さんのこと、だいだい、だあい好きですよ。そんなジニアさんの言葉から、私の穏やかすぎる恋が始まった。
 まるでぬくい風で私を包むような告白。ジニアさんとのお付き合いは、あの時のぬくさを抱えたまま。だあい好きと言った、あの言葉のゆったりとしたペースに乗って揺られて、進んでいる。


「こんばんはぁ」

 ドアの方から響く柔らかい声。最近特に聴き慣れてきた、夜の挨拶。

「お疲れ様です」
「はい、今日もたあくさんみんなとお話して、頑張りましたよー」

 お出迎えをするよりも前に、白衣姿のジニアさんが部屋に現れる。
 アカデミーから直行してくるのは構わないけれど、その服装でうちに来るのは近所でも目立っていそうで、まだ少し気恥ずかしい。

「お腹もぺこぺこですー。あっ、今日の夜ごはん、パスタなんですねえ!」
「私がパスタの気分だったので。あと麺を茹でて和えるだけです」
「じゃあすぐシャワー浴びてきますねー」
「了解です」

 ジニアさんを見送ってから、私はお湯を沸かしなおした。沸騰したら、パスタが先端までお湯にくぐるよう、ぐるぐるかき混ぜる。
 すぐ、という言葉の通り、10分もしないうちに髪を濡らしたジニアさんが上がってきた。
 うちに置きっぱなしの部屋着に着替えていて、私は最近白衣姿より、この部屋着ジニアさんの方が見慣れてきた。
 ちょうど良いタイミングでタイマーが鳴る。パスタをざるにあげると、ジニアさんも慣れた様子で食器棚からフォークを取ってくれる。冷蔵庫から粉チーズ、それからジニアさん用のタバスコお得用サイズも。
 パスタをお皿に盛り付ける頃にはジニアさんの髪はほとんど乾いていて、また独創的な髪型になりつつあった。
 パスタの湯気と、ジニアさんのシャワー上がりのほのかな香りが混ざり合う、しっとりとした空気のもと、私たちはフォークを握る。

「とおーっても! 美味しいですー!」
「……、うん」

 確かに、適当に作った割には美味しくできている。自分としては満足な出来のお皿の向こうで、ジニアさんは今日も満点をあげたくなる笑顔を浮かべている。
 食べながら、今日あったことを話す。二人ともゆっくりと話すので、食べ終わったあともまだ、話すことが途切れない。なので食後の冷たいお茶を飲みながら、また話す。
 満腹感が落ち着いた頃。今度は私がシャワーを浴びてくると、あがった頃にはジニアさんが食器を洗っておいてくれていた。今はソファに座って、読書を楽しんでいるようだ。

 ただいまと言うには、おかえりと言って迎えるまでは辿り着いていない。けれど私とジニアさんの半同棲生活はいたって順調だ。
 順調、だよね。私はもう一度自分に確かめてから、彼に声をかけた。

「あの、ジニアさん」
「はい」

 表情に、声色に気をつけて、彼が好きなままでこれを言うんだと、伝わるように、私は次の言葉を口にする。

「今日も、一緒のベッドで寝て大丈夫ですか?」
「……ええと、それはどういう意味ですかー?」

 ジニアさんのメガネに、白熱灯の色がきらりと反射する。彼の口元は、一応笑ったままだ。

「質問に質問を返してごめんなさいー。でも、どうしてさんがそう思ったのか、ぼくにはとおっても不思議で……」
「心配なんですよ」
「心配?」
「私と一緒で、ジニアさんがちゃんと寝られてるのかなぁって」

 この家に帰ってきてくれた時、私がこっそり見ていたのはジニアさんの寝癖だ。朝出て行った時より、派手に跳ねていた。きっとまた、授業の合間にお昼寝をしたのだろう。
 以前より、教職が忙しかったり、ポケモンの研究に熱中したりで、ジニアさんが夜更かしをして、こまめに仮眠を入れていた。この家でもイスで寝落ちしている姿をなん度も見てきた。
 だけど前まではここまで酷くなかった、気がするのだ。
 だけどこの家で、夜はふたり同じベッドで眠るようになってから、ジニアさんの寝不足が深刻化しているのでは無いか。そう思えてならないのだ。

「えーっと。ぼくはちゃんと寝られてますよお?」
「でも、私の寝相がひどいとかで、ジニアさんの睡眠の質が落ちてるのかもしれないし」
「いえ、さんの寝相は悪くないですよー。むしろ全然動かないので心配になるくらいです」

 でしょうね、と心の中で呟く。私の方はジニアさんといるとどうも気が緩んでしまうようで、毎晩ぐっすり眠ってしまうのだ。入眠がとにかく早くて、瞬く間に眠気が襲ってくる。寝た後も隣にいる熱源は心地よくて、毎朝寝過ぎだと感じるくらいだ。

「前みたいに、寝る場所をわけた方がぐっすり眠れるかもしれませんよ?」
「ぼくは、さんの近くで寝られる方が嬉しいですー」

 決して強い言葉使いでは無い。だけど、ジニアさんからは頑なな意志を感じた。
 その後も私は何度かジニアさんに今夜も一緒で大丈夫なのかと確認した。けど、彼は決して揺らがなかった。最後にはシーツの中に引き摺り込まれ、案の定私は数秒で眠気を覚えて寝てしまったのだった。




 その夜。珍しく私は途中で目が覚めた。うっすらと意識が浮上する。どうやら窓の外でポケモンたちが騒いでいるようだ。
 こんな夜中に活動してるのはなんのポケモンだろう。なきごえを聞いても、どのポケモンなのかパッと当てることができない。

 ジニアさん、ジニアさんならきっとすぐ分かっちゃうんだろうな……。

 眠気の残る頭でぼんやりとそう考え、寝返りを打つ。

 あれ?

 目に入ってきた光景に、私の頭は眠たいなりにおかしいぞと、違和感を訴えだす。
 隣で寝ていると思ったジニアさんが、私をまっすぐに見つめている。一体いつから起きていたのだろう。数分前に目が覚めてしまったようには見えない。そう確信させるほど、彼の目元は冴えている。

 ジニアさんはまだ私の目がうっすら開いていることに気づいていないらしい。
 ぴと、と唇に触れてくるものがある。ジニアさんの指だ。触れるか触れないか、微妙な距離に、指先が置かれている。不思議に思いつつ、息を吐けば、それはジニアさんの指に当たる。
 息を吐いて、吸う。生きていれば当たり前の行為がジニアさんの指を幾度かくすぐると、彼はなぜだか目を細めた。優しげな印象の眉尻がいっそう下がる。それは、私の見立てによれば、彼が安心している時の表情だった。

「ジニ……、さん……?」
「あれえ、さん。起きてしまったんですか? おそと、すっごく賑やかですもんねえ」
「ジニアさんも、起きてしまったんですか?」
「まあ、そんなところですー」

 ニコッと、微笑まれる。そのくっきりした表情は、夜に似つかわしくない。
 まさか、ずっと起きてたわけじゃないですよね。そう喉から出てきそうになったところでベッドが揺れる。

「さ、もう一度寝ますよお」
「でも」
「大丈夫。ぼくも寝ます」

 本当だろうか。だけど抱いた疑問ごと、ジニアさんの体温であったまったシーツに包まれる。
 ずるい。そうされると私は瞬く間に眠たくなってしまう。すぐに意識が揺らいで、私は抗えない眠りへと誘われていく。

 ジニアさんは私を見つめて何をしていたのだろう。
 ちゃんと寝られてるって、一緒に寝られる方が嬉しいって言っていたのはなんだったの。

 疑問の端っこをかろうじて握り締めようとするけれど、意識は私の手を離れていく。私は再び、夢も見えない深い眠りへと落ちていった。




 翌朝も、私は寝過ぎなくらいしっかり寝て、目を覚ました。
 けれど今朝ばかりは、目覚めてすぐ、心臓が暴れ出した。暗がりの中で見てしまった、ジニアさんの冴えた目元がそうさせた。

 あんな夜中に、ジニアさんは何をしていたのだろう。何を思って、私をまっすぐに見つめていたのだろう。
 ただ、夜中に考え事をしていただけかもしれない。自分の考えすぎだと結論づけたいのに、どうしても焼きついたジニアさんの表情にそれを邪魔される。

「そういえば、前にもこんなことがあった、ような……」

 ベッドから出られないままぐるぐると考えているうちに、不意に以前のことを思い出した。
 その時はまだ付き合ったばかり。お互い、お泊まりというだけで気恥ずかしくて、別々の部屋で寝ていた。

 ある夜、私は昨晩みたいに目が覚めた。意識がぼんやりと浮上してきて、うっすらと目が開いた。その薄ぼんやりとした視界で、私は、私をまっすぐ見つめるジニアさんを目撃したのだ。
 別部屋で寝ているはずのジニアさんが、なぜ私のベッドの横に立っているのだろう。そしてどうして、ぱっちりと開いた瞳で私を見つめているのだろう。
 何もせず、見つめるばかりのジニアさんが不思議で仕方なかったけれど、私はそのまままた眠りについてしまったのだ。

 当時、私はてっきり夢を見たのだと思っていた。

「夢じゃ、なかったんだ……」

 夢で見たと思っていたジニアさんと、昨日の夜隣にいたジニアさん。二人の目つきは全く一緒だった。
 同時に唇に触れてきた指先を思い出す。再現するように自分の指先を口元に持ってくることで、私はひとつの可能性に行き当たった。

「私の呼吸を、確認していた……?」

 ジニアさんの指先は私の唇をいじくる、というより、ただ指先を当てるようにしていた。そしれ触れるか触れないかの距離を保っていた。
 不意に思い出したのは、昨晩、寝る前に交わした会話だ。私の寝相は酷くないかと言ったら、ジニアさんはこう返してきた。

『むしろ全然動かないので心配になるくらいです』。

 どきどきどきどきどきどき。心臓がずっと嫌な音を立てている。
 昨晩のジニアさん。それから夢だと思っていた、枕元に立ったジニアさんも。
 夜な夜な、私が生きているか、確認していた、とか。

 あんなに真剣な瞳で?
 どきどきどきどきが、止まらない。

 寝室から出れば、ジニアさんはすでに白衣を着て、先生として出勤する支度を進めていた。顔色はいつも通り。目の下にくまは見当たらない。

さん! おはようございまあす!」
「あ……、おはよ、ございます……」

 考えすぎだろうと思いたいけど、世界はもう表情を変えていた。

 笑顔はあたたか。声は柔らか。思考力はしなやか。そんなジニアさんから向けられる感情も、優しくて、どこか安易なものだと思っていた。
 穏やかすぎる恋だと思い込んでいたのは、私だ。

 だけどジニアさんの行動には、私への愛がぎゅっと詰まっている。そこには私が思っている何倍も重たいものが、ぎゅぎゅっ、と。
 夜中、私が生きているか確認せずにはいられなくなるほどの、その感情は、昨夜確かに存在した。

 明るい朝の日差しの中、私は恐怖を覚えていた。
 私はずっとジニアさんが抱いてくれていた感情の重さに向き合えていなかったのかもしれない。これまでの行動を思い返せば、思い返すほどに、その確信が強まっていきそうで、私は朝から震え上がりそうだ。

 そろそろジニアさんがアカデミーに向かう時間だ。
 私はおそるそおる、彼に聞いてみる。

「ジニアさん、昨晩はちゃんと寝られましたか?」
「もちろん。ぼくの方は心配いりませんよー」
「そ……ですか……。じゃあ、あの今後も一緒のベッドでいいんですよね……?」

 すぐさま、満点を飛び越しそうな笑顔が、朝の部屋に咲く。

「はい! このままさんと一緒に寝て起きてって出来るのなら、ぼくは幸せですー!」

 それは、私がちゃんと生きているか、好きなだけ確認できるから?
 そんなことは聞けない。けど、朝を繰り返し迎えるうちに、ただいまとおかえりが言えるようになっている頃には、本当のことを聞けるようになっているのかな。

 可愛いからと育て始めたポケモンが、ある日想像をはるかに超える姿に進化したのを見てしまったような、そんな気分だ。
 すごく身近に、受け止められるかわからない強大なものが存在している。そんなことにようやく気がついて、私は多分、少しだけ吐きそうになっていた。