最初の接触はSNSに届いたDMだった。見知らぬアカウントからのDMだ。普段なら見ないようにする。けれど一行目にチリの名前を出されて、気づけば私はそのメッセージを開いていた。
 数行読み進めて、私はすぐに何が起こっているのかを察した。

 相手の女の子はチリに恋をしている。そして彼女は、なぜだか私とチリが恋人同士なのではないかと疑っている。
 冷静な目で見れば突然の、不躾で、迷惑なメッセージだ。話したこともない相手に急に問い詰めずにいられないくらい、向こうは感情を暴走させている。真に受けることは無いのかもしれない。

 だけど私は少し考えた後に、返事をした。後日、直接会って話をして欲しいという要求にも了承した。
 迷いはあまりなかった。どうしようもないことが、そこに存在しているのが、手に取るようにわかってしまうからだった。

 恋心に狂ってしまった危険な女の子に会うんだという自覚はあった。けれど、身の危険はあまり感じていなかった。
 DMのやりとりで、彼女には多少は冷静さの残っている様子が伺えた。
 それに、私とチリの間には、疑われるようなことは何も無いから。この事実が一番、私の身を守ってくれると思えた。




 私が指定したカフェに、相手の女の子はしおらしい様子で現れた。後ろめたそうに俯く様子は、DMの文面から私が想像していた姿に重なった。見知らぬ人に突然チリとの関係を問い詰めるなんて、とち狂ってると自分でも十分わかっているのだろう。
 私は柔らかく彼女に座って注文するよう促し、それからきちんと彼女の欲していた答えを述べた。

「チリと最後に会ったのは去年の夏です」

 そうだ。チリと最後に声と声を交わしたのは、去年の、夏の夕暮れだった。熱気が残る風にあの細い質の髪を揺らしながら、彼女はすっかり黒い革製のグローブを似合わせていた。
 沈む間際ながら日差しは苛烈で、鈍色のピアスに茜色が乗っていた。それから唇にも同じ色の光が乗っていたっけ。

「だから、その。私とチリは、あなたが疑うような関係ではないです」

 物悲しいことを言いながら、けれど私の唇はほんのりと笑みを象っていた。

 私とチリにはもう半年以上の間が空いている。卒業して以来、チリとの距離は開いていく一方だ。誕生日のお祝いくらいは交わす。けれど他に何かものを送り合うこともしていない。
 彼女を知る人は多い。元から、一目見たら目が離せなくなってしまうので、気づけば有名になっているような人だ。そんなチリは四天王として、今はより多くのトレーナーたちと関わりを持っていることだろう。対して学生時代の旧友という立場の私は、かすむほど影の薄い存在だ。
 だけど、彼女は目の前にいる。多分、仕事か何かでチリに関わって、彼女に恋してしまったであろう女の子が。
 ということは、チリがなんらかの形で私の存在を口にしたということだ。そうでなければ、私なんかに目をつけない。

 いけない、と思って私は緩みそうになった顔を引き締める。おそらく周りが見えなくなっているであろう目の前の彼女に、不用意な笑顔を見せて刺激したくない。挑発しているとでも思われたら、困る。

「……本当ですか? 本当にチリさんとは、何も?」

 語尾に泣きそうな気配を漂わせて彼女は私に問う。
 胸が痛かった。狂おしいほどチリを好きになってしまった彼女への共感が半分あった。あとの半分は、チリへの同情だ。チリはこんな状況を望む人では無い。なのに抗うことができずに、起こってしまった。
 二人の、どちらもが、かわいそうだと思った。
 痛みを隠して私は穏やかに笑んだ。

「学生時代のよしみで連絡は来ます。けど、あの通りさらっとした人だから。頻繁ってことも無いです。SNSでも繋がってはいるけど、チリの方がアカウント作るだけ作って放置してるから、特にって感じですし」
「………」
「貴女も、チリを知ってるならわかるんじゃないかな」
「……、はい」

 涙交じりに彼女は頷いた。それから、くぐもった声が聞こえたかと思うと、彼女は席を立ってしまった。注文したアイスティーに、一口もつけずに。

 欲しかった答えを得ても、彼女はこの後もまだ惑い迷うのだろう。足元が急に割れて、そこへ真っ逆さまに落ちるようにして、チリを好きになってしまったから。
 行く先の暗さが見えてしまって、私は最大限の優しさを込めて去りゆく彼女を見送った。

「ふぅ……」

 彼女の姿が消えて、一息つく。それから私はスマホを取り出しつつ迷った。彼女のことをチリに報告するか、どうかだ。

 チリとの関係について問われ、迫られたことは、私にとって大きな迷惑ではなかった。だから何も、誰にも言わずに済ませても良い。
 今回のことを聞けば、チリは良い気分がしないだろう。
 けれど、チリは自分の知らぬところで周りが迷惑を被ったり、誰かが傷ついたりしていたことを後日知れば、さらに嫌がるだろう。

 知らせなくても、問題はない。むしろそっと仕舞っておくことの方が、またチリと私の日常はスムーズに回り出す。
 けれど、何も無いままで終わるのはそれはそれで、飲み込み難かった。

 チリへの思いやり。その皮を被った、邪な心でもって、私は久しぶりに自分から彼女へメッセージを打ったのだった。





 チリは昔っから仕事が早いタイプであった。だけどまさかメッセージを打った数時間後に彼女自身が目の前に立っているとは思わなかった。
 夏とは違う夕暮れの色の中、やはり彼女は羅針盤が描かれた黒い手袋をよく似合わせていた。

「久しぶり」

 彼女の心地よい声が、耳を通っていく。こうして直接声を聞いたのも、いつぶりだろう。
 チリの存在という刺激の強さに、驚き通し、私は何度も言葉を詰まらせてからようやく言った。

「え、っと……、仕事終わり?」
「せやで」
「近くにいたの?」
「今日はベイクジムに用事あってん」
「そっか、ベイクジムに。……ん?」

 さらりとチリが口にしたベイクジムは、ここからかなり遠い場所にある。近くを通りかかったから顔を出したと呼べるような距離感ではない。私はさらに困惑した。

「んで、仕事終わりに駆けつけた」
「な、なんで?」
「あの子、んとこ邪魔したんやて? 悪いことしたな思て」
「ううん」

 仕事ができる彼女は話も早い。まあ、そのことだよね、と納得しつつも、やはり私はまだ戸惑っていた。
 メッセージを打ったせいで、彼女に謝らせることになるかもしれないとはわかっていた。だけどチリがわざわざ直接、謝りに来るのは予想外だったのだ。

 メッセージの文面が悪かったのだろうか。私としては明るく、柔らかく、チリのことをが好きだという女の子と話したから説明しておいたよ、と伝えただけだったのだが。
 少なくとも、私の中ではそんな本人がすっ飛んでくるような出来事ではなかった。
 むしろ、大したことじゃないからこそ、何もなかったことにはしたくなくて、ひとつのメッセージという形で残したにすぎない。
 夏以来、会うこともなかったチリ。このまま何も無いまま、再び夏を迎えてしまったら。それはなんだか、無性に嫌だと感じただけなのだ。
 だけど、今になって罪悪感が首をもたげてくる。彼女にこんな苦労を支払わせてしまうくらいなら、下心なんて、持つもんじゃ無い。

「あ……」

 ふと私は気がついた。通りがかりの人が、ちらちらとこちらを横目で見て行く。
 ただ、チリと立って話をしているだけだ。四天王としてか、それとも別の何かか。わからないけれど、確実に彼女は視線を集め始めていた。

「チリ」
「ん?」
「せっかくだし、ちょっと落ち着ける場所行こうか」

 私は自分の知る限り一番、人目がつきにくいレストランカフェへと彼女を連れ込んだ。
 奥まった店内の、小さな庭に置かれたテラス席に案内してもらった。お腹は空いていたものの私の注文は飲み物だけにとどめた。

「ごめんなさい」

 ひとまず謝罪すると、チリは端的に返事をする。

「なんで?」
「私が知らせたことで、結果的にこんなところに来させちゃったから。遠かったのに、ありがとう。でもそんな重く受け止めないで欲しいな。びっくりしたけど、私は嫌な気持ちにはなってない」

 嫌な気持ちになっていないのは本当だ。むしろ不用意に笑ってしまいそうなのを懸命に堪えていた。
 相変わらず人の心を奪ってしまっているんだな、と。チリの健在ぶりを人伝に聞いたようなものだったからだ。

「ほんまに?」
「うん。チリの、風の便りを聞いたような気分になってた。それに、なんか、私の話でもしたのかなって」
「したで」

 あっけらかんと、だけど至極真面目な顔でチリは言う。ふわっと笑んでくれたらいいのに。いつもやってたみたいに。そうしたら私も今よりも落ち着くことができるのに。

 そういえば今日のチリは、全然笑ってくれていない。
 チリからしたら、単に笑う場面では無いと見えているのかもしれない。けれど、私の思い過ごしかも知れないけれども。向かいの席、背もたれに体を座るチリは、私に油断を許したくなくて、笑顔を控えているようにも見受けられた。勘が、そう囁いていた。

「……写真をもろてな」
「え?」
「アカデミー通ってた頃のやで。データ整理したらチリちゃんが写ってるのが出てきたさかいあげるでって、アルバムのURL来てん。うっかり職場で見てもうた」

 なるほど。そういう経緯だったのか。
 私はちょっと笑ってしまう。懐かしの写真を送られて、思わず見てしまうなんて、思ったより可愛らしい経緯だった。
 でも、チリに限っては脇が甘いと思ってしまった。本人が言うように、うっかりだったのだろう。
 かわいそうな話だけれど、彼女はちょっとした隙でたくさんの恋心を引き寄せてしまう。誰かに好きになられること自体は、彼女は悪く無い。だけど。

「迂闊だったねぇ」

 冗談っぽく、彼女のミスをさらりと笑ってしまえば、せやな、とチリも頷く。

めっちゃ写り込んどったからな」
「うわぁ、絶対、死んでも見たくない!」

 学生時代の自分なんて、若さと一緒に痛々しさも同時に纏っていそうで、写真を直視することは敵わないだろう。チリはもう見てしまったらしいけれど、できれば記憶から消してもらいたいくらいだ。
 冗談めかして、ちょっと悪ふざけ交じりで私は笑っていた。だけどチリはくすりとも笑わなかった。

「なんで? 綺麗に写っとった」

 ひえ、という悲鳴が出るところだった。

「そやさかいポピーにもバレてん。その時少しだけ話したのを、聞かれたんや思う。顔にも出とったんやろうなぁ。あかんかったな、かんにんな」

 チリに謝って欲しいのはそこじゃない。そう、思わず立ち上がりそうだった。謝ってくれるなら、ちょっとした言葉のひとつひとつで、私を落ち着かなくさせていることを謝ってくれないだろうか。

 写真に写っていたという未熟なばかりの私が、綺麗なわけがない。なのに、チリの整った顔立ちで真面目に言われると、それは気迫さえも帯びていて、まるで口説かれているようにも聞こえてしまう。
 そういうところがまた、出会った相手をその気にさせてるんでしょうかと、母みたく叱りたい気持ちにもなってくる。
 なんと返事をしたらいいかわからなくて、私は悶えながらも沈黙で、彼女の言葉を誤魔化した。

 しかし、チリはいつ帰るんだろう。仕事終わりで私の元へとすっ飛んできてくれたのだ。なるべく早く家に帰りたいだろうに。
 だけど彼女は退店のタイミングを図らない。私も座ったままだ。
 私もチリと同じく、待ってる人や、遅く帰ると顔をしかめる存在がいないからだ。

「チリは恋人、いないんだよね。作らないの?」
「……なんでそう思たん?」
「恋人がいたら、今回みたいな隙見せてないでしょ。チリならね」

 チリが僅かに目頭を細める。彼女は現実味を忘れてしまうほど、全身に美しさを宿らせている人だ。だけど、無闇に人の心を弄ぶような人じゃない。
 だてに学生時代をほとんど一緒に過ごしたわけじゃない。チリはいい加減な人じゃない。その確信は私の中で揺らがないのだ。

「だから、チリの隣が空いてて、恋人募集中なのがわかってるから、あの女の子も期待が捨てきれないんじゃないかな」
「あんな、。恋人募集中ちゃうで」

 チリは深いため息を吐き切ってから、私を見据えて言った。

「待ってるのはただ一人やで」
「………」
「言うてる意味、もうわかったやんな」

 そうなんだね、という相槌すら打てなかった。絶対にこの目を離さないと、彼女の赤い瞳が語っているようだったからだ。そして口篭ったことが、彼女への答えになった。

「近ごろは忙しゅうてかなわん。に最後に会うたのが去年の夏なんて、気づいてしばらくしんどかったわ」

 チリは再びため息を風に乗せた。

「変に思われたり離れていってまうのが嫌で、しつこうせーへんかったのに。結局離れていってまうんのなら、やせ我慢の意味あれへんやん」

 なぁ、と言いながら、チリは私の目を、その奥の感情を覗き込んでくる。
 ゆっくりと追い詰められている。ああ、うう、という変な声しか出せないまま私は呻くしかなかった。

「な、なんで、今日こんなに押してきてるの? どこで『いける』って思ったの?」
「いける確証があったわけちゃう。せやけど、メッセージ、チリちゃんに会いたいって書いてるようにしか見えへんかった」
「………」
「ほら、違うって言われへんやろ」

 そこまでの欲を彼女に送ったつもりはなかった。だけどチリは繊細に私の文面を読み解いて、言い当てて、そして叶えに飛んできてくれた。
 ずるいなぁ。そうとしか言えない。

「わ、私だって、チリと離れたかったわけじゃないよ。でも卒業して、それぞれの道に進んだんだもの。前みたく過ごせなくなっていくのはどうしようもないことだと思ってた」
「どうしようもないことなんて、あれへん」

 しっかりとした言い方だった。星にかけるような、現実を一旦横に置いて言うような願いの類ではなかった。愚直な馬鹿者や、愚か者のセリフではもかった。
 どうしようもないことなんて、無い。子供の駄々にも思えるような字面なのに、深い安心をくれる口ぶりで、チリはそう言い放ってくれたのだ。

「……こ、恋人に、を募集中だった?」
「せや」
「いつから?」
「それ聞いて、自分引かん?」
「引かないよ。けど、心の準備は、させて欲しい」
「わかった。いつでも聞いてええで」
「うん……」
「それから。もうちょいチリちゃんと会お。な?」

 うん、と頷くことも上手くできない。顔周りに熱が集まりすぎているせいだった。一方のチリは余裕ありそうに笑んでいる。
 チリが笑んでいる。ようやく、自然に微笑してくれている。そのことが嬉しいのだけども、見つめ返すだけで私は落ち着きを奪われてゆく。私は焦って多めに水を飲み下している有様だ。

「よし。ほなチリちゃんが、んちに帰るか。がチリちゃんち帰るか、どっちがええ?」
「えー……?」

 答えを考えるより強く、全身に熱が巡っている。突然選びきれない二択を提示して、どっちがいいと言われましても。
 答えは出ないけれど、とりあえず、私に言えることがひとつだけあった。

「私の家は、なんも用意ない……」
「え、今日でええの?」
「いっ、今の無し!」
「ほなチリちゃんちな」

 それならもう行こうと言わんばかりにチリが伝票を手に取り立ち上がる。

 頭で、この急激な展開を飲み込もうとしている。同時に、私は喉の奥に罪悪感を覚え始めていた。
 数時間前に、あの子に「何も無い」と言ったばかりだというのに。チリと再会する前に口にした言葉は、今やすっかり嘘になっていた。

 店を出ると、パルデアの空はすっかり夜を迎え入れている。冷たい風が上着の隙間を通り抜けて行った。
 彼女の腕は緩く曲げられていて、肘は私の手が添えられるのを待っている。そこにそっと指を滑らせた。するりと、シャツの下の彼女のラインをなぞりながら、私は彼女の名を呼んだ。

「チリ」
「ん?」
「……チリに隙、作らせちゃってごめんね」
「ん」

 チリは僅かに小さく頷いてから、かすかな声で言った。

「でも今回の件、悪かったのはチリちゃんやで」

 私はすぐに首を横に振った。
 メッセージの奥底に会いたいという気持ちが眠っていたから。彼女が私に謝りたかったから。再会の理由はそれだけでは無かった。
 蹴りをつけなければきっと同じことを繰り返される。チリを好きになってしまう、無垢な人々に対して。だからチリは即座に私に会いに来たのだ。どっちつかずの関係を続けることはできないと悟ったから。

 いけるという確証があったわけじゃないと、チリは言っていた。彼女は、多少は振られる覚悟しながら私の前に現れたのだとしたら。想像して、胸がきゅっとなる。

「私も悪いよ」

 悪いに決まっている。数時間前に、あの子に「何も無い」と言ったのと同じ唇が、今度はチリの唇を期待しているのだから。
 そういうのは、彼女の家に帰ってからだと思っていたのに。

 彼女の背が折り重なって、唇に柔い触感。それから頬に少し冷たい鼻先が、数秒埋まって離れていった。
 胸の高まりが治らないまま、そんな物欲しそうな顔をしていただろうか。聞けば、

「チリちゃんがしたかっただけや」

と、彼女は言う。すかさず私は言う。

「でもしたい気分にさせたのは?」

 今日あなたをここに来させたのは、引力をあなたに与えたのは。距離を保とうと、あれこれあなたに考えさせたのは、あなたに恋人を作らせなかったのは。
 全ての因果を、あなたは自分の中に抱えてきたかもしれない。けれど、それは今までの話だ。これからは違う。
 彼女は目を細めて言った。

やね」