例えばだけど、世の中に恋愛ハラスメントみたいな言葉って、存在しないんだろうか。男と女が、なんとなくお互いを良いと思っていたら、それは恋愛でなくちゃいけない、みたいな空気感。好き同士は一刻も早くくっつくべきだと考えて、恋人にならないのかと相手をどんどん狭い場所へ追いやる、息苦しいそれにラベルをつけて欲しい。
 誰か、言葉遊びの上手い人が、名付けてくれないだろうか。そうしたら当たり前を勝手に押し付けてくれる相手に、少し考え直してもらえるかもしれないから。
 叶うなんて思っていない望みを、今日もぼうっと浮かべながら、私は朝のニュース番組を聞き流す。

 天気予報を見る。朝のコーヒーを飲みくだす。使い終わったお皿を水につける。こうしている間にも、私は何度も思い出している。ダイゴさんの一言を。

ちゃんのこと、好きだよ」

 何気ないように口にされたけれど、その一言は特別な響きを持っていて、きっかり私を揺らした。
 幾度も思い出すに決まっている。好きだよ。ツワブキダイゴという人が、私のことをその一言でまとめ、微笑んだ。
 あの瞬間から、私はずっと守りの体勢をとっている。



 自分の好きに正直。それがダイゴさんの性分らしい。確かに石マニアなことは周知されているし、オーダーメイドであるだろうスーツ姿にも彼の”好き”が現れている。
 石探しをしにいくと言って数日姿を消したりする。何にときめきを覚えているかが一番分かりやすいのは、彼の愛するポケモンたちだ。

「ちょっと待って」

 思わず声が出る。

「私に、ボスゴドラみたいなところがあるってこと……?」

 いやいやボスゴドラとは限らないじゃないか、と思って次に思い出したダイゴさんのポケモンはネンドールだった。
 私とネンドールの共通点ってあるんだろうか。無いことも無いか?
 ダイゴさんの好きなものは分かる。ダイゴさんに好きだよと言われたこともどうにか受け止めている。だけど、私に向けられているとどうも意味不明に感じてしまう。
 もやもやが膨れ上がるのを感じて、私はかぶりを振った。この件について考えるのはやめよう。もうすでに十分考えすぎているから。

 もう考えるのはやめよう。何度そう言い聞かせ、何度私はダイゴさんの事を考え出している事だろうか。

 ダイゴさんは私を好きだよと言った。とても、ナチュラルだった。
 タイミングを測った風でもなかったし、周りのことも気にしていなかった。ただ私がそこに居たから、言葉にした。伝え忘れていた小さな用件を伝えるかのようだった。
 対して私はダイゴさんについて、何の感情も口にしたことがない。好きも嫌いも、かっこいいも、何も。なのに私の想いを、知っているかのように振る舞う人がいる。
 そういう人たちは皆、こう考えている。

 さんも、ダイゴさんが好き。だから二人は両思いであろう。

 ダイゴさんがあまりにでき過ぎた男であるせいで、まるで私がその想いに喜んで応えるのが当然だと思われているのだ。ご実家も極めて太く、ポケモントレーナーとしてはチャンピオンで、会社では副社長で、顔も良し所作も良し。人格も基本慕われている。そんな彼を、好きにならないはずがない。想いを寄せられてときめいていないはずがない、と。何人もの人がそういう目で私を見ている。

 こうして私は「ダイゴさんと当然付き合うだろう」というプレッシャーに苛まれる、恋愛ハラスメント?的な状況に晒されているのだ。

 この状況の難しいところ。それは、実際私もダイゴさんは素敵な人だと思っているところにある。
 パワフルなポケモンたちを何匹も育て上げられるところは尊敬するし、副社長でありながらチャンピオンという重責を背負い、どちらもこなしているのはすごいと思う。自分の趣味を最大限謳歌しているところは嫉妬するところでもあり、素直にいいな、と思えるところでもある。
 遠い人かと思いきや、案外話しやすい人という印象も持っている。会えたその日は、ずっと視界の端で何かの反射光でキラキラしている気がしている。

 私もダイゴさんを、好きか嫌いかで言ったら、好きなのだろう。
 だけど。

「はあ……」

 このため息は恋煩いでは、無い。

 ダイゴさんは素敵だと思う。だけどどうしても、その先には進めない。
 彼を好きだという気持ちを恋という事にしたくない、恋人関係という枠につなげたくないと、思ってしまうのだ。

 この気持ちを恋愛の舞台に載せたくない。そう強く思うのに、理由は誰にも上手く説明できない。
 どうしようもないわがままな気持ちに、誰かどうにか名前をつけ、ラベルを貼れないだろうか。そしたらダイゴさんにも分かりやすく伝えられる気がするから。
 そしていつも、ただ私が幼いだけじゃないか、という出口にたどり着く。たどり着いて、途方に暮れて、私はどこにも行けず、同じ場所に座り込んでしまうのだ。



 ボスゴドラじゃなく、ネンドールでもなく。だったらユレイドル?
 近頃ずっと、ダイゴさんの愛するポケモンたちを順番に思い浮かべ、自分との共通点がどこに有るのか考えている。私の何かダイゴさんの琴線に触れたのかが分からなすぎて、どうにか探ろうとしているのだ。
 ユレイドルは少し似ている部分があるかもしれない。こうやって考え事している時に、とろとろ歩いているところとか。

「危ない!」
「うわあっ」

 声がして、意識と視界が繋がる。目の前には一匹のポチエナ。口には私のサンドイッチがくわえられている。あと、手のなかがすっかり軽い。
 あ、と私が言う前に、ポチエナは走り出す。持ち前のにげあしを生かして、あっという間に消えてしまう。お昼ご飯にする予定だったサンドイッチは、ポチエナのご馳走になってしまった。

「びっくりしたあ……」

 唖然とする私に声の主、ダイゴさんが駆け寄ってくる。

「大丈夫だったかい? 怪我は?」
「無いです」
「どうする? ポチエナを追いかけるかい? そのつもりなら協力するけれど……」
「………」
ちゃん?」
「あ、ごめんなさい。あのサンドイッチ、ポチエナが食べられない食材が入ってないか、心配になって。多分大丈夫です。あっ、追いかけるのも、大丈夫です」

 とろとろ歩きをしていた私が悪いし、特別楽しみにしていたサンドイッチでもない。数百円のためにポチエナを追いかけ回す気力もない。
 それにポチエナより何より、合わせる顔のなかったダイゴさんがここにいることの方が大問題だ。

「そうかい? なら、これからボクと美味しいサンドイッチを食べにいくのはどうかな?」
「す……!」
「す?」

 スマートすぎる、という言葉を私は必死で飲み込む。

「いえ、なんでもないです。サンドイッチのことは気にしないでください。悪いのは私なので。ダイゴさんにも、悪いので」
「別にボクは自分が損をするようなことは何も提案していないよ。だよね?」
「て、……いやなんでもないです」

 手強い人だ。
 確かにダイゴさんの誘いに乗れば、お互い損しない。
 私はお昼ご飯が食べられるし、ダイゴさんはきっと、私と話す時間にメリットを見出してくれている。自分でそう自覚するのはすごく恥ずかしいが、きっとそういう事だろう。
 そしてそのメリットを私に考えさせ、理解させる手管は、手強いとしか言いようがない。

「あの。お気持ちは嬉しいし、ダイゴさんは素敵な人だと思うのですが。私、恋人は欲しく、ないって言うか」

 心の中でダイゴさんにごめんなさいと呟いた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
 同時にどうしてこんな私を好きだなんて言ったんだ、と悪態をついてしまう。
 私には上手く断ることができない。優しい大人の嘘をつくことができない。唐突に、感情を塊のままぶつけることしか、できない。

 きっと、不快な思いをさせてしまった。恐る恐るダイゴさんの表情を伺う。そこには普段と変わりない、何にも臆さないダイゴさんがいる。
 なんで?と疑問を抱いたのがわかったのだろう。ダイゴさんが瞳に浮かべた優しい光は、私の疑問をかろやかに受け止めている。そして私にも分かるように言葉を選んで、教えてくれた。

「ボクのこと好きじゃ無いとは言わないね」

 図星だった。
 それから彼は優しい声色で受容する。私の成長できない願いを。

「そっか。恋人は欲しくないんだね」

 賛成も反対もしない。ただ受け入れて、ダイゴさんは尚も柔らかな興味を宿した瞳で私を見下ろしてくる。
 自分のことは恥ずかしいと思う。だけどダイゴさんに打ち明けるのは怖くない、と思えた。ダイゴさんの堂々とした姿がそう思わせてくれた。

「……私、恋愛の経験は少ないっていうか、ほぼ無いんですが。思うんですよ。恋人が欲しいっていうのは、”自分に都合の良い人が欲しい”っていうのと同じでしょって」
「なるほど」
「そもそも、恋人が欲しいって思う時って大体疲れやストレスで弱ってて、何もかもめんどくさい時なんですよね。だから思い描く恋人はわがままを聞いてくれたり、甘やかしてくれたり、時には正しく叱ってくれる。情けない私のことを見捨てないで助けてくれる……」

 やっぱりこんな自分を知られてしまのは恥ずかしい。だけどダイゴさんは顎に指を当て、未だ興味を失わずに聞いてくれている。

「だから恋人が欲しいって思うことが嫌なんです。独り善がりなわがままですから。ダイゴさんにも、そんな願望を押し付けたくないです」

 ようやく、少し言葉で捉えられた気がする。周りからの期待や、ダイゴさんの気持ちから逃げていた理由。
 私の気持ちは、ダイゴさんに渡すには、幼くて汚すぎるのだ。ダイゴさんが素敵だと思うからこそ、私は彼を自分の恋愛感情に触れさせたくない。

「そっか」

 聞き終えても、ダイゴさんは私への態度を変えなかった。

「すみません。変ですよね、私の考え方」
「そんな事ないよ!」

 私は目を丸めて戸惑う。カラッとした否定。そこに同情や慰めのニュアンスは無かった。

「ボクも、ちゃんに恋人になって欲しいとは願ってないよ。ちゃんが好きだけど、ね」

 意外な返答だった。けど、思い返せば、ダイゴさんに好きだよと言われたことはあっても、付き合おうだとかは言われていない。
 周りからは散々な目に遭ってきたけど、ダイゴさんが私にくれたのは「好きだよ」の告白だけだ。

ちゃんの言うこと、分かるよ。ちゃんをボクにとって都合の良い存在にはしたくない」
「そうなんですか……?」
「うん。ちゃんがかわいそうだし、何より。ちゃんの事が、好きだからね」

 なんと、言い表したら良いのだろう。
 ただその告白で、ダイゴさんは本当に私の心をそのまま拾い上げてくれたのが分かった。
 他人はきっと簡単に恋だと呼ぶであろう私の心を、恋からズレたままでいさせてくれたのが、私には分かった。

 好き、好きだからこそ、あなたにはあなたのままでいて欲しい。それくらい、好きなのだ。
 こんな気持ち伝わると思っていなかった。
 ずっと胸に燻っていたものを紡ぐため、私は喉を搾り上げた。

「私も、ダイゴさんが好きです」



 
 好きです、と伝え合ったのに、私たちはその日本当に恋人にはならなかった。
 だけど私とダイゴさんは、その確かめ合った気持ちを、お互いに強く強く信じて、信じる気持ちで繋がった、のだと思う。

 その後に続いた日々の曖昧さも、言葉にするのは難しい。
 実はダイゴさんはかわいそうだと思うからしたくない、そう言ったことも出来てしまう人だったと分かったり、私も今まで抱くことのなかった欲求を知ったしたけれど、あの日々をなんて呼んだらいいのかは今も分からない。

 ただ、私たちは誰にも名付けられない関係を数年続けた。そして他人から見れば古い親友にも、時には終わった関係にも、だけど夫婦以上にも見える、何かになった。