダイゴさんにもあげたらお返しにってくれたのがここのお店だったんだ」
「なるほど」
少し考えれば驚きは納得に変わっていた。ダイゴさんほどの人なら美味しいお店はいくつでも知っているだろう。だって、彼の機嫌をとりたい人間は多分老若男女、さまざま存在しているから。そのご機嫌伺いに美味しい食べ物が用いられることは、きっと何度もあっただろう。
その中には下心、つまり恋心混じりで献上されたものもあるんだろうな、という考えが一瞬見えかけた。けれど顔を突っ込むと怖いものを見る気がして、私はすぐさま忘れることにした。
「ダイゴさんセレクトのお菓子だったのかぁ……」
「ちゃんってば、もしかしてダイゴさんからのお菓子、食べたことない? ダイゴさん、確かバレンタインデーは会社でも全社員にチョコレートの差し入れしてるとか聞いたけど」
「そうなの? じゃあ私も今からデボンの社員になろっかな」
「まさかチョコレートのためにバレンタインデーまで働くつもり?」
「あり得なくは無いかな」
先ほど口の中でなくなってしまったお菓子のために数日働くのもいいかなと思える。それくらい美味しかったのだ。
それに、自分だけがダイゴさんから何も美味しいものをもらったことがないなんて、なんか悔しい。フヨウちゃんどころか、デボンコーポレーションの社員はみんな貰ってる。だったら私がもらえる可能性はちょっぴりあるんじゃないかと思ってしまうのだ。
「あのダイゴさんだから、美味しいものもいろいろ知ってるんだね」
「ね。きっとお仕事で貰ったり、他の地方に行ったら紹介されたりもするだろうし」
「羨ましいよねー」
「羨ましすぎる!」
きゃっきゃと笑い合いながら、私とフヨウちゃんはお菓子とお喋りで盛り上がったのだった。
数日後。私の手の中にはどこのお店で売ってる定番のチョコレート菓子。
幼い頃からよく食べている、私の好物だ。モンスターボール一個分にも満たないお金で気軽に買えて、お値段以上の美味しさがある。
このチョコも美味しい。変わらず大好きだ。だけど今、恋焦がれるのは別のお菓子だ。
ダイゴさんがみんなにお返しとして配ったという文句なしに美味しいお菓子の味が、忘れられないのだ。まるで恋に落ちたみたいに、ひとつの旅をしたみたいな味わいが未だに私の頭を占領し続けている。
「はあ……」
ここにいないダイゴさんに向けたため息が思わず出る。ダイゴさんとは相変わらず罪な人だ。自分がそこにいなくても、あちらこちらに残っている存在感で、私の何かを変えてしまっている。
そして神出鬼没なところもまた、ダイゴさんらしさである。そう私に思い出させるかのように、私の端末が震えた。あの人は今回も良いのか悪いのか分からな妙なタイミングで姿を表す。
『調子はどうだい?』
その一文で、私の頭にはダイゴさんの涼やかな笑みが思い浮かんだ。
『昨日までいしのどうくつに行っていたんだけど、色々と掘り出し物が見つかったんだ。興味はあるかい? ボクのトクサネの家に集めてあるから、少し貰いにおいで。今からでも構わないよ』
読み進めてみればまた”らしさ”に溢れた内容で、私は思わずふふっと笑ってしまった。
ダイゴさんはまた洞窟に篭っていたようだ。そして手に入れたものを誰かにあげたがるのも、とてもダイゴさんらしい。
ダイゴさんから連絡が来なければ、私は時間の経過とともに狂おしいくらいに愛しいお菓子のことを忘れられた。だけどチャンスは、すでに目の前にぶら下げられてしまっている。
ついでに言うと、今日この後は暇である。こう言うところもダイゴさんってタイミングが良いと思う理由だ。
いきます、の文字を書いて消して、何度か打ち直して、送信する。
どうくつからの掘り出し物と、甘味への情報にもちょっとだけ期待して、私は存外あっさりとダイゴさんに会いに行くことを決めたのだった。
南西あるトクサネも、二月初旬となれば気候はだいぶ爽やかだ。ポケモンと共に涼しげな風に乗って、私は島へと降り立った。
数分も歩けば見えてくるダイゴさんの家。ホウエン地方チャンピオンの家は何の変哲もなくそこに建っている。
そしてダイゴさんご本人も、見た目の高貴さに反して、やたら素朴に顔を出してくれる。
「やあ、ちゃん。待ってたよ」
「ど、どうも。こんにちは……」
「今回は特に色々なアイテムが手に入ってね。ゆっくり見ていってよ」
ダイゴさんに室内へと招かれる。そのまま進めば、ひんやりとした家具の少ない部屋にシートが引いてあり、そこにダイゴさんがいしのどうくつで手に入れた品々が優しく置かれていた。
確かに今回は豊作だったようだ。進化の石までずらりと並んでるところに目を見張っていると、ダイゴさんからは柔らかい声がかかる。
「温かいお茶でいいかな」
「え、いやいや、お気遣いなく!」
「遠慮することないよ、少し待っててね」
あまり長居するのも悪い。そう思ってかなり本気で引き止めたのだけど、ダイゴさん手ずから、私へお茶を出してくれた。
「はい、どうぞ」
差し出されたのは紅茶だった。柔らかな湯気がくゆる中、私はそっとティーソーサーの縁に視線を寄せた。横たわるのは美しい造形の銀のティースプーン。周りに、お菓子や甘いものの類は、無い。
欲しかったな、という無意識の声が聞こえてしまい、私はそこに自分の浅ましい下心を認めざるをえなかった。
「ダイゴさん、あの……」
「うん?」
「その……」
「どうしたんだい?」
降参するしか無い。欲しいのであれば、自ら行動しなければ。恥を忍んで、私はダイゴさんに切り出した。
「っダイゴさんにバレンタインのチョコ渡したら一ヶ月後にめちゃくちゃ美味しい高級お菓子になって帰ってくるって! 本当ですか……!?」
「え?」
ダイゴさんが、ダンバルに負けないくらい目を丸くしている。
結局私は、発端となったフヨウちゃんとの会話から、しばらく抱え続けていた胸のもやもやの全てをダイゴさんに包み隠さず吐露したのだった。
「なるほど。話はわかったよ」
「ちなみにデボンの社員の皆様にチョコレートを配りまくってると言う噂も聞いたんですけど、そちらは……」
「うん、渡しているよ。ささやかな物だけどね」
いいなぁ、と本音が溢れ出てしまった。
ダイゴさんにチョコレートを渡した人たちはお返しをもらっていて、デボンの社員さんたちもいわゆる義理チョコをもらっている。
だけど私はひとつももらったことない。
だって私はダイゴさんにとって何者でもないから。自分からチョコレートを渡してもいないからだとわかっているのだけれど、わがままな不満が喉奥で渦を巻いている。
「羨ましいって思うのかい?」
「だって……、美味しかったし」
「……誰しも、本当は意識している相手からもらいたいとは分かっているんだけどね。何もないよりは良いと思わないかい?」
「喜んでる人はいますよ、絶対。それに、思うところがあるから、ダイゴさんは行動したんじゃないですか? わかりますよ、ダイゴさん。そういうところありますもん。なんだかんだ社員を労わって、いい副社長してるんですね」
「そう言われると照れるよ」
照れる、と言いながらダイゴさんは少し恐縮したような控えめな笑みを浮かべた。
ダイゴさんは何かと人にモノをあげたり、託したりしたがる。そういうところがある。
ただし相手は誰でもいいわけじゃない。自分の気に入った人のことを贔屓するところがあるのを、私は知っているのだ。
だから毎年少なくない数のチョコレートを手配しているのは、デボンコーポレーションに勤める人たちへの情があるからだ。
そういった感情も込みで、私はダイゴさんからのお菓子が羨ましいのかもしれないな。うっすらと漂ってきた感情に目を伏せながら、私はいたずらに聞いた。
「ダイゴさん、ダイゴさん。今年はどんなチョコレートを配るんですか?」
「うーん。それはまだ言えないな」
「じゃあお返しは?」
「未定だよ」
ダイゴさんは笑みの形に、薄い唇を結んでいる。それが小憎たらしい。
ここでお店の名前のひとつやふたつ、教えてくれたら自分で買いに行った。なのに欲しい情報は伏せられている。私が選べる選択肢は、あまり残されていないようだ。
「……やっぱり、私も渡していいですか?」
「それは美味しいお菓子のお返し目当てかい?」
「正直いうと、その通りですね」
「かまわないよ」
ダイゴさんにチョコレートを渡す。言ってから私は途端に不安になった。そんなこと自分にできるんだろうか。どんなチョコレートを渡したらいいか、私に決められるのだろうかと。
ダイゴさんへの感情、ダイゴさんとの距離感に関係。それらを不用意に変えてしまわない、でも喜んでもらえるような適切なチョコレートとはどんなだろう。
不安に沈み始めた私へ、声がかかる。
「でも、ちゃん」
「はい」
「キミに対して思うところのあるボクから、すごいものが返ってくるかも、とは考えないのかい?」
「は……、え……?」
宣戦布告のようなものが耳に触って、ダイゴさんを見上げて、固まってしまった私。見下ろしてくるダイゴさんはものすごく楽しげだ。ちょっぴり恐怖を覚えるくらいに。
「ダイゴさんって私に思うところ、あるんですか」
「あるよ」
「それって、どんなのですか」
「どんなのだろうね?」
問えば問うほど、ゆっくりと足の踏み場を削るような答えが返ってくる。
私が狼狽えるのと反対にダイゴさんは勝ちを確信したかのように余裕を保っていて、そしてやはり酷く楽しげだ。
凶悪。標的を見る眼差しにはそんな言葉が似合うと思った。私の反応を見てとても楽しそうにしているところ、お返しを名目に”すごいこと”をしようとしているところは、攻撃的ですらある。
「や、やっぱりナシで、お願いできますか!」
「どうしてだい? 美味しいお菓子が気になって仕方がないんだよね?」
「それは気になりますけども」
「人の善意を無碍にするのは関心しないな」
「本当に善意だけですか……!?」
「そう言われると、善意では無いのかな?」
ふふ、と口に手をあててダイゴさんは笑いを堪えている。
「ずっとボクの手をすり抜けてきたのにね」
「え? って、ああ!」
ダイゴさんの手にはいつの間にか、チョコレートの箱が握られている。
ここに来る前に購入した、幼い頃からよく食べてる定番の安いチョコレートだ。いつでもどこでも買えて、お値段はモンスターボール以下。それをダイゴさんは私の手荷物から奪ったらしい。
「これ、貰っていいよね?」
「いやいや、ちょっと待ってください……!」
「キミは一体何で捕まってくれるかと思ったら、甘いお菓子に釣られてなんてね。ちゃんのそういうところ……。うん、本当にかわいいね!」
ダイゴさんはひとりで納得したように頷いている。私は何も納得できていないし、かわいいの言葉がどこからどうやって飛び出してきたかも分からない。
なのにもはや全てはダイゴさんのペースになってしまっている。
私の勘は逃げた方が良いと言っている。逃げられるかは別として。
けれども庶民の味方すぎてダイゴさんは食べた事が無いんじゃないかと思えるその箱の横、まるで勝利を掴み取ったかのようにダイゴさんの笑顔が輝いている。眩しくて、目にビシバシと沁みて、私はバレンタインデーとその先の波乱へ諦めを覚えたのだった。