一番最初は石だった。思い返してみればそうだ。明らかに私のものではない、原石のままと思われる鉱物が、私の机に残されていた。立つ鳥が湖に波紋を残すように、それまでいた場所に彼は美しい鉱石を残していったのだ。
私はダイゴさんが忘れ物をしたのだと思って、すぐ彼に連絡を入れた。大事な石を忘れていってますよ、大事に保管しておきますからいつ取りに来るのか教えてください。そんな当たり障りのない文面を送った。
その後はダイゴさんでもうっかりする事があるんだなぁと軽く考えたことを覚えている。
きっとすぐに取りに戻ると思った。石のことを何も知らない私ですら、見つめれば綺麗さに見惚れてしまう一品だったからだ。ダイゴさんにとっては目に入れても痛くない逸品だろう。
だけどその石は、今も私の家の中にある。
ダイゴさんは何度も私の家に来たというのに、彼は決して、大事なはずの石を持ち帰らなかったのだ。
「……今から思えばベタな手を使ったんですね」
呆れた視線を送った相手、ダイゴさんはいつものパリッとしたシャツ姿にあらず。似合いのブルーグレーのパジャマにガウンを羽織り、歯磨きをしている。
正真正銘、ここは私の自宅だ。だけどダイゴさんは決して間に合わせじゃない、普段使いと思われる銀色の歯磨きコップで歯ブラシを濯いでいる。その後は寝起きの髪を櫛で解いているが、その櫛も彼が好きそうななめらかな光沢を纏った金属製だ。
コップも櫛も彼自身も。朝の光の中では純度の高い光を放っていて、私は眩しさに眉をしかめた。
一番最初は石だった。それを皮切りに、次はまんたんのくすりなどのトレーナーズグッズが家に置いていかれた。
私が疑問を抱くより早く彼の物が増えていった。着替え、洗顔料などの衛生用品、自分専用のアクセサリーレスト。たまにデボンコーポレーションの新商品や試作品。そして着替え一式。いつの間にか彼が連泊しても困らないだけの私物を、持ち込まれたのだ。
「最初は石を忘れていったフリをして、その後もちょくちょく忘れ物をして。まんまと人の家に泊まれるようにするなんて……」
気づかないで彼の思惑通りにさせてしまったのが今でもくやしい。私も気がつくのが遅かったとは思うが。
ダイゴさんは心外だ、と言いたげに片眉を上げる。
「忘れ物のフリをしたことは無いよ」
「じゃあ全部確信犯ってことですか」
「受け入れてもらうためにゆっくりと段階を踏む。これは正攻法だよ、ちゃん」
さも当然のように言って、ダイゴさんは新しいシャツを取り出す。もちろん私の家の棚から。そこには彼が持ち込んだものがある程度まとめて置いてあり、ダイゴさんにとっては便利なスペースと化している。
正攻法などと認めてたまるものか。
今でこそダイゴさんのことを受け入れてしまっているけれど、当初は随分困惑した。
忘れ物を手渡そうとして意図せず会う回数は増えてしまった。私の家に入り浸ったり、くつろぐダイゴさんの姿を目撃されれば、一発で誤解をされた。
当時の私は大いに焦った。ダイゴさんに迷惑をかけてしまってはいけないと、誤解を解こうとあちこち奔走した。
全てが的外れだったと知ったときの私の落ち込みようを、ダイゴさんはたぶん、わかっていない。
「ちなみにいつ気がついたんだい? ボクが忘れているんじゃなく、置いていってるんだってことに」
「多分、マグカップですかね。食器棚に置きっぱなしになってるのを見て。あっこれ、次も使うつもりで置いてあるじゃん、って」
それからは点と点が結びつくように、理解していった。忘れ物だなんてとんでもない。既に増え続けたダイゴさんの私物は私の生活に混ざりこんでいる。気づいた時には自体は取り返しのつかない有り様だったのだから、私は顔を赤くも、青くもさせた。
「なんで笑うんですか!」
「キミが可愛くて。散々気づかなかったのに、きっかけはマグカップだったのかぁ」
何が可愛いだ。気づいた時の私の無様な慌てぶりを知らないくせに。
こちらの恨みまじりの目線をいともやすく跳ね返して、ダイゴさんは語る。
「当時はかなり焦ったよ。キミはボクの意図には全然気づいてくれない。なのに、ボクが入り込むのをどこまでも許しそうに見えたから、一瞬怖いとさえ思ったよね」
ダイゴさんは苦笑いして、そして私へ言い放った。
「底なし沼に踏み入れてしまったのかとも思ったよ」
私は思わず閉口した。まさか沼呼ばわりされるとは。その頃はダイゴさんの気持ちなんて知る由もなかったし、単に鈍感だっただけだ。
純粋にむかついたので、私は不機嫌さを隠さずに嫌味を口にした。
「そんな沼を手間かけて恋人にするなんて、へんなの。趣味悪いんじゃないですか?」
少しはダメージを受けてくれれば良いのに。たじろいだり、狼狽えているところだって見てみたいのに、ダイゴさんは難なくそこに立って笑っている。瞳を爛々と、口を尖らせる私をまるごと飲み込みそうなほどに光らせて、ダイゴさんは言う。
「ボクは後悔したことは一度もないし、最高の気分だよ」
やがて洗面所の明かりが落とされた。ダイゴさんはすっかり会社の人の前に、あるいはバトルフィールドの向こうに立っていそうなスーツ姿に身なりを整えている。
彼は今日はどこに行くんだろう。どこに行くとしても夜には帰ってくるのだろう。その日のうちに帰ってこられないような場所に行く時、彼は必ず私も連れていくのだから。
空気の冷たさに触れていた指が絡め取られ、透き通った色の瞳が目前で瞬く。
ダイゴさんの瞳には薄い水の膜が張っているのに、なぜだかひんやりと硬そうに見える。あの日、私の家に始まりとして置かれた、見目の良い石に似ている。違うのは、私が見つめ続ければ満足そうな光を宿すところだろうか。
11月。外の空気は洞窟の壁を撫でてきたみたいにひんやりとしている。でも寒さは覚えなかった。胸の高鳴りと、深い呼吸。二つが私の中、ぶつかる事なく優しく折り重なっていた。