基本は24時間チャレンジャーを受け入れるジムを、その日ばかりは閉めることになっていた。ナッペ山全体で異例の大吹雪が予報されていたからだ。
 ポケモンの力を存分に借りればその中でもジムへ来ることは可能だろう。けれど、ナッペ山ジムが開いていれば無理をするジムチャレンジャーが出かねないとのリーグ本部の判断で、その日はジムの明かりが落とされた。
 ナッペ山ジムから一番家が近いということで、閉め作業は私が抜擢された。他の事務員は吹雪がひどくなる前に帰宅済みだ。
 すでに荒れ出している天気の中、いつもは煌々とひかるジムが沈黙する。誰も残っていないことと施錠を確認し、さて私も帰るかという時だった。

「……終わった?」
「ひゃっ!」

 もうここにいるのはポケモンばかり。人間は全員が家に帰った。そう思っていた私は温度の低い声色に飛び上がって驚いてしまった。
 すぐ後ろに立っていたのは、ナッペ山ジムのジムリーダー、グルーシャさんだ。ジムの職員である私にとっては、上司と呼べる立場の人である。

「お疲れ様」
「ありがとうございます。でも、まだいらしたんですか? もうとっくに帰ったものかと」
「いつも以上にサムいけど……、もしかしたら誰か来るかなと思って」

 そう言ってグルーシャさんは不機嫌そうにマフラーを目の下まで引き上げた。
 吹雪を控え、ナッペ山ジムが一時休業をすることはニュースでも大きく報道されている。それでもグルーシャさんはもしチャレンジャーの誰かがここへたどり着いた時のことを考えたのだろう。だからジムを閉める、ギリギリの時間まで残っていたのだ。
 グルーシャさんの表情や言動は冷めて見える。だけどジムリーダーとしてのプライドや、チャレンジャーへの深い思いやりはジムリーダーに相応しい。
 彼のそんな一面は今日までの仕事で知っていたことだけれど、私は改めて尊敬の念を抱いた。

「それにあんた一人で帰すのもね」
「えっ、心配してくださったんですか? ありがとうございます」

 ぺこりと小さく頭を下げても、グルーシャさんの表情は特に変わらない。だけど行動が物語る優しさに胸があたたかくなる。

「それじゃあ行きましょうか」
「うん」

 胸にあたたかなものをそっと抱えながら、私はグルーシャさんと二人きり、帰路についた。
 山の天候は変わりやすいものだ。歩き出せば、やはりあっという間に猛吹雪となった。
 私はパートナーのデリバードを先導にしてもらっていた。デリバードなら吹雪もへっちゃらだと思ったが、さすがに風圧がひどくなり、後半からはグルーシャさんが出してくれたハルクジラの影に隠れながら歩いた。
 ジムから一番近い私の家がひどく遠く感じられた。ホワイトアウト寸前の吹雪の合間、ようやく私の家が見えた時、私は反射的に叫んでいた。

「グルーシャさん! ひとまず私の家に避難してください!」

 ハルクジラがどれだけ逞しく、彼自身もどんなに強い人だってわかっていても、流石にこのまま猛吹雪の中を歩かせるわけにはいかない。私はとにかく必死で、彼を自分の家へと連れていったのだった。

 肩に雪を積もらせたまま、私たちは屋内へと逃げ込んだ。
 ドアを閉めると外のうるささに反比例して、家の中はしんと静かだった。雪が音を吸っているのだろう。はぁ、はぁ、と言う私とグルーシャさんの上がった息の音だけがまざまざと聞こえた。
 電気は無事についた。すぐに暖房をつけ、雪に濡れた服をお互い脱ぎ去る。
 湯を温めて、待つ間に冷えに冷えた体の末端を指でさする。

「す、すごかったぁ……。ジム閉めて正解でしたね」
「うん」

 そっと横を見る。家のキッチンに、職場でしか会うことのないグルーシャさんがいる。彼の相槌が私の家に響いている。なんとも不思議な気分だ。それから、グルーシャさんって室内でもマフラーを巻いたままなんだな、と小さな発見をくすぐったく感じた。

「狭い家ですけど、吹雪が止むまでゆっくり休んで行ってくださいね」

 100%の親切心で、私はそう言った。
 その後は二人でラジオを聞きながら暖かい紅茶を飲み、夕食には作り置いていたスープとパンを振る舞った。代わりばんこにシャワーを済ませて、寄せ集めの服を寝巻きがわりに彼に貸した。

 全ては自然な流れだった。家に二人きりになったのは仕方がないことだ。猛吹雪から身を守るために起こした行動。それでしかない。
 互いに下心というものは一切無かった。
 だけど荒天が何かを狂わせたのだろう。それか、部屋を暖めても暖めても、どこか体の奥が寒かったせいだ。

 そう、寒かったのに、私はいつの間にか服を脱いでいた。
 吹雪に閉じ込められた部屋の中。私とグルーシャさんはいわゆる、セックスフレンドになったのだった。





 グルーシャさんの肌はいつも熱い。一時的な発熱では無く、常に私より体温が高い。さすが元アスリートだ。元の筋肉量や代謝の差を感じる。そして彼はさらりとした汗をかく。
 それから彼が触れてくるたびにしっかりとした脈の音にびっくりさせられる。と同時に、すらりとした体つきのギャップにやられてしまう。
 人形のように思える綺麗な顔。いつものギアに包まれている時は彼の体温なんて想像がつかないのに、首に腕を回すと、どっくどっくと血の流れる音がするのだ。服の下ではこんなに熱いものが眠っている。
 そしてお互い裸になっている時、私はそれに触れ放題なのだと考えると、特別なことをしているという気分がやってくる。

 胸に伸びてくる手を見て、ああ、と嘆息する。
 今日もグルーシャさんは健全な男の子である。
 一緒にベッドの中に入るようになって知ったこと。どうやらグルーシャさんというひとは凍りついた表情の下で、いつも熱を持て余しているようだ。
 ポケモン勝負というフィールドでは少しずつ彼の熱が表に出てくることが増えた。以前、瞬く間にチャンピオンランクへと駆け上がったチャレンジャーが現れたおかげだ。
 だけど恋愛や性欲という場では、きっとその熱情をぶつける相手にずっと巡り会えなかったのだろう。溜め込んだものが燻り、多分どこかで捻じ曲がってしまったのだ。
 触れてくる手つきがしっかりと自分じゃない誰かを求めている。自分とは違う体の形を探っている。彼は体の奥深いところからセックスを必要としている。グルーシャさんが欲求を宿す様を見ていると、そう思えてならない。
 というかそういった必死さや飢えでもなければ私のような身近な女に手を出したりしないでしょ、とも思う。

 私はまだ性行為を好きと言い切ることができない。悪くない瞬間もあるけれど、面倒だなと思うこともよくある。
 だけど彼が生きていると感じられる時間はなんだか好きだった。それは自分が得る快楽に、勝るとも劣らない、息のしやすさをくれるような何かだった。

「困ってる?」

 事後。とりあえず下着だけ身につけて、ペットボトルの水をちびちび飲んでいれば、グルーシャさんから質問が飛んでくる。

「何がですか?」
「ぼくが来て、困ってるかなと思って」
「んん……?」

 ピロートークにしては温度感の無い質問に首を傾げていれば、グルーシャさんはため息をついて、丁寧な言葉で言い直してくれた。

「せっかくの休み、別に過ごしたいやつでもいたんじゃないかなと思って」

 ああ、そういうこと。グルーシャさんにしては、言葉足らずな言い方をされてつまづいたが、ようやく理解できた。

「前も言いましたけど、私、そういうの全然わかんなくって。気になるひとも、相変わらずできません」

 グルーシャさんとは前もこういう話をした。関係ができた最初の頃だ。やっぱり事後、やることをやったタイミングで、少しだけお互いの恋愛観を分かち合う会話をしたのだ。
 その時は彼に、気になる人はいるのかと聞かれた。私は今と同じような返答をした。

『恋というものはよく分からないです。好きになるということが分からないし、恋愛したいとも思えない。憧れさえ無いんです。もしかしたら私の感覚がおかしいのかもしれないけれど、そうとしか思えない』

 グルーシャさんからは特に目立った反応はもらえなかった。そう、と言われただけ。理解されたのか、気持ち悪がられたのかもよく分からない。
 ただ、グルーシャさんはどうやらいるらしい。気になる人が。
 おそらく自然と好きになれた人が、彼にはいるのだ。

 漠然と彼をすごいなぁと思ったのを覚えている。私にはいまいち、人を好きになるというものがわからないからだ。
「誰かを好きになれるっていいですね」とそのままグルーシャさんにも言った覚えがある。私の冷めた返事にグルーシャさんは困ったような顔をしていたっけ。
 以前、知り合いにさんの笑顔はあったかいねと褒められたことがある。だけど私の心はグルーシャさんに比べるとよっぽど冷たい。凍りつく直前の水よりも、もっとずっと。

「わからない、か。そこ、特に変わらないんだ」
「変わりませんねぇ」
の方が結構ドライなところあるよね」
「そうなんですよね。自分でも冷たいなって思います。見えないって言われますけどね」
「ぼくはいいと思うよ。あんたが冷たい部分を隠そうとしてるの」
「え?」
「優しさとか、思いやりとか笑顔とかが、嘘でもできる方がいい時はあるよ」

 どこがいいんだろうか。表情に出さず、そう悪態のようなものを吐いている私に気づかず、グルーシャさんはかすかに目を細める。

 というか、せっかくの休みなのはグルーシャさんも同じだ。グルーシャさんが休める方がレアだと、ジム職員の私は知っている。
 それを私に使っていいんだろうか。
 疑問はすぐに解けた。
 休日は私に使われているのではない。彼のどうにも燻った感情のために使われているのだ。







 毎年のことだが、ナッペ山の春は短く終わった。そこそこの質量を持って降り出した雪を見て、私はそれを悟った。ベッドから乗り出してカーテンを数センチだけ引く。覗いた窓の外は、これは積もるだろうと思える雪が舞っていた。

「結構降りますね」

 うん、という小さな相槌はグルーシャさんのものである。体温が高めなせいか、彼は寒がりだ。ぼーっと雪を見ていたのに、毛布ついでに抱き寄せられる。
 外気に晒した私の素肌は冷たくないんだろうかと心配になったけれど、いらぬ心配だったようだ。グルーシャさんは私の体温に文句ひとつ言わずに眠そうに目を閉じている。

「でもあの日が本当に一番の猛吹雪でしたね」

 パルデア中でニュースになり、ジムを閉めなければならないほどだった悪天候。あれに比べたら、今夜の窓の外は可愛いものだ。

「あのひどい吹雪の日さ」
「はい」
「最後までジムにいたのはチャレンジャーのためもあったけど、狙ってやったんだよ」
「はあ」
「言っておくけどあんたのことだよ」

 釘を刺すように言われなくとも通じている。狙ったというのが私であること。つまり一緒に働いていたグルーシャさんからしたら、私はチャンスがあったらやれそうと思われてたってことだ。
 グルーシャさんは思った以上に健全で、不健全な男子のようだ。

「やっぱりそうなんですね。私、ちょろそうに見えるんだ」
「……違うって」
「はいはい」

 今定期的に彼の相手をしていることに不満はない。二人きりで会って、勤め先が同じなだけだったらしなかったような明け透けな話も共有して、誰かの心臓の音を聞きたくなったら相手のそれを借りて良い。グルーシャさんと一緒に紡ぐその時間は、変だけど、面白い関係であると思えている。

 けれど後ろ向きな感情も、私の中にほんの少し生まれている。
 今後はなるべく、ちょろい女って思われたくない。こういう関係はグルーシャさんでもう懲り懲りだからだ。
 グルーシャさんの珍しい一面を覗き見る面白さ。それから誰かと深いスキンシップができることによる安心。それから彼から必要とされる嬉しさが、この関係における私にとっての報酬だった。
 でも最近はもう一方の、落ち着かない感情の方がどうにも勝る。

「ねえ、ぼくにキスマークつけてよ」

 私は無愛想に口を結んでしまった。それはさっき、盛り上がっていた最中にもされた要求だったからだ。
 キスマークをつけてほしい。お互い息が上がっている中で言われたそのお願いを、私は流されることなく却下した。
 ムードが出来上がった、気持ちよさに陶酔の中であっても断られたお願いだというのに、グルーシャさんのしぶとさに私は少し驚く。

「だからやり方知らないですって……」
「実際は鬱血痕ってやつだから、思いっきり吸えばつけられる」
「吸うだけ?」
「うん、かなり強めにやればできるよ」

 私は口籠った。さっきは、やり方が分からない、それから早くしてほしい我慢させないでとグルーシャさんにねだることによって、私は彼の要求を交わしていた。
 今はその逃げ道がどちらも塞がれている。

「自信、ないです」
「それでもやってみてよ」

 やはり彼はしぶとく私にキスマークを要求してくる。なぜ彼はそうまで赤い痕を欲しがっているのか。なぜ急に欲しくなったのだろうか。分からない。
 大きなため息を吐き切って、私は自分に勢いづけてそれを突きつけた。

「キスマークとかそういうのは、本命の子にやってもらうものですよね」

 私は今だに恋愛というものが分からない。その感覚を知らない。
 だけど何が世間で常識とされているかくらいは知っている。あらゆるものを見て、知識として学んでいる。
 だから自分が彼にキスマークをつける可笑しさは理解できていた。
 グルーシャさんは眉根をぐっと寄せ、それから毛布の下に隠した口元で言った。

「……、本命に、嫉妬させたい」
「え?」
「ぼくにそういうのついてるの見つけたら、少しはその子もぼくのことを考えてくれるって思わない?」

 ほんの一瞬、私が息をするのも忘れていると、グルーシャさんは体を起こし、私にのしかかった。くっついていた体が少し離れて、白い首と胸元が私の目に飛び込んでくる。

「だからつけてよ」

 グルーシャさんの眉が、くっと苦く寄る表情は何度か見たことがある。だけど、喉の奥から苦しげにしているグルーシャさんはその時初めて見た。
 そんなに苦しそうな顔をしないで欲しい。見るからに辛そうで可哀想だ。それは別の誰かを、手を伸ばすことのできない誰かを考えているせいならば、やめてしまえと言いたくなった。

 グルーシャさんが必死さを見せてくれるほど、私はますますだるくなる。
 私が彼の望み通りキスマークをつけたとして、苦しみが和らぐようには見えない。なんだか割れたガラスに絆創膏を貼るような、虚しい行為に思える。
 不可解さを隠さない私に、それでも退かずに懇願するグルーシャさん。次第に私が大人しく要求に従うまで彼が諦めることは無いというのがわかって、私は深く深くため息を吐いた。

「……どこがいいんですか?」
「自分じゃ絶対つけられないところかな」

 そう言って、彼は自分の顎の斜め下あたりを指差した。けっこう首筋の際どいところを指定される。
 グルーシャさんの体に小さな傷をつける。あらためて意識すると羞恥心を覚えた。

 狙いを定めようと彼の首筋を見つめた。首筋でいったらかなり上の方ではあるが、いつものマフラーをしていれば簡単に隠れるような場所だ。
 つまり本命の子の前ではマフラーとって、この首筋を見せてしまうのかもしれないのか。むしろ嫉妬させたいグルーシャさんは、それも計算して、私に依頼してきたのだろう。

 緊張のため息を吐いてから、私は彼の首筋に吸い付いた。数秒で唇を話すと、グルーシャさんがたしなめるように言う。

「もっと、強く。強く吸って」

 そんなんじゃついてないでしょ、という彼の言葉の通り、赤い痕はついていない。私の唾液で少し濡れてるくらいだ。
 彼の言葉に追い立てられて私は再度彼の首に顔を埋めた。それから彼の薄い肌が破れてしまうんじゃないかと思うくらい、強く吸った。
 やがて、彼が望んだキスマークらしき赤い傷がじわりと皮膚の下に浮かんだ。

 初めてやってみたから当然下手くそで、なんだか散らかった赤いマークがグルーシャさんの首筋につくこととなった。
 鬱血痕と、グルーシャさんが言っていた。まさに言葉の通り、肌の下の血が浮き上がっている。それを見て、私は目の前が暗くなった心地がした。

 徐々に、猛烈な後悔が襲ってくる。
 これじゃバレてしまう。彼に血がきちんと巡っていることが、私以外の誰かにも見られてしまう。
 彼の生命力に溢れる心臓の音が好きだった。ひょっとしたら雪でできているんじゃないかと思えるような彼に、きちんと血が通っているのを垣間見る。それは私だけのものだったはずだ。なのに、誰にも見られるような形に、私自身がしてしまったのだ。

 彼の血は、私だけが見るものであって欲しい。このキスマークだってできれば誰にも見せないで、グルーシャさんが一人で鏡を見たときに私を思い出すくらいのものであって欲しい。なのに、それが叶わないことは初めからわかっている。
 グルーシャさんはスマホの内カメラで傷を確認している。そのすぐ隣。ガリ、という硬質な音が私の口の中から聞こえて驚いた。なんだ、これは。





 明る朝。雪はうっすらで、思ったよりは積もっていなかった。夜はそこそこ降っていたが、その雪雲は今は遠くに流れていってしまったようだ。空は晴れている。
 私から別れゆくグルーシャさんは落ち着いた顔をしている。
 今までは彼の地に足ついた表情に私も共感をしていた。今日もグルーシャさん、ちゃんと生きていたな、という確認は私にも深い安心を与えてくれていたからだ。

 だけど今日はその表情も上手く受け止めることができない。
 グルーシャさんが満足そうに見えるのは、お望み通りのキスマークをつけたからだ。
 下手くそだったけれど、嫉妬させるという目的を思えば不出来なキスマークでもきっと役割を果たせるのだろう。
 その傷を気になるという別の誰かに見せて、グルーシャさんは本当に欲しいものを得るのだ。嫉妬から始まる、誰かからの熱の宿る感情を。私が抱くことができない、歪だけども正しい感情を。

「えっ」

 急にグルーシャさんがめんどくさそうな、焦ったような表情をする。何事かと思って「え?」と聞き返せば、私も異変に気がついた。

「え、あれっ……。す、すみません……」

 自分の顔が濡れている。もっと言えば、目の下が、頬がどんどんと湿っていく。
 なんだか私の目元が壊れてしまったようだ。涙腺が私の意思は置いてきぼりにして、ぽろぽろと涙を勝手に生み出してくる。
 帰りかけていたグルーシャさんが私へ駆け戻ってくる。

「どうしたの? 何か辛いことでもあった?」
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ。何もなければ急に泣いたりしないよ」

 優しい。けれど今はその優しさに困ってしまう。取り繕いたい私にとって、グルーシャさんの優しさは非常に邪魔なものだ。

「何もないです」
「それは、嘘だよ」
「いえ、何もないんです」

 何もない。そういうことにして欲しくて私は頑なに首を横に振る。
 一歩も引かないグルーシャさんを厄介に感じながら、私は自分自身にも困っていた。
 自分の涙がいやに温かい。それから、頭の中が忙しい。
 春を見送った風は冷たいのに、体が妙に熱い。自分の脈の音がうるさい。今までに無いくらい強く、私のポンプが動いている。私の心臓じゃ無いみたいだ、まるでグルーシャさんみたいだ、と思った瞬間に、息が詰まった。

 私、グルーシャさんみたいだ。
 まるまる全部じゃないけれど、今までのどこかドライで冷たい自分に比べたらずっと彼に近づいている。彼に近い生き物に、なれている。
 今までと違う私は、唐突に、知らない感情を知り始めていた。

「グルーシャさん」
「何」

 内側から弾ける感情の雪崩。熱くてしっちゃかめっちゃかで息苦しい。そこに溺れる私の正面にグルーシャさんは真っ直ぐ立ってくれている。

「キスマーク、つけたじゃないですか」
「……うん」
「ほんと、ほんとうにバカ、なんですけど。……私の方が嫉妬しました」

 私も、嫉妬させたいってグルーシャさんに思われたい。どうにか妬かせられたら、って考えてもらってる子のことが羨ましくて仕方がない。
 私の抱いた感情が嫉妬であったこと。言葉にするとより感情の輪郭が明確になっていく。

「そのキスマークは誰にも見せてほしくないです」

 体温も心臓の音も、ずっと私のものであって欲しい。マフラーもなるべく取らないで欲しい。私の知っているグルーシャさんの全部が、特別でなくなってしまうのは嫌だ。自分がグルーシャさんの中で特別で無いことはわかっていたけど、わかりたくない。
 言葉の響きとは真逆の感情ばかりが次から次へと湧いてくる。でも理解できていた。これが、好きになる、という感情だということ。

 きっと何度も抱き合う中で、私はずっとグルーシャさんに熱をもらっていたのだ。その熱い体から、肌の下に隠された情熱から。
 かじかんだ手を温めて、ゆっくりと痺れるように感覚が戻ってくるのと同じだ。温度を持つことができなかった私を目の前の彼が夜毎に温めてくれた。
 今までの自分とはまるで違う感情たちは、グルーシャさんに分け与えてもらったものだ。だから私は全てを素直に受け入れていた。

「ごめんなさい……」

 グルーシャさんへ、私はおざなりの謝罪を並べた。私が口にした嫉妬に彼は何も言わないのが、責められているように感じられた。

「なんで謝るの?」
「グルーシャさんが困るってわかってるのに、我慢できずに言ってしまったので」
「………」

 やがて落とされたのは、マフラー越しでもわかる、深い深いため息だった。

「困らない」
「嘘です」
「嘘じゃない。困らないから、誰にも見せないよ」
「じゃあ私が必死こいてキスマークをつけた意味無いじゃないですか」

 それにグルーシャさんがあんなに私に頼み込んだ努力だって意味をなくしく消えてしまう。
 道理が通らない。嘘ならいらない、欲しく無い。
 思わず、急激に尖った感情でもってグルーシャさんを睨みつけてしまった。だけどもグルーシャさんは、柔らかな息を吐く。

「あんたっていう本命の子が、嫉妬してくれたからね。もうぼくの狙い通りになった」

 あんたって誰だ。グルーシャさんが見つめるのは私だ。
 私? 確かめるように自分を指差すと、グルーシャさんはしっかりと頷く。

「だから、大丈夫」

 大丈夫、大丈夫とグルーシャさんが私を落ち着かせるように繰り返して聞かせる。
 言われたことがうまく飲み込めない。だと言うのにグルーシャさんは私にまだまだ言葉を流し込む。

「昨日、同じこと言ったけど。あの吹雪の日、最後までいたのは狙ってやったんだよ。チャレンジャーのためでもあったけど、本当はのこと、狙ってた」

 確かに昨晩、同じ話をされた。だけど今じゃまるで見え方が違っていて、私は目を白黒させてしまう。

「言っておくけど、押しかけるつもりじゃなかった。そこまで考えたわけじゃないんだけど……。その日だったら自然に二人きりで歩けるから。あと本当に一人にするのが心配だった。そしたら家に入れてくれるし、密室に朝まで二人きりだし。こっちが焦るくらいあんたのガード、緩すぎだし……」
「そ、そういうこと?」
「……気づくの、遅いよ」

 ずっと言いたかった。本当の意味を理解らせたかった。グルーシャさんの不機嫌な眼差しがそう語っている。
 そんな最初の方から私はグルーシャさんに想われていたのか。そして恋愛感情も、恋愛の機微も知らず、油断しきりだった私はグルーシャさんにいいように扱われていた。でも一方でずっと困らせていたのもきっと事実なんだろう。私という人間は欠けたものがあって、何も分からなかったから。
 過去の日々ががらりと表情を変えていく。そのせいでさっきから妙な汗がとまらない。


「は、はい!」
「気になる人なんてずっといないって言ってたけどさ、ようやくできた?」

 私はそれには頷けず、首を少し捻ってしまう。それから素直な感情を彼に告げた。

「気になるってレベルじゃ、ないです……」

 ふはっ、とグルーシャさんの息が笑う。マフラーの隙間から、白い息が漏れ出て、つられた私の息も白く舞い上がる。
 私たちが熱を持っている証拠が、ナッペ山の青い空に、晴天にゆるんだ雪に、くるくると舞った。