私のオンバットがオンバーンに進化した。幼い頃からパワーに圧倒されつつも可愛がって、進化できるまでに鍛え上げるのはものすごく苦労した。苦労した分、感動もひとしおで、進化の瞬間を思い出すと今でも涙腺にくる。
 それはそれとして、オンバーンの進化と共に私も変化を迫られるようになった。具体的に言うと、引っ越しである。
 膝や頭の上に乗せられるサイズだったオンバットは今や、私が住んでいたワンルームでくつろぐには大きくなりすぎた。かくして私は実生活も新たなスタートを迫られていた。

『それであんた、引越し先は決まったの?』

 スマホロトムから発せられる世話焼きな声は母のものである。私は手元のパソコンで物件探しの作業を続けたまま答える。

「まだ。今は1DKで探してるんだけど、意外とちょうどいい見つからなくて」
『1DK? もうちょっと広い部屋にしたら? 2DKとか』
「なんで? オンバーンのために広さが欲しいだけで、部屋数には困ってないかな」
『それくらいにしておかないと、ジニアくんの面倒見れないじゃない』
「ジニア?」

 たくさんの間取りで埋め尽くされていた私の頭の中に、あのほんわかした太眉メガネが急に現れる。
 ジニアといえば私の幼馴染である。
 人懐っこい笑顔を浮かべて気付けば私の友達だった、近所の男の子。ただ彼は元から意味のわからないくらい頭が良く、ポケモンへの興味もずば抜けていた。結果今はポケモン博士となり、あの名門アカデミーで教師をしている。
 教師という職業は案外ジニアに合っているようだった。日々を楽しそうにはしつつも、とにかく忙しそうだ。

「ジニア、元気にしてるかな」

 ぽつりと呟く。彼はどうしてるかな。それぞれ親元を独り立ちしてもう何年も経っている。肌感では疎遠になっていないつもりだけれど、正直自信は無い。
 ほんのり感傷に浸りかかったところで、電話口の母が言う。突拍子もないことを。

『ずっと思ってたのよ。、ジニアくんと一緒に住んであげればいいのにって』
「……なんで?」
『だってあのジニアくんよ? まともに一人暮らしできてるのかしら』
「まあ、分からなくはないけど……」

 母の言い草に私は言葉を濁しならも同意した。
 ジニアは頭が良い。ただその天才さ故か、生活能力はギリギリだ。
 彼の部屋が片付いていたところを見たことが無い。デスクも大変な有様だ。だるだるに伸びたボーダーのシャツをもう何年も着ているし、寝癖はいつも自由主義を貫いている。
 実家を出た頃からは食事にもあまり気が回っていなかった。
 そのダメさを持ってしてもあまり余る頭脳、それと心優しさを持っているのがジニアなので、彼を否定する人は少ないけれども。近しい人間として、時々心配になるのがジニアでもあった。

「お母さん、ジニアのことが心配になるのはわかる。でもそれをこっちから面倒見てあげようかっていうのは違うよ」

 もしかしたらお母さんは少年だった頃のジニアのイメージが抜けないのかもしれない。でも大人になったジニアは立派に教師をやれている。自分のことは自分でなんとかするのが大人でもある。そして彼にも自分がどのような生活を送るか、選ぶ権利がある。
 うん、やっぱり私とオンバーンには1DKで十分だ。心の中で再確認すると、私は母をあしらい通話を切ったのだった。




 彼の噂話をしたからだろうか。数日後の私はテーブルシティにてジニアとカフェテーブルを囲んでいた。
 きっかけはオンバーンの進化を報告したことだった。写真付きでオンバーンのことを自慢したら、ジニアからの見たい見たいおねだりがしつこく届き、とんとん拍子で会うことになった。
 かくしてしばらく会ってなかったのに私たちはごく自然に集まり、まるで先週も会っていたかのように会話を交わしている。
 そして私は先日の母とのやりとりを彼に打ち明けていた。

「……っていうことがあってさ」
「そうだったんですねえ」

 お節介が過ぎる母の考えに、ジニアも太い眉を垂らして苦笑いをしている。

「一緒に暮らすとか、簡単に言わないで欲しいよね。まったく……」
「確かにそれはちょっと違うなとぼくも思います。少なくとも周りが決めて、押し付けることじゃないですよねえ」
「ほんとその通りだよ」

 深く肩を落としつつ、私はお母さんに目の前のジニアを見せてやりたいと思った。
 カップに伸びるジニアの腕はしっかりと太い。
 さっきだって体の大きくなったオンバーンを難なく扱った。彼のポケモンを扱う腕前も健在のようだ。
 まあ頭の寝癖はアグレッシブなままだけれども。手を伸ばせばその寝癖を撫でつけることができるけれど、昔みたいに触ろうとは思わない。私たちはもう立派な大人だ。

「ごめんね、ジニア。多分うちのお母さんは、ジニアが公園とかうちの庭とかで本握りしめたまま寝てた時の衝撃が今も抜けてないんだと思う。だから誰かが周りにいてあげなきゃって今でも心配になるみたい」
「その節はすみませんでしたあ……」

 私は首を横に振った。懐かしい思い出だ。

「お母さんの言うことは気にしないでください。忘れちゃいましょう」
「うん」
「一緒に暮らす相手を決めるってすごく大事なことですからー。ぼくは自身の気持ちで決めて欲しいって思います」
「うん……、そうだね……」

 最初ジニアがアカデミーの教師に抜擢されたことを聞いた時は驚いた。でも今はジニアは教壇に立つにふさわしい素養を持っていると感じる。
 大事なことは自分の気持ちで決めなさい。そんな大切なことを優しくまっすぐ伝えられるのだから。
 目の前の幼馴染を誇らしく思った、次の瞬間だった。ジニアは軽く身を乗り出し、笑顔のままとんでもないことを言い放った。

が部屋を探しているってこともありますし、第一案としてぼくの部屋に一度住んでみるのはどうでしょうかー?」
「ん?」
「まず、ぼくの部屋は広いです! アカデミーのお手当が良いんですよお。ぼくのポケモンたちをみんなボールから出しても大丈夫なくらい余裕があります!」

 先日の母以上に突拍子もない話をされている。だけどこそこはさすがジニア先生。主題を先に述べることで、こんらんする私の頭でも話の内容が理解できる。
 ジニアに、現在の住環境の話をされている。それはわかるけど、わからない。なぜ私はこれから住む場所の候補として、ジニアの今の家をおすすめされているのだろう。

「立地はテーブルシティですので、一通りは揃ってます。他の街に行くにも便利だと思いますよー。あっ、あと角部屋です!」
「ふ、ふーん……?」

 住宅情報をなんとか受け止めているうちに、私もようやく事態が飲み込めてきた。
 さっきまでの会話。ジニアは周りが押し付けることではないと言っただけだ。でも彼は私たちが一緒に暮らすなんてあり得ないとは、一度も言っていないのだ。

「お仕事は正直忙しいですが、の顔を見るために毎日しっかり帰ってきたいです。いや、えいやっ! ってして、一生懸命帰ってきます。家でできる研究は家でやれば、少し長めにいられると思うんです。……そのためには片付けですねえ」

 やっぱり散らかり放題なんじゃない、と心の中で突っ込んだ。それから思わず「ちゃんと私の寝るスペースあるの?」と聞きそうになって慌てて口を閉じる。
 心底びっくりしているけれど、ジニアと二人暮らしになっても嫌じゃないと感じてる自分が自分でも気恥ずかしいからだ。そしてそんな自分を彼に知られる準備はまだ私にはできていない。

 不意に目があったジニアは満面の笑顔を浮かべて言った。

「今度、遊びにきてくださいねえ」

 それとも今から遊びに来ますかあ?
 そうおいうちをかけてきたジニアの健康的な肌色には、ますます良い血色が滲んでいる。彼の頬はばら色だ。

 1DKの部屋をめいっぱい探して、内見できるかいくつも問い合わせてしまった後だと言うのに。脳内に留めておいたたくさんの間取り図が遠く後ろへ散っていく。クラッカーでばら撒いた、めでたい紙吹雪のように遠く、遠くへと。