五月の光を浴びてきた菜園の葉たちは青々と茂る。早めに植えたトマトがやはり夏に先駆けて実り始めていて、ひとつずつ頃合いを確かめ、収穫していた時だった。
ずっと、物憂げに押し黙っていた薬研くんがひとつ、心底安堵したように言った。
「まあ……、不動が大将に懐いてくれて良かったよ」
「え、なつ……ええ??」
私たちはつるりとした野菜を見定めていただけだ。話すらしていたわけでも無かったのに、不動くんそのものが急な話題だったし、内容も信じられないようなもので、危うく取れたての野菜を笊ごと落とすところだった。
「な、懐いた、って。誰のことでしょう」
「大将、ほんとは聞こえただろ?」
「それは……」
はい。聞こえました。私の耳がおかしくなっていなければ、不動行光くんが私に懐いたと、聞こえていました。
「冗談とかじゃ、無いんですよね?」
「ああ。良かったよ、大将が刀誑(たら)しで」
「誑したつもりは……」
「知ってるよ、大将は天然だからな」
「何が天然ですか」
そんな言い合いをしながら私たちは取れたてのお野菜を抱え、台所に戻る。トマトが色づくほど日差しは熱かった。少し汗をかいてしまい、私は冷蔵庫にある作り置きの麦茶へ手を伸ばした。
懐いた。不動くんが私に。
「うーん……」
附に落ちない。けどグラスから冷えた麦茶はするりと喉を落ちた。
どの姿を思い出したって、不動くんは私を見ようとしない刀だ。酒気を帯びて浮かぶような視界で見ているのは、いつだって織田信長公、そして彼を救えなかった自分への後悔だ。
その罪悪感に浸って、けれど浸ることは耐え難い辛さを伴って、そしてお酒を飲む。
たとえ私が薬研くんの言うような刀誑しなところがあったとしても、誑かす隙が無いのが不動行光なのに。
薬研くんの言う不動くんの姿に、確かな違和感を覚えながら、私はさらに冷たい麦茶をあおった。
冷たい麦茶をお部屋に持っていっていいよと燭台切さんから許可が出たので、おかわりを並々と注いで私の部屋へと運ぶ。
「あ……」
菜園で聞いた言葉のせいだ。通りがかった部屋の障子が開いていて、そこに行き倒れみたいに寝込む少年の姿に固まってしまったのは。
薬研くんがあんなことを言うから。私はカップ酒を握りしめて潰れている不動くんの前でどぎまぎしている。
一度初夏の空を見て、行こうとしていた廊下の先を見て、自分のつま先を見ていると諦めがやってきて、私はもう一度畳に伏した不動くんを見た。
短刀としてはかなりしっかりした体躯。お酒の飲み過ぎで寝てしまっているんだとしてもきっちり履かれた靴下なんかが品の良い彼は、深い紫の髪を畳の上に広げている。
呼吸は浅くて、酒気が回り過ぎて苦しいのか「う〜……」なんてうめき声が聞こえる。私もひとつため息を吐いた。
手に持っていた麦茶をそっと遠くに置いてから私は彼の肩をとんとんと叩く。
「不動くん、大丈夫?」
「あ、……」
薄く目が開いて、髪と同じ、濃い紫の瞳が私を見た。
「寝てても良いんだけど、お酒、こぼしちゃうからいったん預かるね」
指先にそっと触れて、ひとつずつカップから剥がしていく。
彼を目の前に、私は一応笑んでいられるけれど、それは、わるあがきと何ら変わらない。
不動くんが懐くなんてありえない。ありえないのだ。私は彼を誑かせるのなら誑かしたいけれど、彼の背負うものをひとつも分け合えていない。願ったって、私にできることはひとつも見つけられていない。そういうふがいない主なのだ。だからせめて笑っているだけ。
彼から取り上げたカップ酒をどこに置こうか迷っていると、膝に熱いものが乗った。それは不動くんの手のひらと額だった。
朦朧とした様子の不動くんは乱れる髪ごと、もう一度おでこを擦りつけてくる。
「あなたは……」
「えっ」
不動くんにそう呼ばれたのは初めてだった。彼から私を呼ぶことが滅多に無いし、酔っぱらった不動くんは何というか、言動がおじさんっぽい。なのにあなた、なんて品の良い呼び方に私は調子を崩される。
「あなたは、」
「は、はい」
また呼ばれた。ずるずると、お腹の底からこみ上げるものはなんだろう。
「ほんとうに、いいかおりがする……」
「っっっえ!?」
言ったきり、不動くんはまた夢の中に行ってしまったようだった。すーすーと、さっきよりは滑らかな呼吸音が穏やかに聞こえる。だけど私は穏やかじゃいられない。目の前で寝入る彼は、本当に不動行光だろうかいやいや違う気がする。
驚いた拍子に手も揺れて、不動くんは器用にもこぼさなかったお酒が私の手を濡らしている。それが気化して部屋の空気が酔う。どうにもたまらなく、くらくらした。