「兄様が」

 と、僕が言うとあるじさまは頑なに、まず江雪兄様の話題として受け取る。「それは江雪さんのことですか、それとも宗三さんのお話ですか」と、確認すらしない。一度たりともだ。僕には返ってその頑なな意識が、このひとの心の内には随分宗三兄様がいるのだと感じてしまう。
 あるじさまは自ら、宗三兄様の存在から逃れようとする。それに気づいているのは今のところ、僕だけであろう。

 僕は話の続きをしなかった。話したいことはあったのだけど、あるじさまの反応を確かめて、心持ち落ち着いた僕がいた。

 お庭を挟んで大仰な笑い声が聞こえてくる。あの自信過剰な声は大包平様だろう。
 あるじさまもそれに気がついて、小さく笑っている。

「大包平さんは、もうここにも慣れて、きちんと馴染んだみたいですね」
「あのひとは分かりやすいから。鶯丸様が贔屓にするの、分かるよ」
「そうね」

 そんな大包平様は、この前「主とは三度と会っていない」とぼやいてた。
 あるじさまはほとんど部屋を出ない。曰く、部屋の外は落ち着かないのだそうだ。代わりにここに訪れた刀や近侍には、皆の様子を聞きたがる。そして誰もがあるじさまの知りたがっていることをはりきって話す。

「兄様が今日も寂しそうだ」
「どうしてかしら。小夜くんも、宗三さんだっているのに」

 またあるじさまは、江雪兄様の話だと自ら思いこませて話す。

「宗三兄様の話だよ」

 いちいち言い直さなきゃいけないのは、案外嫌いじゃない。このひとの中に、宗三兄様がいることを教える印なのだから。

「……それでも変わらない。小夜くんがいて、江雪さんがいて、それで寂しいだなんて宗三さんは贅沢なんですね」
「あるじさまは、宗三兄様のことは、嫌い?」

 あるじさまは首を横に振り、気持ちの大事な部分を隠して言う。

「いいえ。大好きですよ。私はみなさんが大好きです」
「そう……」
「嫌ってるように見える?」
「………」
「そう見えるのは仕方が無いかもしれません。私は人付き合いが上手とはお世辞にも言えませんから」

 僕は黙るしかなかった。あるじさまから優しさは感じる。けれど距離も、感じる。




「おやすみなさい、宗三さん」

 廊下の角を曲がった向こうでそんな言葉が聞こえ、僕は足を止めた。
 あるじさまが兄様に夜の挨拶をしている。
 そっと覗くと、あるじさまは湯浴みの帰りのようだった。宗三兄様が首をしっかり傾けないと目を合わせられない、そういう距離にあるじさまは手ぬぐいを持って立っていた。

「あなた……、痩せましたか」

 はっとした。夜の廊下にそれは兄様の声だ。けれど、聞いたことの無い声色をしていた。

 二人が話している場面に出くわしたのは初めてのことだった。出不精のあるじさまに、宗三兄様はいつも腹立たしいと思っているらしく、兄様はあるじさまのいないところでは彼女を悪く言うことも少なく無い。
 僕が話そうとすれば『知りません、あんなひと』と、突き放されることもしばしばだ。

 なのに、いつもとは真逆の様子で宗三兄様は、自分の前を通り過ぎようとしたあるじさまに意識を注いでいる。

「うーん……。そうでしょうか?」

 衣擦れの音。あるじさまは、小さくなった自覚が本当に無いらしく、手首を擦って自分の体を確認していた。

「以前の私が丸かったのかもしれませんね」
「以前のあなた、ですか」
「はい」
「………」

 ふたりは神妙に黙って、しばらく虫の声だけが響いた。

「あの時は、苦労をかけました」
「まああの頃はひどい人手不足でしたからね。僕にもいくつかやらせなきゃ立ち回らないくらいでした」
「はい。本当に大変な思いを……」

 また言葉が切れた。沈黙の間、ふたりは同じ過去を見ているようだった。

「……昔は、なにもかもが手探りで。宗三さんには必要の無い苦労させてしまったことが今も申し訳ないです」
「もう過ぎたことじゃないですか」
「でも……、私がもっとちゃんとしていたら良かったと思うんです。私は、元々口べたなのに。相手が神様たちになって。どうお話していいか分からなかった」
「………」
「けれど今思い返すと、そう悪く無い時間だったんじゃないかという気がします。私たちは、戸惑いながらもひとつずつ、歩み寄ろうとしていたと思うんです」
「それは……」

 兄様はあるじさまの言葉を聞いてどう思ったのでしょうか。一瞬、ふたつの息が詰まる音が聞こえた。

「あの手間ばかりだった時のことを言っているんですか?」

 多分兄様は、信じられなかった。昔のことをあるじさまがまるで良き日々だったかのように語るのが、自分の思い込むあるじさまとあまりにかけ離れた姿だからだ。
 兄様の怪訝そうな声は、あるじさまにとっての冷や水になってしまった。

「……、は、い」
「………」
「すみません……」

 懐かしむ匂いはもう消えていた。
 いつだって、ふたりはこの過去から先に進めない。過ぎ去った日々を愛おしかったと思うのは自分だけだと決めつけて、そして今こそが最良だと思おうとしている。
 お互いに、もう自分自身が相手のことを煩わせなくて良い今を喜ぼうとしている。

 ねえ、あなたは知らない。
 宗三兄様も同じように昔話をしていた。自分と主と、あと数振りだけの本丸ではあのひとは僕に頼らざるを得なかったと、目を細めて語るのだ。
 そして話していくうちに兄様は夢から覚めたようにため息を吐いて、言うんだ。

『もう主の周りにはたくさん刀がいますからね。僕みたいないちいち面倒な刀じゃなくて、もっと気安くて気の合う刀剣男士を好きに選べるんですよ』