朝、街へ降りていこうとする道筋には大きな池があり、そこで必ず見かけるポケモンがいた。やせいなのに人なつっこくて、無邪気に近寄っては、いくらか道を一緒に歩いてくれるその子が私も大好きだった。
ある日、その子は私に贈り物をくれた。なんてことないきのみだけれど、親愛がかたちになって手のひらにのっかったことに、私は言葉もなく感動したのを覚えている。
その子がお裾分けしてくれたそれを、私は焼き菓子に調理してお返しした。クッキーや、ひとくちサイズのスポンジケーキにきのみを混ぜ込んで、いつもの道に持っていくとその子ばかりか、別のポケモンも寄ってきて美味しそうに食べてくれた。あの子のきのみがきっかけで、私は見たことのないポケモンたちと出会った。
その中に、ギラティナというポケモンがいた。
寒気に目が覚めた。極寒の空を飛び続ける艦内はどうしても冷える。
かぶっていたシーツをたぐり寄せて丸まっても、自分の指先が冷たすぎることの方が染みた。
「ん゛ー……」
体が冷えきっての目覚めは良いものと言いがたくて、私は唸りながら起きあがった。ソファで無理矢理寝たから体のあちこちが痛い。
よろよろと起き上がりながら机の上のものを確認する。記憶通りならば、ゼロに言われた資料整理が終わる前に、私は寝落ちてしまったはずだ。……やっぱり終わっていなかった。やばい。私は昨晩の飲みかけのコーヒーを煽りながら資料に手を伸ばした。
「!」
「………」
ずかずかと部屋に入ってくるこの船の主・ゼロから私は顔を反らす。
どうしよう、返事をしたくない。昨日言われたことが今日終わってないとゼロに知れたら、またどんな言葉で何を言われるか分からない。
「、コーヒーだ」
「ひっ」
「返事をしろ」
「は、はい……!」
「何度も言わせるな。コーヒーだ」
「ただいま!」
案外資料のことは何も言われなかった。けれどギロリと睨まれてしまい、途中転びそうになるくらい慌てながら、私はこの艦のキッチンへ逃げ込んだ。
朝の通り道で、きのみを使ったクッキーを食べにくるポケモンの中に、ギラティナというポケモンがいた。
見たことが無く、名前も知らなかったそのポケモン。見た目はおどろおどろしくて、珍しいポケモンなのだとは思った。けれど、人間とは何にでも慣れてしまうもので、ただお菓子を食べにくるだけのギラティナを、私は次第に特別とも思わなくなっていった。
当然のようにギラティナと会い、お菓子をあげてはあっさり別れる。その光景を見たゼロは、私がギラティナを呼び出せるのだと勘違いして、私は飛空艇の上へと連れ去られた。
なお、すぐに私には何も特殊能力などが無いことが分かったので、そのまま解放されるかと思ってたのだけど、一向に艦からおろしてもらえず、今はこの艦の雑用係りになっている。なぜだ。
お湯がわいてきた。やかんの口から立ち上る湯気に手を当てると、ほんのりと暖かくて安堵する。
「あ、コーヒー残り少ない……」
必要なものは確か、ゼロに申し入れたらちゃんと調達してくれるはずだ。ついでに他に足りないものがないかチェックしようと、キッチンの戸棚を開け始める。
ストックがもう無いものをメモに書き留めているうちに、なんだか笑えてくる。
私は連れ去られた身だ。なのに、この艦の今後を気にしているなんて、滑稽だ。
「よく考えたらもう一ヶ月くらいなのかなぁ。……いや、もっと……?」
ゼロの命令を受けながら朝と夜を繰り返して、この艦での暮らしも長くなってきた。正直もう日付の感覚なんて無くなっている。
逃げたいのは山々なんだけれど、ここは飛空挺の中。分厚い窓ガラスの外は雲が吹きすさぶ天空なわけで、ちょっと外に出ればそれだけで凍える。そこから、固い地面に向かって飛び降りるなんてありえない。海にダイブするのもごめんだ、私は50mしか泳げない。結局は、自分のポケモンも持たない私が外に出る術なんて無いのだ。
ゼロのコーヒーと、自分のカップにも温かなコーヒーをいれなおして、私は元の部屋に戻った。
戻ると、ゼロは少し崩し気味の姿勢でマシンに向かっていた。
私がこの艦へと連れてかれた時、ゼロはとあるマシンの開発を一心不乱に行っていた。ゼロが言うには「反転世界へ行き来する能力を得る機械」を、作っていたらしい。今はもうそれも済んで、ゼロは今、ギラティナを捜索しているという。
反転世界と私たちの世界を行き来しているギラティナを見つけるのは簡単なことじゃないようで、長丁場にゼロも疲れを覚えたらしい。
だから、私の目の前にいるのは、今までで一番気の抜けたゼロだったりする。
「遅くなりました」
そっとサイドテーブルにコーヒーを乗せる。ゼロは横目でそれを見ると、何も言わずにまた画面に見入ってしまった。
私もさっきまで寝床にしていたソファに座って、熱いうちにコーヒーを飲む。うん、やっぱりいれたては違う。
ちらりとゼロの背中を見ると、彼もコーヒーを飲んでいた。
「……なんだ?」
めちゃくちゃ視線を送っていたのは、背中で気づかれたらしい。ゼロが問いかけてくる。
「いや、ちゃんと美味しくなってたらいいなぁ、って思いまして」
「そんなことを気にするのか」
「気にしますよ」
私はここに拉致されて、邪魔になったらいつだって証拠隠滅のために空に捨てられてもおかしくない身だ。なんだかんだで私の命はゼロが握っている。
ゼロはなんだか取り込んでいるようだし、そんな彼の邪魔になって、不要だとお空にポイされたら。考えただけで体が震え上がる。
まあ、そんな彼のご機嫌とりをするのは、恐怖からだけでは無いけれど。
「コーヒーくらい……インフィさんに頼めば、間違いないのに」
「インフィは今忙しい」
ぼそりと本音をつぶやけば、ぴしゃりとゼロに弾かれた。
この飛空挺に乗っているのはゼロと、私と、もうひとり。インフィさんという、バーチャル秘書さんみたいなのがいる。
機械だけど、なんでもできてしまう。現実離れした容姿のこの女性に頼めば、ほとんどのことが叶うのだ。もちろんゼロからの言葉じゃないと動いてくれないけれど。
「計算能力のほとんどをギラティナの次の出現ポイントを探し出すのに使わせている」
「そうですかそうですか」
「……なんで二度言うんだ」
「いいえ、別に」
私はコーヒーに口をつけながら考える。
ゼロのことだからコーヒーの自動化だって、絶対にやっているのに。毎朝のように私にわざわざ入れさせる。
この前のゼロは、「インフィはそんなことをさせるためのプログラムじゃない」と言ってやっぱり私にコーヒーをいれさせたんだったな。
空の中に閉じこめられ、素性も知らない男に命を握られ、それでも私はここに落ち着きつつある。
馬鹿だな、と思う。インフィさんに言いつければできてしまうことを、わざわざ私に言うゼロに、私は自分の居場所を見いだしているなんて。この男は、反転世界に執着するあまり、犯罪まで犯すことを戸惑わない男なのに。
コーヒーカップを机に置くと、広げっぱなしだった資料が目に入った。
さて私はどうしよう。ゼロに昨晩命じられた資料整理を終わらせるのが、このひとの機嫌を損なわない、一番の方法だろうか。
私はそっと、机の上のものをかき集めた。なんだかゼロはお疲れのようだから、私が部屋を変えて、ひとりにさせてあげようと思ったのだ。
艦内のすみっこでささっと終わらせようと、私は立ち上がった。
「おい」
「は、はい」
「私の言いつけが終わっていないのに、どこへ逃げるつもりだ」
「逃げるって……」
どこへ逃げるつもりって、そもそも私はどこにも逃げられないのに。ゼロの勝手な勘違いに戸惑っていると、背中越しにギロリと睨まれる。
「無駄に動くんじゃない、早くやれ……!」
「はい!!やりますハイ!!!」
ゼロの声と目には凄みがある。立ち上がっていた私は即座にまた座り、今までにないくらい高速で私は資料を元通り机に並べた。
こ、こわかった……。もうすたこらさっさと逃げてしまいたいくらい怖かった。けれど、ここにいろと睨まれてしまったのだから仕方がない。
居場所を変えないまま、私は背筋をピン、と伸ばして資料整理を再開した。