ジニアと夏らしいことをしたかった。それ以上でもそれ以下でもない気持ちで、私は彼をビーチへと誘った。海は歩けば砂に汚れるし、眩しすぎる日差しは苦手だし、そこまで泳げる方ではない。けれど日々のことを忘れられるような景色の中に彼の手を引っ張って行きたくなって、私は彼に言ったのだ。「次の休みは海に行こう」と。

『いいですよお』

 そうジニアは大きな口を開けて笑った。もちろん嬉しかった。だけどいまいち気分が上がりきらなかったのは、今まで彼が私に”ダメ”を突きつけたことがないからだ。
 ジニアは優しい恋人だ。だけども甘ったるさは一度もくれたことがない恋人でもあった。

 当日、彼は海辺に読みきれないほどの本を持ってきた。いつもは白衣のポケットに詰め込んでいる本を、今日はくたびれたキャンバス地のカバンへパンパンに詰め込んで。
 浜辺にピクニックセットを開いて、日差し対策に大きめのパラソルをひらけば、ジニアはすぐさまその本をテーブルに並べ出したのだった。

 結局、水に触りたくなった私の相手をしてくれているのはリキキリンである。冷たい水に足先を浸してリキキリンも気持ちよさそうだ。細められた長いまつ毛の瞳はいつでも私を捉えている。私が溺れたり、波にさらわれたりしないように。うるっとした瞳にはそんな気遣いが含まれている気がする。

「優しいねぇ、リキキリンは」

 胸の辺りをさすってあげる。褒める時は頭よりも胸の辺りを触ってあげるのが良い。以前、ジニアに教えてもらったリキキリンの触り方だ。
 あなたが優しく教えてくれたおかげで、こんな立派なポケモンにも自分から触れられるようになったんだけどな。感謝なのか構ってもらえない恨みなのかわからない、モヤモヤとした感情で浜辺を振り返る。
 海風に混ぜられた紫の髪。太い眉から下の顔はやはり本の中に埋まったままだ。
 横にはウインディが大きな体を丸めていて、暑い日差しを存分に受け止めている。こんな穏やかな光景も、私は見たいと願ったはずだ。
 だけども気分が曇っていく。
 職業としての教師が身についてきたからって、ここでも見守るスタンスを発揮しなくても良いのに。いや私を見守ってすらいない、本に夢中じゃないか。
 肩を落として、私は波から上がっていく。

「おかえりなさあい」

 濡れた体で横に座れば、さすがのジニアも顔を上げた。

「海、どうですか?」
「水温が冷たすぎず気持ちいいです。……ジニアさんは? 読書、捗ってますか」
「はいー!」

 晴れやかないい笑顔。それが余計に私の気分を沈める。 

「私は……。ジニアさん来てくれないから、つまらないです」
「す、すみません」

 わかりやすく不穏な空気を醸し出す私。さすがのジニアも察して、少し焦った様な顔をする。
 私はこんな、不機嫌さを簡単に恋人にぶつけてしまう様な人間だっただろうか。そんな甘ったれだっただろうか。
 ラブカスの群れがすぐそこまで来ていたとか、ナミイルカって結構浅瀬まで来てくれるんですねとか。この場を良くする、彼にも喜んでもらえる話題だってあるはずなのに、私はそれを選べない。彼に甘えているのだ。
 私は深いため息を吐いた。子供っぽいところのある自分に向けてだ。

「……ジニアさんは泳ぐの、そんなに好きじゃなかったりしますか?」
「得意とは言えないけど、嫌いではないですよー。ただ、海に入ろうと思ったらメガネを外さなくてはいけなくてえ」

 確かに、彼の六角形の眼鏡は塩水に弱いだろう。フレームも小さなネジも、濡れたら錆びの原因になってしまう。

「メガネがないと景色とポケモンとさんが見えなくなっちゃいます。それが、もったいなくて……」
「もったいない?」
「青い海と、晴れた空と、たくさんのポケモンとさん。すごくすごく、良い景色でしたから」

 途端、熱い熱い何かで喉の奥が詰まった。それが私の呼吸を浅くさせて、塩水で冷やした体がぐうっと熱くなる。

「み、見えてたんですね」
「そうですねえ」
「本の中身しか見てないかと、思いました」
「ええっとお、その逆かもしれませんねえ。ぼくがそこに行くより、ずっと見ていたい気持ちになっていましたあ」

 抱えていたもやもやが、彼の言葉で容易く晴れていく。
 同じ時間、同じ場所にいるのに彼の意識は本の中に奪われているものだと思っていた。だけどそれは勘違いで、私と彼はちゃんと同じ瞬間の中にいたのかもしれない。

「……ジニアさん」
「はい」
「私と海、来てみてどうですか」
「すっごく幸せです」

 私たちまだ何もしていない。一緒に泳いでもいないし、食事もしてないし、もちろん恋人っぽいふれあいもしていない。少し言葉を交わして、あとはお互いを勝手に一方通行で見つめていただけ。それでも彼はこんなに顔いっぱいに幸せを浮かべてくれるのだ。

 じゃあジニアさん、もう私と結婚しようよ。つい、そう言いたくなった。
 そしたら目の前で驚いた、ジニアさんの最高に真っ赤な顔。まつ毛の長い瞳が、少し泣きそうになっている。

 どうやら思っていたことは口から出ていたらしい。あーあどうしよ、と思った矢先。ジニアさんが何度も何度も頷く。しましょう、結婚、というか細い声まで聞こえて、私はただ風に吹かれるしかできなくなった。

 ただ夏らしいことをしたかった。それだけの何でも無い一日を過ごす予定だったのに、人気の少ない海辺で私たちは最高潮になっていた。