あ、ぐぐぐ。スマホの画面を目の前に、そんな声にならない声が出た。悲鳴のような、呻き声でもあるような声が。喉の奥から。なぜならまたしても、私はネズくんのライブチケットをご用意されなかったからだ。
抽選に外れたのはこれで何度目だろう。私って本当に運がないようだ。
悔しさを飲み込んだ後に思う。ネズくん、今回も倍率ヤバかったよ。だってタイアップ曲、ものすごい評判良かったもんね。チケットはもちろん売れまくりってことだよね、おめでとう。でも次は私も行けるくらいもっと大きな箱でやってよ、お願いしますよ。
「……なんです、何か言いたげですね」
全ての感情は声には出していなかった。けど、向かいの席に座っているネズくんには何かしらが伝わってしまったらしい。思わずやばい、と顔に出して焦ってしまった。
「いやあの、不運がありまして」
「は?」
「総合的に言うと、なんでもない」
「はあ」
納得してくれたのかどうかはわからないけれど、ネズくんはそれ以上口を開かなかった。気だるげな目は、ずっと私を向いているままだけれど。
ネズくんは私の幼馴染だ。今日は私がお気に入りのカフェで、読みそびれていた本を片手にラテを飲んでいたところ、勝手に向かいの席に座ってきた。ずかずかとした態度は、まあ長い付き合いである私相手ならではと言えるだろう。
私の方も無断の相席は驚いたけれど、数秒後にはまあ許せてしまう。別にネズくんだし、いいか。
「はーあ……」
「だからそのため息はなんなんです」
「なんでもないんだってば、総合的に言えば」
ネズくんには私が一体何に苦しんでいたのか、予想もつかないだろう。まさか目の前にいる彼の歌を聴きに行くチケットが取れなくて呻いていた、なんて。
落選してしまったのだから仕方がない。私は気分を切り替えようと通販サイトを開いた。
連続して5回も落選してしまったのだ。ネズくんのチケットのためにとっておいたお金がだいぶ溜まっている。気分の回復のために、このお金を少しくらい使っても良いだろうと考えたのだ。
「あ、これかわいー」
私の指が思わず止まったのは、本格的なアフタヌーンティーのセットだった。カップやソーサー、ポットはもちろん、ミルクジャグや、憧れの三段の重ねのケーキスタンドもついている。
しかもタイムセール中。チケットは今回もご用意されなかった。けれどこのティーセットはまるで私を待ってくれていたかのように思えてきて、ほんのりと気分が持ち上がってくる。
「買っちゃおっかなぁ」
「どれです?」
「こら。人のスマホを勝手に覗くな」
いつの間にか身を乗り出していたネズくんから、さっとスマホを庇う。
「………」
「なにその目」
ネズくんは身をひいたものの、何か言いたげな目で私を見ている。だけど何が言いたいのかはいまいちわからない。いつもそうだ。ネズくんの瞳は覗き込めば何かが見えそうなのに、決してその奥に潜むものを教えてくれない。
何が言いたいの。そう思いが募るうちに、ネズくんは私から目を逸らす。
ネズくんは私には言わない事、見せない事をたくさん持っている。
悪いことだとは思っていない。言葉だけに閉じ込められないこと、目だけでは捉えられないものを持っているから、彼は表現者でいられるから。
だけど、大人になったネズくんが秘密が増やすから、私も伝えられないんだろうなと思う。ネズくんの歌を聴きに行きたいの一言が。
自分がそんなわがままを言える立場にいるとは思えない。だからいつだって、たくさんのネズくんのファンに紛れて、チケットの当選に願いをかけるしかないのだ。
注文したティーセットは数日後、無事にわが家へと届けられた。写真の通りだった中身を一度洗って磨いて、テーブルに並べてみるとそれだけでテンションが上がった。
テンションのまま、むくむくと意欲が湧いてる。せっかくのティーセットだ。ここに好きなケーキや、焼きたてのスコーン。それから新鮮なサンドイッチを乗せて、柔らかな午後に会話を弾ませる。そんなティーパーティーがしたい。したいったら、したい。
夢を描き出した目線の先に、ぼくが必要ですかと言うようにスマホロトムが浮遊する。私は指を滑らせて、スパイクタウンで一番声をかけやすい相手に通話をかけた。
「マリィちゃん、あのね! 新しいティーセットを買っちゃって!」
「へぇ、そうなんや」
「明日あたりティーパーティーをするからぜひマリィちゃんをご招待したいんだけども、予定はどうかな?」
「ごめん、ちゃん。うち、明日は用があると」
「ありゃ、残念」
明日というセッティングは急すぎたか。仕方ないねと気楽に流せば、マリィちゃんは意外な言葉を続けた。
「うちの兄貴、誘ってあげてよ。喜んで行くけん」
「え? ネズが? うーん……」
私は思わず首を捻った。ティーパーティーにネズは似合わなすぎる。大人になったネズはもっぱらパブやライブハウスにたむろしてるイメージだ。そうじゃなきゃ静かな自分の部屋。
「急に誘ってごめんね。また誘うよ。ネズのことは……考えとく」
ネズのこと考えるのは、最後の最後になりそうだけど。その部分は伏せて、私は通話を切った。
ついさっきまでは、可愛いティーセットで素敵なパーティーが開ける。そんな幻想に目が眩んでいた。だけど夢はゆっくりと打ち砕かれていった。
その次に声をかけた友達の返事はノー。その次も、明日はちょっと無理とのお返事。もちろんその次も、また今度ね、と柔らかく断られてしまい、誰も捕まってはくれなかった。
「私、前世とかでなんかやらかしたのかな……」
チケットの抽選も外れまくるし、ここ最近運がない。救いは、運がないことに慣れてきて、案外落ち込みが深くないことだ。
しょうがない。ティーパーティーは自分のポケモンと一緒にすればいいか。窓を開けて、やせいのジグザグマが入ってきたら歓迎しよう。それもきっと素敵な時間になる。
とりあえず、パーティーの材料だけでも買っておこう。そう考え出かけた先のスーパーで、焼き菓子と新しいミルクやジャムをカゴに入れていた矢先だった。
スマホロトムが揺れて、画面に映し出されたのはネズからの着信画面だった。
『マリィから聞きました。明日だっけ? 何時からです?』
もう私とポケモンだけのティーパーティーのつもりだった。だからネズからの問いかけに、思わず胸が詰まった。
返事をするのに、変な間が空いてしまう。
「え、来るの? 本気?」
『来ちゃいけないってんなら、まあ、引き下がりますが』
「ううん、今のところ誰も予定が合わなくて」
未だ信じきれなくて、私は恐る恐る予定を伝える。
「明日の、昼下がりから。何時に来ても大丈夫。……空いてるの?」
ネズくんは予定については特に言わず、「まあ、行きますよ」とだけ返事をくれた。
「いらっしゃい……」
本当に来たよ。それが本音だった。しかも遅すぎず、早すぎない時間。ネズなりに気を遣ってくれたであろうタイミングだ、多分。
昨晩から呆然としたまま手作りしたスコーンや、サンドイッチをスタンドに並べ直しているとネズがぽつりと言う。
「本当に買ったんだ」
「……人のスマホ覗き見しやがって」
やっぱりあの時、スマホの画面を見ていたのだ。行儀が悪い幼馴染はテーブルの上を一瞥し、はっ、と軽く笑った。
「おまえ、こういう柄が昔から好きですよね」
「え!?」
「同じような柄のパジャマ着てました」
「よく覚えてるねー……」
「まあキャラに合ってたからさ」
「そ、そう?」
「のティーパーティーって感じだ」
最初は趣味が子供っぽいと揶揄われているのかと思った。だけどどうやら印象は悪くないらしい。皮肉っぽい言い回しだったけれど、ネズくんは案外楽しげに席に着いた。
下ろし立てのポットから、ピカピカのティーカップへ。鮮やかな色の紅茶を注げば、ティーパーティーの始まりだ。
最初の一杯に、ネズくんは静かに唇をつけた。
午後の光を透かしたネズくんの横顔。なんだか妙に恭しくカップへ口をつけるので、私は自分が紅茶を飲むのを忘れてしまうほどだった。
「美味しい?」
「うーん……」
「え、思わず悩むくらいの味?」
「いや。美味いよ。ただ味より、感慨の方が勝ってる」
「な、なんで?」
「また飲みたかったからかな」
そういえば昔、ネズくんに紅茶を淹れてあげた事があった。マグカップにティーバッグを沈めた、ごく普通の紅茶だ。ネズくんがなんだか深刻な顔をしていたので、「とりあえずお茶でも飲もう」と渡したのだ。
かなり前のことだ。温かい紅茶片手に話を聞けば、ネズくんはスパイクタウンを離れることについての葛藤をぽつぽつと打ち明けてくれたのだった。
「……あの時、マリィちゃんと離れるのはすごく心配だったろうけど、でも、結果的には良かったよね」
「はい」
「マリィちゃんにも良い影響いっぱいあったし、ネズくんも。すっごく変わった。もちろん良い方向にだよ」
「冒険、しましたからね。おれも、タチフサグマも」
「うん」
割ったスコーンにジャムとクロテッドクリームを盛りながら、私はあの日に思いを馳せていた。ネズくんは髪が短かった。今よりは健康的な男の子だった。タチフサグマはあの頃、マッスグマだった。そんなことを、いくつもいくつも思い出した。
その頃を過ぎ去った今のネズくん。見やると、案外パクパクとスコーンを口に運んでいく。口元はほんのりと微笑していて、このささやかなティーパーティーを楽しんでるようだった。
「よく食べるね」
「メシ、抜いてきましたから」
「なんで!?」
「楽しみにしてたんですよ」
「……何を?」
「さあ? そこにあるものでいいやって思ってて。なんでも楽しみだったかな」
楽しみの仕方が雑だ。雑だけど、ネズくんなりの愛のようなものを感じる。なんとも言えない感情を覚える。だけど口元だけは緩ませていれば、ネズくんが訝しがる。
「……なんです?」
「うん。あのね、ネズくんなんで今日来たんだろうって、結構真面目に不思議だったんだけど」
「そんなの、来たかったからですよ。のティーパーティーに」
「うん……」
きっとそうなんだろう。気を遣ったとか、暇だったが理由じゃない。ネズくんが来たかったから、来た。シンプルだけど、これ以上ないくらい嬉しい理由かもしれない。
「あとこれ。今日の参加費です」
差し出されたのは、薄い封筒だ。参加費と聞いて、私は焦ってそれを突き返す。
「え、いいよいいよ!お金もらうほど大したもの揃えてないし、実際そんなにお金もかかってないし……!」
「いや、申し訳ないけど中身は現金じゃないんで」
「え?」
この薄い紙の触感で、中身はてっきり紙幣かと思ったのだけれど。じゃあこれは、何の紙だろう。そっと封を開けて、私は喉の奥から叫びを上げていた。
「えー!!」
ネズくんがうるさそうに顔をしかめる。だけど大声上げたことを許してほしい。だって封筒の中身は、数日前私の手の中をすり抜けていった、ライブチケットだったのだから。
「あの、あのね! これ、抽選外れてたの!」
「……は?」
「今回だけじゃなくて、前回も、前々回も外してて! 貯めてたお金も全然使わずに済んじゃったから、だからこのティーセット買ったんだ!」
「はああ?」
「つまり、ずっと欲しかったの! ありがとう!」
私のはしゃぎっぷりに呆れたのかもしれない。同時にネズくんの何か言いたげな顔が引っ込んでしまった。ネズくんは数秒ぽかんと口を開けて、それから大きなため息をついた。
「ほら、。日付、ちゃんと確かめなよ。本当に来られるんですよね?」
「元から行くつもりだったから平気! 空けてある!」
良いから確認しろと、私の手から奪い返してチケットを取り出す。世話焼きな兄らしい仕草に溢れている指先。そんなネズくんの表情に気がついて、胸の奥がきゅっとして、くすぐったくなる。
私たち、昨日よりずっと肩の力を抜いて話せている。確かな実感がそこにはあった。
「それから、ティーセット。せっかく買ったんだから、たくさん使ってあげないと。ティータイムのパートナーにはおれを呼びなよ」
「うん……!」
「チケットもまあ、次回も必要なら考えますよ」
ネズくんの言葉に、私は首を横に振った。
「チケットが無くても、またネズくんとティーパーティーすると思う。だって今日、思ったの。私たち、もっと話せることあるんじゃないかなって」
私はネズくんのライブ行きたかったし、ネズくんは私のアフタヌーンティーに来たかったし。
大人になって、話せないことや話さないで済ましてしまうことばかりになってしまった。
だけどまたこうして向かい合えたら、私たちは話ができる。美味しい紅茶と、少しのお菓子を挟めば、心の奥から取り出して相手に伝えたいことがまた、いくらでも出てくる気がした。
「そうですね」
同意するネズくん。もっと話したいというこの気持ちが、彼に伝わっている……いや彼も同じ気持ちでいてくれることがすごく嬉しい。
「次はライブ会場で会いましょう」
ティータイムが過ぎ去って、カップが空になればネズくんが帰っていく。
彼は忙しい身だ。同じ街の中に住んでいるから近いはずなのに、遠いと感じてしまう場所へと、ネズくんは向かっている。
なのに、私の胸には安心が広がっていた。根拠をうまく言えないのだけど、大丈夫だ、と思えるのだ。
また話そうね、ネズくん。ドアの向こうに見送ったのは、今までで一番寂しくないお別れだった。