「それじゃあお疲れ様です。お先ですー」

 アカデミーの購買部は学生たちのために夜も営業が続く。
 夜勤者であるアルバイトへの引き継ぎを終え、私はネームプレートのついたエプロンを外した。代わりに職員証を、帰り支度のできた身に下げて廊下に出た。
 ほどほどに灯りを落とされた、夜を迎えたアカデミー。日中は賑わう教室はほとんど空っぽだ。生徒が数人、ポケモンたちと共に空き教室で過ごしてるようだが、職員の姿はそこにない。微笑ましい生徒たちの姿を横目で見送りながらエントランスへ出れば、暖かい夜風に吹き上げられた。
 地獄呼ばわりされている階段を下ってから、スマホロトムで地図を確認する。
 今夜の食事会、指定されて向かうレストランは初めて行くからだ。

 階段をまた下って路地を曲がれば「本日貸切」の札のかかった小さなレストランが目に入る。
 かららん、というドアベルが鳴る。同時に店内の活気がぶわりと膨れ上がって包みこまれた。アカデミー職員による、今夜のお疲れ様会はすでに盛り上がっているらしい。
 奥にゆったり座るタイム先生やクラベル校長先生を始め、アカデミー教師陣のほぼ全員が集まっているようだ。

「グッドイブニング、さん。こっちこっち!」

 どこに座らせてもらおうかと迷っていると、手招いてくれたのはテーブルの端の席に座るセイジ先生だった。

「セイジ先生、お疲れ様です」
「ここ座れるよ。セイジ、ワンドリンクで帰るんだ。プロミス、しててね。もう飲み終わるよ」
「なるほど」

 一杯飲んだら退席する。セイジ先生のことだから、その約束の相手は奥さんだろう。テーブルの端の席に座っていたのも、愛する奥さんのため早めに帰ることを見越してだ。
 歯を見せて笑ったセイジ先生は、その場で自分のグラスを飲み干して、椅子を空けてくれた。

「失礼します」
「うむ」

 こうしてセイジ先生と入れ替わる形で、私はサワロ先生の横というか影にありがたく座らせてもらったのだった。
 テーブルにはすでにグラスとオードブルが揃っていた。サワロ先生が優しくグラスにワインを注ぎ、大皿を寄せてくれる。

「ご苦労様です。購買部の業務は無事終わりましたかな」
「はい、何かあったら連絡来るとは思いますし、大丈夫です」

 厚意に甘えて大皿からオードブルをいくつか頂戴してると、テーブルの中心からわっと歓声が上がる。
 他の先生方の様子を伺うと、その中心で頭をぐらぐら揺らしているのは紫の爆発した頭髪。ジニアであった。

「盛り上がってますねー」
「うむ」
「何の話しているんです?」

 微笑んだサワロ先生が私にそっと耳打ちする。
 告げられた内容を聞いて、私もにわかにテンションが上がってしまった。

「えっ! ジニア先生の初恋の話ですか!」

 そんなおもしろ……、可愛らしい話で盛り上がっていたとは。

「もう少し押したら話し出しそうだと思われて、先ほどから言いくるめられそうになっているのだ」
「なるほど……」
さんは、ジニア先生の初恋を知っているのでは? 同郷だったのだろう?」
「いえ? 全く知らないですね」

 サワロ先生が知る通り、私とジニアは同じ街の生まれだ。といっても指折りの天才であるジニアと、他の子供たち同じく元気が取り柄の凡な私である。いつからか、進路は別れている。
 確かに昔を知っている。けれどジニアとの付き合いは特に深くも長くも無いのだ。
 だから、就職先でジニアと再開したのは本当に驚きだった。

 アカデミーに来たのは私の方が先だった。ご縁があったとしか言いようがない形で、購買部の職員として日々を過ごしていたところ、ある年、アカデミーは大きく変わった。
 前校長の退任と同じくして行われた、教師陣の刷新。顔ぶれどころか教室の空気も大きく変わろうとしている。そんな流れの変化を感じていたところ、購買レジで顔を合わせたのが彼だった。
 一目見た瞬間、記憶のひっかかりを覚え、数秒後にはお互いを指差して大きな声をあげてしまったのは記憶に新しい。

 子供の頃のジニアはそう目立つタイプではなかった。正直、周りの子供とあまり話は合っていなかった。けれど誰もがほんのりと、優しくて発想に羽が生えたように自由なジニアへ、好感を抱いている。そういう男の子だった。
 それは大人になっても変わっていないようだ。

「ほ、ほんとに話さなきゃだめですかあ?」
「私は話したぞ」
「待ってくださいよお! レホール先生のは、初恋の話って呼んでいいんですかあ? 遺物相手ってえ……。反則ですよお」
「例え遺物相手でも、私は嘘偽りなく真実を話したぞ」
「つまり、ジニア先生のお相手は人間ということですね」
「クラベル先生までえ!」

 ジニアはすでに良い感じに酔っ払っているようだ。頬がほんのりと赤く、メガネの奥の眼差しもいつも以上にぼんやりしている。
 困ったなあと言いながらぼさぼさ髪をかいたジニアは、やがて濡れた唇を開いた。

「……7才くらいの頃なんですがあ」

 お、話し出した。ここにいる全員の心が重なった瞬間だった。

「両親が、家族旅行に連れて行ってくれたんです。ナッペ山でスキーをさせてやるって言われましてえ。スキーも楽しかったんですけど、ぼくは朝の散歩にナッペ山の北に連れて行ってもらったんです」

 7才の頃といえば、まだ私もジニアと遊んでいたくらいの年頃だ。といっても彼はすでに文字がばっちり読めるどころか読みこなしていて、周囲から頭ひとつ抜け出し始めていたけれど。

「そこで見たポケモンたちと景色がすばらしくってですねえ」

 ほお、と誰かの相槌が入る。他の皆は食事に手をつけつつ、ジニアの話に耳を傾けているようだ。

「幼心にものすごおく感動したと同時に、ぼくは帰ったらその話をある子に、絶対したい! って思ったんです。だけど、いざ目の前にするとぼくはうまく喋れなかったんですよねえ」

 おお、話がちゃんと初恋エピソードっぽくなってきた。ミモザ先生なんか、もう話の可愛さに目が輝いている。

「意気込んで話しかけたくせに、一言も喋られなくて、結局ぼくは逃げちゃったんです。恥ずかしくて、もう、もう……」

 当時の恥ずかしさを思い出したのだろうか。そう言ってジニアは顔に手を当て、メガネの下まで覆ってしまった。

「だけどその時のぼくは、まだわからずやでしてえ。勘違いしちゃったんですよねえ。うまく喋れなかったのはきっと、そのポケモンについてよく知らなかったからだあ! ……って。
 そこからぼくは今まで以上に、ポケモンの本もテレビも舐めるように見て、たくさんたくさん勉強をしたんですよねー。でも、結局その子には旅行で見たポケモンのいる景色を伝えられませんでした」

 今や、全員がジニアの話に聞き入っていた。お酒が入って、いつも以上にふにゃふにゃな喋り口だ。けれども、声の中には確かにジニアの純情が小さくも息づいていて、それが聞く側の心をぐっと引き寄せていた。

「両親や友達や、学校の友達には言えるのに。その子にぼくが素晴らしいって思ったものを伝えたいのに。ぼくが見たあのきらきらとした景色を知って欲しいのに。言えない。あの子だけは何か違う。その時にようやくぼくは気づきました……」

 あんなに騒がしかった店内が静まり返っていた。そこにジニアという大人の男の嘆きがぽつんと落ちた。

「恋、してたんですねえ……」

 全員の手と目が、しん、と立ち止まった瞬間だった。

「すっぱいりんごサイダー、お持ちしましたー」
「はい、私です」
「え、さ、……?」

 ちょうど私の注文したサイダーが運ばれてきて、手を挙げる。それでもサワロ先生の横では埋もれてしまっていたので、半身立ち上がると、こちらを凝視するジニアと目が合った。

「うっ、わああっ!」
「「「あ」」」

 何人かの声が重なった。ジニアが大きく飛び退いた。そのせいでグラスが倒れ、白ワインがテーブルクロスと彼の白衣に飲み込まれて行ったからだった。




 白衣は一旦脱いで、ポケットに突っ込まれている本は一時避難して、だるだるに伸びた襟のボーダーシャツすがたになったジニアは、今は私の横でデザートのプリンを前に俯いている。
 他の先生と話したいことがあったのだろう。サワロ先生が横から席を立ち、ほんのりと席替えが起こっていた。気づけばサワロ先生の変わりに私の横へと座ったジニアだった。横で彼がすっかり大人になった背中を丸めてから、しばらく経っている。

さん……、今日は参加しないんじゃあ……」
「え? 元から参加予定だったよ。遅れただけ。ほら、私は購買部の締め作業あったから」
「そうでしたかあ……」

 ジニアはだいぶ飲んだようだ。見たことがないくらい顔から首まで真っ赤である。
 赤い頬にはまつげの影が落ちている。そういえばジニアって子供の頃もまつげバサバサで、女の子より長かったな、なんてことを私は思い出していた。

「プリン、食べないの?」
「食べます……」
「うん。甘くて、元気でるよ」

 いつも授業と研究を頑張っているジニアだ。今日はくらいは糖をとりすぎればいい。だけどジニアはデザートスプーンを握ったまま動かない。ずっとだ。
 もしかして酔いがかなり深いのだろうか。これ、ジニア、ひとりで帰れるのかななんて心配をし始めた頃だった。

さん!」
「はい」

 喉の調子を整えるように、ゴホン、と小さな咳払いを入れてから、ジニアは静かに語り出した。

「コオリッポって……、知っていますかあ?」
「知ってるね、コオリッポ」

 仰々しく咳払いするから、何を話すかと思ったら。話題はジニアの得意分野・ポケモンのことのようだ。

「コオリッポといえば、あの特徴的な頭の氷です。自分を守るためにもすごく役に立っていますし、水上ではあの氷で浮くこともできて、エネルギーをとっても上手に使えているんですねえ」

 普段、子供たちに話す時より内容の密度が上がっている。
 随分酔っていると思ったが、その脳細胞は少しも調子を崩していないようだ。ジニアは巧みに私へ話題をチューニングしながら話しているようだった。

「コオリッポはあの頭で水上に浮きながら寝たりもするのですが、加えて、あの頭の氷を使って仲間との距離を等間隔に測っているという論文がありましてえ」
「へー」
「体に対してあのアンバランスな頭ですから、近づきすぎないことも重要なんです。お互いの頭をぶつけて割ってしまったら、両方にとって損じゃないですかあ」

 確かに。陸上のコオリッポの歩き方は可愛いけれど、危なっかしくも見える。適切な距離が取れていないと、仲間同士で頭をぶつけてしまう事故は起こりそうなものだ。
 だけど、コオリッポたちは自分の頭を使って、そこはちゃんと本能で自衛をしているということらしい。

「面白いね」

 素直な感想を漏らすとジニアはどこまでも嬉しそうに微笑んだ。

「……はい、すごいんです。コオリッポたちは頭の氷を使って、互いに争いを起こさず、だけど何かあれば仲間同士で助け合える角度と距離を決めているんです。そんなコオリッポたちが群れで海上に浮かんでると、きちんと法則が見えて、とおっても綺麗なんですよ!」

 ジニアの言葉を頼りにして、私は頭の中にコオリッポたちの姿を思い描く。
 高い空に、地平線が望める北の海。そこで、あんなに間が抜けて見えて可愛いコオリッポたちが、自然の中に描くもの。

「彼らが作り出すネットワークは自然の規則を持っているんです。遠くから見ると無数の小さな宝石が、波に揺られているみたいでえ。その等間隔に並んでいるところに、朝日が差すとですねえ、みんな一斉に輝くんですよ。まるで波のラインに銀の粉をかけたみたいでした」
「ふーん……」
「あの景色が、偶然でありながら必然だったことを知ったのは、ぼくが大人になってからでした……」

 ジニアがため息をついて目を輝かせる理由は、私にもしっかりと伝わっていた。
 コオリッポの群れを海上で見かけられたこと、それに朝日が輝きを与えたことは偶然の産物だ。だけど仲間と自分のため等間隔に浮かぶのは、コオリッポの習性という必然があったから。

「素敵だね」

 うん、面白い話だった。専門家らしい視点と解説も交えられていて、でもその感動は凡人でも同じものを感じられる。コオリッポについて、ひとつ深く知ることができたので知的好奇心を刺激され、胸には充足感がある。
 ありがとうとジニアに言えば、彼は少し困ったように眉尻を下げている。

「あ、い、あのっ……」
「ん?」
「いえ……。たった今わかったことがありましてえ。そうだったのかあ〜と……。ぼくってほんとに……」

 そのままジニアはぶつぶつと言葉にならない言葉を呟き、自身の考えに沈んでいってしまった。
 結局、何を言おうとしたのかはっきりとさせないまま、彼は目の前のプリンを大きな口に無心で注ぎ込み始めたのだった。




 レストランの外へ出ると、テーブルシティは寝静まり始めていた。中心ではアカデミーが夜の暗さに寄り添うように照らされている。
 よく食べたし、よく飲んだ。まあまあ喋ったし、面白い話も色々と聞けた。
 やや夜ふかしにはなってしまったが、明日も仕事を頑張ろうという気力が自然と湧いてくる。
 今回の会費を持ってくれたクラベル先生にお礼を伝え、充足感を胸に帰宅しようとした時だった。

さんっ」

 大股で私に追いついたのはジニアである。
 目元はまだとろんとしているけれど足は軽やかで、どうやら酔いはだいぶすっきりしたようだ。

「少しだけ、一緒に歩いていいですか?」
「うん、いいよ」

 大人になった私とジニアの距離感は、近いように見えて遠い。顔を見れば挨拶はする。けど学校内で頻繁に話す方じゃない。同じ街の出身とは言え、彼がどんなふうに成長して行ったかを知るわけじゃない。
 仲が良いわけじゃあに。だけど、夜道を少し一緒に歩くくらいなら別に構わないし、悪い気がしない相手でもあった。

さん、さん。再確認なんですがあ……、ぼくの初恋の話、聞いていたんですよね?」
「まあね。途中からだけど」
「途中」
「レホール先生の初恋が遺物っていうのもちらっと聞いたかな」
「それじゃあ途中って言わないですよお……!」

 はあっと大きなため息を吐いてから、ジニアが私を呼ぶ。

さん。さっきの話が、7才のぼくが、ずっと話したかったことでした」
「そう、なんだ」

 内心、少し驚いていた。私はちょっとレベルが上の世間話くらいに捉えて、楽しく聞かせてもらった。けれどジニアにとっては本当に思い出の詰まった話だったことは、言われなければ気づかなかった。

「でも、よくよく考えてみてください」
「え?」
「変じゃありませんか? なんであのコオリッポの話を伝えるのに、7才のぼくが逃げ出すほど恥ずかしいと思ったのか」
「その子のことが好きだったから、じゃないの?」
「いえ。一見すると辻褄は合っているように見えますが、完璧ではありませんねえ」

 ジニアの言わんとしていることが、私にはすぐには追いつけない。考え出してしまったせいで私の歩調が乱れ出す。だけどジニアは丁寧にペースを合わせながら、続きを口にした。

「さっき、本当についさっき、わかったんです。ぼくはコオリッポの話をしたかったんじゃなくて、その先に言いたいことがあったんです」
「言いたいことって?」
「ぼくは、その子をお誘いしたかったんですよ。一緒にコオリッポを見にいこう! ……って」

 ああ、なるほど。単純だけど、確かに納得がいく答えだ。
 声にもできないくらい恥ずかしくなったのは、見た景色を伝えるのが難しかったからじゃない。
 7才のジニアが、本当はその子をデートに誘いたかったからだ。

 胸が柔らかいものでくすぐられる感覚がする。純情さが、本当にどこまでも可愛い話だ。
 この話、後日談として誰かに話してしまいたい、なんて他人事としてごく軽く受け止めていた。そんな私は、ここに来てようやく気づく。ジニアがやけに真っ直ぐ自分を見つめていること。
 それから、私も7才だった時からわからずにいたことを、凡な私にもわかる言葉でジニアは言った。

「こ、今度、北の海にコオリッポを見に行きませんか?」
「………」
さんと、ぼくの、ふたりで」

 そう、だったのか。え? そうだったの? そうだったんだ。え……?
 理解できているようで、全くできていないような混乱が私の中で破裂しそうになって、何も言えない。
 長くなっていく沈黙が辛くなったのだろう。場を紛らわずようにジニアが言う。

「そそそれじゃあ、ぼくはこの辺で。気をつけて帰ってくださいねえ。お返事は、考えておいてくださいね……」

 照れ混じりのジニアの声が街に溶けても、私の中の熱は溶けることなく。帰り道の夜空にこれまで見てきたジニアの全てを投影しては、声をあげそうになる。そんな変な女に仕立て上げられてしまったのだった。