忙しい人だとわかっていた。それも多くの人に望まれるがゆえに、やむを得ない多忙である事もわかっていた。生徒、アカデミー、パルデアにおけるポケモン学会。そういった大勢が彼を必要としているのだ。
だからおそらくジニアと同棲を始めても、すれ違いの生活が始まることは予想がついていた。どうせ彼は一日の大半をアカデミーで過ごす。きっと彼は私が寝る頃に帰ってきて、私は彼の寝顔を一瞥して出勤をすることになる。休日も彼はポケモンの研究に没頭するだろう。
それじゃ一緒に暮らす意味が無いと言われてしまうかもしれないが、デートの時間を苦労して捻り出す必要がなくなるのはきっとジニアにとってメリットだろう。私は私で、ベッタリとくっつかなくて良さそうな同棲の形に魅力を感じていた。
ジニアの忙しさゆえに適度な距離が保てるのなら、仲違いや破局のリスクは低く済むように思えたのだ。
『……じゃあしてみよっか、同棲』
ジニアからの提案に了承した時、不安は、期待と同じくらい小さかった。
『これで一緒にいられる時間が増えますねえ』
彼はそう言ってとろけるような笑顔を浮かべていた。私の心境との温度差が気にならないくらい、一緒に暮らすことを喜ぶ。その姿には確かに愛しさを覚えた。
そうして私は彼と住居を共にすることに決めた。その後はほぼ想定通りだった。やはり甘く円熟した恋人たちの暮らしというよりは、生活スペースを只々分け合うシェアハウスのような生活が、私たちを待っていたのだった。
早朝。いつもより早く起床したおかげで純度の高い光が室内を満たしている。
朝日の美しさ以外、昨晩と何も変わっていない部屋を見渡して私は朝一番のため息をついた。
「はー……」
ジニアはどうやらアカデミーのソファで一夜を過ごしたようだ。朝まで帰ってこなかったら普通浮気を疑うのかもしれない。けれど、ポケモンに関しては真っ直ぐな彼を私は疑っていない。
このため息は、小さな失望の現れだった。今朝くらいはジニアの顔が見たかったというささやかな願いは叶わなかったのだ。
今日も帰ってこなかったか。一応キッチンに使用済みのカップが置いてあったので、一度は帰ってきたりしているようだ。その時間を少しだけ私が帰宅する時間にズラしてくれたら。朝から煙のように立ち上るのは、ジニアへの不満と、そんなことを考える自分への自己嫌悪だ。
彼がいなくても朝は淡々と綺麗だ。その光景にうんざりしながら私はスマホに指を滑らせる。
おそらくアカデミーで朝を迎えているジニアに向けて、まずは端的に要件を伝えるメッセージを綴る。
『おはよう。実は今日から一週間、カロス地方へ出張です』
出発当日にこんなことを言う酷さは自分でもわかっている。だから言い訳のように私はメッセージを続けて打った。
『ごめん、直接言おうと思ってたんだけど、タイミング逃して当日になった。お土産のリクエストあったら言ってね』
彼はどんな顔でこの連絡を読むんだろうか。
なぜだかその表情を思い浮かべることが難しい。想像してみようとするのだけど、砂を被せられたように見えない部分がどうしてもある。
それでも私は思いを馳せてしまう。果たして彼はポカンとしてるのか、もしくは仕事のことで頭いっぱいで読み流しているのか。
ひょっとしたら、夜な夜な寂しさを募らせてくれたりするんだろうか。
「そんなこと、ないか」
思い浮かんだ願望はすぐさま自分自身で否定してしまった。
今だってすれ違いの生活が続いている。私が一週間、家を空けたところで、ジニアのルーティーンに大きな変化は無いだろう。
同じ屋根の下。互いの存在は意識しながらも、私たちの生活はうっすらとしか交わっていない。
一週間はきっとあっという間だ。彼にとっても私にとっても。帰ってきたら一晩くらいはカロスの話をゆっくりジニアにできたらいいな。カロスのポケモンの話ならジニアもきっと、興味を一倍持って聞いてくれる。
そんな願いを抱いて、私はスーツケースを引きながら出発したのだった。
一週間はやはり過ごしてみるとあっという間だった。業務上の予定がみっちり詰まっていて、充実した一週間だったと言えるだろう。もちろん仕事的な意味で。
定番のミアレサブレをメインに、いくばくかのカロス土産を詰めて、スーツケース。出発時より少し重くなったそれは、私の後ろでガラゴロと音を立てる。
帰路を歩みながらふと気がつく。そういえばあの出張を告げたメッセージにジニアから返信がなかった。
普段なら気まぐれにアカデミーの窓から見かけたポケモンの報告をしてくれることもあるのに、それもぱったり途切れている。どうやらジニアは相当忙しくしているらしい。家の中の散らかり具合はどんなものか。ひとつまみの恐怖を覚えながら私は自宅のドアを開けた。
「ただいまー…?」
ジニアはいるんだろうか。今夜もアカデミー、もしくは勉強会なんかに出ずっぱりなんだろうか。様子を伺うように家の奥を覗き込む。
見渡してみたが、どの部屋にも明かりはついていない。
「さん……?」
奥の暗がりから、声が震える。なんだかんだ一週間以上聞くことのできなかった恋人の声。それから少し早足でこちらへと向かってくる足音。
やがていつもの白衣はまとわぬ彼が、ぬうっと闇の中から姿を現した。
「ジニア、いたんだ! もう、明かりくらいつけなよ」
ジニアがつけないのなら、私が明かりをつけてやろう。そう壁のスイッチに手を伸ばしたが、その手は壁には届かなかった。指の先から丸め込むように捕まえられた、と思えば私は小さく折りたたまれるようにして狭い空間に閉じ込められていた。
勢いよく覆い被さってきたジニア。衝撃で肺が揺れるのを感じると同時に背中を覆い尽くすように腕が回ってくる。
「じ、ジニア?」
戸惑いながら彼の名を呼んだが、返ってきたのは返事の体をなさない、一方的なものだった。
「ぼくはさんのこと好きです、大好きです」
「え?」
突然の告白。ジニアが私のことを好きでいる、だから関係は続いている。そんなの、なんとなくは理解している。もちろんわざわざ言葉にしてもらえたのが嬉しくて、私の体は正直に体温を上げているが。
上がってくる熱に目を泳がせている私に、彼の情けない声が吹き込まれる。
「ぼくのことまだ好きだって言ってくださいぃ……」
「え……?」
頭上から降ってくるのはあまりに湿っぽい声色。彼の前髪を手櫛ですくって、ジニアの顔を覗き込む。やはりメガネの奥の瞳は潤んで、長いまつ毛の先が濡れていた。
目を見張っていると、もう一度確かめるように抱き寄せられる。その耳元ではズビビ、という鼻の音が盛大に聞こえた。
割と本格的に泣き出しそうだったジニアをとりあえず宥めて、その意外にしっかりした体躯の彼をリビングまで引っ張っていく。
廊下の途中で、
「ほら、まだ好きどころか、ジニアのこと、ずっとちゃんと好きだから。とりあえず落ち着いて!」
「本当ですかあ?」
「本当だって! 好き好き!」
という、バカみたいなやり取りを真剣にすれば、ジニアは少し落ち着きを取り戻してくれた。
今はしょげながらもテキパキと私に温かいお茶を淹れてくれている。
私の方はリビングに座りながら、彼がキッチンに立っているのを見守っている。
こんなにゆっくりと彼の一挙一動を見守れたのは何日ぶりだろうか。忙しくても爪はちゃんと切ってるんだなぁ、髪はもうそろそろ切りに行ったほうが良さそうだ、だってうなじの毛がもしゃもしゃしている。彼に対するそんな他愛もない感想のようなものが次から次へと浮かんでくる。
出張前だって、ほとんど寝顔しか見ていなかったからか、目の前にいるジニアのひとつひとつがどうにも感慨深い。とりあえず元気そうで安心した。
「……で、何があったの?」
頃合いを見計らって聞きたかったことをジニアの背中に投げかける。
ジニアは初め必死の隠し事を見つけられた子供のように、まあともな形になっていない抵抗を見せた、次第にゆっくりと話をしだした。
「実はぼく、さんが出発した日からお休みをいただいていましてー」
「えっ、そうだったの!?」
「はい、しかも二連休……」
私はあちゃあ、と言わんばかりに顔を覆った。どうやら私はやってしまったらしい。ジニアの貴重な二連休に出張を被せ、まるまる家を空けてしまった。
その二日を一緒に過ごそうと考えていてくれたのだろう。ジニアのしょぼくれた様子を見ればそれは一目瞭然だった。
「ごめん、ジニア。私が早く出張のこと言えてればよかったね。直接話すべきだってことにこだわってたの、よくなかった」
「いえー。ぼくの方こそ、先に伝えていればあ……」
キッチンの中でジニアの背中がまた、マルマインもかくやと言わんばかり丸まっていく。彼の飛び跳ねている寝癖も、心なしかしなだれて見えた。
「すごく、ものすごおく、反省してます……。その二連休があるからさんが忙しくてもぼくが合わせればいいって思ってしまったんですよねえ。だから必要な連絡もしなかったですし、いつも以上にアカデミーに入り浸ってたりしましたからー。自業自得です……」
なるほど、と私は勝手に納得する。ジニアには反省、それから自責の念があった。だからメッセージが途切れていたのか。
玄関先での彼の潤んだ目を思い出す。もしや彼はこの一週間、私と連休を過ごせなかったことを惜しんでくれていたのだろうか。私が遠いカロスで仕事に励んでいる間、昼夜問わず、ずっと。
そんなのは自分の都合の良い期待かと思い直そうとした。が、ジニアから漏れ出てくる言葉は私の甘い期待を肯定する、甘さを重ねがけするようなものだった。
「自業自得だから、ぼくにわがままを言う資格は無いんです。無いんですがー……。それでもやっぱり、ここを乗り切ったらさんとあんなこと、こんなことしたいなあ……ってずうーっと考えていたので、がっくりでしたあ」
「そ、そうなんだ」
「それに、好きな人が帰ってこない寂しさも。もういやだあーって叫びたくなるほど味わいましたよお」
ことん、と目の前に置かれた温かなカップ。ジニアで入れてくれたミルクティーが柔らかな湯気を吐いている。
一口つけると、それは予想以上に甘かった。もう少し甘さ控えめな方が飲みやすく、体にも優しい気がして私の好みではある。だが今は、これがいい、と思えた。ジニアが私のために作ってくれた深い甘さに、私は喜んで浸った。
自分のカップとともに、同じリビングのテーブルについたジニア。その分厚いレンズの奥をそっと覗く。色素の薄い瞳と長いまつげが、やはり落ち込み、濡れている。
「……この一週間、ジニアも寂しいって思ってくれたんだ?」
「当たり前じゃないですかあ! 寂しかったですし、自分がさんにどんな気持ちにさせていたのか、よくわかりました」
深く細いため息のあと、さん、と呼ばれる。思わず胸が跳ねた。だって、声色だけで彼のまとう雰囲気が変わったのがわかったからだ。そっと視線を上げればやはり、そこはどこか可愛いメソメソ顔を見せていたジニアはいなかった。
きりりとした真剣さをまとった、大人の表情をしたジニアが真っ直ぐ私を見ていた。
「ぼくは環境に甘えてました。帰ればいつでも会えるからー、って。それから、ぼくのことを理解してくれる、優しいさんにも」
普段と全く違う空気をまとうジニア。まるでいつもの柔らかい表情たちをどこかに忘れてきてしまったようだ。
この激しいギャップは彼の二面性や、裏表といったものでは無い。真剣になった時の全てを射抜くような鋭さは、彼の真っ直ぐさが本物だから。柔らかさも真っ直ぐさも、どちらもジニアが持って生まれてきたものなのだ。
「研究も授業も、生徒たちのことも全部大事です。それらと比べられないくらい、さんだって大事だ。なのに、ぼくはなぜだかさんにだけ待ってもらっていました」
ジニアの真摯な言葉をひとつひとつ受け止める。と同時に、私の胸は不謹慎にも高鳴っていった。本気で真剣になったジニアが、カッコ良すぎるせいだった。
こんな重症状態の私に気づかぬまま、ジニアはふと表情を緩ませる。また泣き出す直前のようなしおらしい瞳で彼は私を見つめた。
「ごめんなさい。ずっと、寂しくさせていて」
「……、うん」
事情はわかっていた。ジニアが周りから引っ張りだこの、忙しい人だとわかった上で同棲を始めた。私に覚悟は確かにあった。それでもジニアのごめんなさいは、知らぬ間にできていた私のひびを確かに、しっとりと埋めてくれたのだった。
隠し持って抱えていた傷たちが癒されていく。甘ったるいミルクティーをまた飲み下しながら、その感慨に浸っていると、ジニアから声がかかる。
「それで、あのお……」
恐る恐るといった様子で何かを言い出そうとするジニア。
「ぼくのこと、まだ好きですか?」
どうやらジニアは未だに理解できていないようだ。
まだ、という言い方は全くもって正しくない、というところから。
彼との同棲に乗り出した時、私は思っていた。忙しいジニアとならきっと適度な距離が保てる。喧嘩はせずに、丁度良い感じでやっていけるならそれで良い。
だけど今はそれじゃ物足りない。あげられるだけの愛情をあげたいし、彼の恋情の全ては独占したいと欲望している。それくらい、私は彼が好きである。
いつの間にやら欲張りになってしまったことは少し怖い。だけどジニアは今日、私の寂しさに気づいてくれた。気づいて、同じ気持ちの渦中へと飛び込んできてくれた。
静かに胸を詰まらせていると、ジニアが眉尻を下げて私の顔を覗き込んでくる。
「あのお、その泣きそうな顔はどういう意味なんでしょうかあ。ぼくにちゃんと教えてください。どんな言葉でも、どんな気持ちでもぼくは受け止めますから」
喉のつっかかりを抑え込んで、早く伝えたい。ジニアのこと、もっと好きになっても大丈夫。そう思えたんだよと。
だけども舌がもつれて上手く声さえ出せない。
ずっと押し留めていたものに絡め取られている。だけど怖さや辛さはやがて去るだろう。そこにジニアがいるから。私を決して見捨てない、彼がいてくれるから。大丈夫だ。