テーブルシティ一帯に出された大雪の警報。ある人はくさタイプのポケモンをあらかじめポケモンセンターに連れて行き、ある人はサンドイッチの具をまとめ買いへ走った。
 寒いのが得意ではない私はというと、室内に引きこもる事を早々に決めていた。暖房が効いた部屋でおとなしく、ジニア先生が使うカメラの整備や、溜め込んだ資料の整理などに時間を割り当てたというのに。
 ジニア先生は、雪の中へ飛び出していった。多分、誰よりも先に。

『雪の中の野生のポケモンたちを観察してきまあす!』

 いつもあたたかな窓辺で午睡に耽るのが似合う人だというのに、そう伝えるだけ伝えて先生は行ってしまったのだ。
 寒さなんて気にもかけていない。普段と違うポケモンたちの様子が気になって仕方がないようだ。
 そんな先生を暖かな部屋から見送っていたかったのだが。私はある事実に気づき、絶望した。

「先生、帽子とマフラーと、コート忘れてる……」

 つまり防寒具を全部忘れてる。不覚だ。出ていく時に気づいてあげられればよかった。そうしたら私までコートを着て先生を追いかけずに済んだと言うのに。
 仕方ない。ため息と共に私は先生たちが置いていってしまった防寒具たちを腕にかける。加えて厚手の靴下とブーツを手に取った。いつものサンダルに裸足はあまりに無理がある。

 外に出ると氷点下の風に襲われる。雪は止めどなく降っていた。全ての熱を深く眠らせるように積もり出していて、少し前に通って行ったジニア先生の足跡にも新たな雪が積もり、白色へと溶け出し出していた。
 私はまっすぐ近所の、小さな林に面したアパートの裏へ向かった。先生の好きなポケモン観察スポットは心得ている。予想通り。白い埃のような雪をひっかけた、羽箒みたいな頭が見つかった。

「先生、ジニア先生」

 何のポケモンを見ているのだろう。何が先生をそんなに夢中にさせるのだろう。
 ジニア先生は振り向かない。視界を遮る雪に、ジニア先生の姿がかき消されそうだ。

「先生、先生ってば」

 声が届かないのがもどかしくなって、私はどんどん声を大きく張り上げる。やがて私は滑稽なくらいの、まるで悲鳴みたいな声を、喉から出していた。

「ジニアさん!」
「なんですかあ、ぼくの奥さん!」
「………」
「あれえ?」

 全く普段通りの調子でジニアさんが振り返る。鼻先が赤くて、メガネグラスが凍りついているが。
 私は大きなため息を隠さずに吐いた。今に始まったことではないが、なんでわざわざ奥さん呼びにするのだろうか。私には私の名前があると言うのに、ジニア先生はたびたび、ぼくの奥さん、と回りくどく言葉にする。そこへ私が大きなため息を返すのがすっかり定番になってしまっている。

「なんで何も着ないで飛び出すんですか、風邪ひきますよ」
「す、すみませえん……。後から、まずったなあとは思ったんですがー」
「ほら、早く着てください」

 帽子にコートにマフラー。それから靴下とブーツを渡して、着用させれば「あー、寒かったあ」なんて当たり前のことを言った。思わず呆れてしまう。

「まったく、風邪ひいたらどうするんですか。明日の研究も授業もお休みになっちゃいますよ」

 かなり本気で気をつけてくれと訴えたのだが、ジニア先生は微笑むばかりだ。ぼくの奥さまの言う通りですねえ、と柔らかく受け止められてしまう。
 どう言えば心配したのがきちんと伝わるのか、語気を強めてみるが、なかなか通用しない。

「あー!見てくださいあい!」
「な、なんですか?」

 急に声を上げられ、ビクつくとジニア先生が私に何かを手渡す。

「ポケットに手袋が入ってましたあ!」

 呆然としている私の手を取り、ジニアさんはひどく穏やかに言った。

「片方ずつ着けましょう」

 冷たい指先が私の手を掬い上げる。他者の手に手袋を着けさせるのはなかなか難しいだろう。なのに、ジニアさんは大切なものを扱うように丁寧に、私の手に手袋を嵌めようとする。
 これくらい自分でできるから。そう言うように私は手を振り払い、左手の指を手袋に通した。私にはぶかぶかの、大きな手袋に。

「とおっても寒いですが、もう少しここにいてください」

 そう言って、今度はそっと何も着けていない方の手を握られる。
 私はジニアさんの顔をじっと見上げた。言葉にされない驚きのこもった目線を受けて、ジニアさんは優しく問いかけてくれる。

「何ですかー?」
「……思ったより冷えてないな、と」

 それなりの時間、薄着で外にいたはずだ。氷点下の風に吹かれていたはずだ。なのにジニアさんの手は熱を保っている。触れた肌は冷たさを感じたが、後から後から熱が溢れ出して、私の指先を握り込んでいた。
 そうですねえ、とジニアさんの声が震える。

「ぼく、今すごくどきどきして、指の先まで、とーってもよく血が巡ってますからねえ!」

 すでに指の先まで熱くなった手。何が、なんで、どうしてそうなっているか。聞くのは多分野暮なのだろう。
 頭ではわかっている。私たちは結婚まで行き着いている。それでもいまだに、彼の愛情に自惚れるのは少し難しい。

 雪はさらに激しく降り出している。
 ぐらぐら揺れている感情とは真反対に静かすぎるこの空間で、沈黙を保つことは難しい。
 だけれども、この難しさを、私は一生懸命に受け止める。私がどきどきしているように、ジニアさんもどきどきしているのだと信じよう。信じねば。音もなく降り続けてきた彼の愛に報いるように。
 警報が出るほどの大雪の中。私は脆い願いと最愛の熱を噛み締め、立っていた。