もうひとつきは経ったのでしょうか、私が新しいお仕事に就いてから。
 それは私にとって、渡りに船の求人でした。
 かなり広いお屋敷に、住み込みで、そこの主人であるおひとの事務処理も含んだお手伝い、と求人票には書いてありました。明るく、アットホームな職場とも。お給料も高すぎず、低すぎない。つまりとてもちょうどよくて、安心できるお賃金が出るのです。
 住処の賃貸は立て替えで無くなると言われ、勤め先の会社はある日突然無くなってしまい、どうしたものかと非常に困っていたところだった私は、これはきっと神様が私に慰めをくださったに違いないと思い、さっそく申し込んだのでした。
 この求人は、私の身につくづく合っていました。住む場所ができることもそうですが、お仕事の内容こそが、人並みのことはできてもそれ以上ができない、良くも悪くも無難な私に適していると思われました。さらに良いのは、主人となるひとのお手伝い。それは、お仕事上で接するひとの少なさを示していました。どうしようもなく人見知りする私でも、たったひとりの主人となるひととだけ会話し、お仕事ができるのなら、それはなんて有り難いことなんだろうと思ったのです。

 現実は、私の想像したものとあまりに違いました。広いお屋敷に住むのは、雇い主となる審神者様だけではなかったのです。




ちゃん」
「はっ! ひ……!」
「買い置きの砂糖ってもう無かったっけ?」
「え、さ、おさ……! えと! あ、あああし、あした……!」
「ん、わかった。よろしくね。荷物が重くなりそうなら僕が付き合うからね」

ー、このバケツ危ないから持ってくよ。水は捨てない方がいい?」
「あっ、か、しゅうさん! あ……、す、その……、ご、ごめ……」
「いいって、いいって」

殿。お忙しいところ申し訳ないのですが、少々よろしいでしょうか」
「……っぁ、は、はい……」
「鯰尾が棚の菓子を主が貴方にとっておいたものと知らずに食べてしまったようです。鯰尾には遠征帰り後一番に謝らせに行きますが、まず私から。申し訳ない」
「い、いえ、そそその、………、は、い……」

さんっ!」
「っ……!」
「あのっ、鶴丸さん知りませんか? 今途中場所換え有りのかくれんぼをしているんですよ!」

 きらきらとしたまなざしを向けてくる秋田藤四郎様。朝食の後からは鶴丸様は見ていない。私が何度も首を振ると、秋田様はそうですか、と真剣な顔であたりを見回します。

「ありがとうございます、さん!」

 無邪気に笑んで駆けていく秋田様を見送って、はぁと私は肩を落としました。
 無事じゃないかたちだけれど、秋田様とのやりとりが終わって私はぐったりと座り込みそうです。そんなこと、している場合じゃないのに。


「ひっ!」

 もう誰もいないと思っていたのに後ろから声をかけられておもいっきり飛び上がってしまった。
 後ずさりながら振り返ると立っていたのは髭切様でした。

「怖がる必要は、なんにも無いんだけど」
「す、すみませ……」

 そう言われて泣きそうになる。不快にさせてしまっただろうか。そう思うとますます緊張がせり上がり、ドクドクと耳の後ろがうるさくて何の音も聞こえなくなってきました。

 住み込みで働くことになった本丸には、確かに主人となる方がいました。本丸に住む人間なら、この方と私の二人きりです。けれど、本丸には刀剣男士と呼ばれる何十もの付喪神も同じように暮らしていたのです。
 そう、先ほど私に代わる代わる声をかけて来たのも神様です。
 話しかけてきた神様、助けてくださいと願っても、この目の前に立つ方も等しく神様だったりするのです。

「主が呼んでいるよ」
「はっ、え……」
「だから主が呼んでる君を、呼びにきたんだ」
「す、すみません……」

 消え入るように、というかむしろほとんど声になっていない声で「すみません……」と告げ、私はそそくさと審神者様の元へと向かいました。



 開いていた障子から半身をのぞかせると、この本丸で唯一の人間である審神者様から声がかかります。

「ああ、待っていたよ」

 遅くなってしまって、申し訳ありませんでした。そう思い頭を下げると、主様は「かたいかたい」と苦笑いをする。

「髭切がそっちに行ったかい」

 頷く。

「そうか」

 主様は書類を選別しながら気安く言葉を投げかけてきます。

「あれは結構君が気に入ってるみたいでね」
「ぇ……」
「前も言ったかもしれないけれど、彼曰く、"ぴんと来た"らしい。持ち前の勘で、君がここに来るべき魂だと見たのだろうね」
「………」
「まあ確かに、とんとん拍子でさんに決まってくれて、こちらは助かっているよ」

 私は首を横に振りました。何度も何度も。
 付喪神のみなさまとまともに話せなくて、何を助けられているのか、私には実感などかけらもありません。

「そう卑屈にならないでおくれ。……おまたせ。じゃあさん、これと……、これも。政府の方へ頼むよ。それぞれの送り先はこっちの紙にまとめて書いて置いたから、この前教えた通りに送ってくれ。明日までにな」

 小さく「はい」とうなずき、紙の束を受け取りました。

「あ、さん! すまない、もうひとつあった。これも頼む」

 束の上に重ねて乗せられた、小さな封筒。表には"退職願"と書かれている。はっと息を飲んだ。

 そうか、考えてみれば当たり前のことだ。
 私が雇われる前に、ここで働いていたひとがいる。

 書類の一番上を滑る退職願を、私は不思議な心地で見つめながら廊下を歩きました。
 このひとは、どんな人物だったのだろう。きっと私と違ってきちんと付喪神様と話せていたのだろう。引継はしてもらえなかったけれど、お仕事の後に雑なところなど無かった、まじめなひとだったのだとも思う。
 ならばなぜ辞めてしまったのだろうかとも考えは巡って、私は「君、君」と話しかけられていることに全く気づけなかったのでした。

!」
「はっいぃっ!!」

 耳元で、大声で名を呼ばれ、また私は飛び上がってしまった。
 驚きながら振り返ると、膝丸様が立っています。それもすぐ後ろに立っていらしたので、にゅうっと背が高く感じられます。てっぺんから、しかめられた眉と左目に見下ろされます。
 膝丸様が私に何の用件だろう。身構えていると、膝丸様はまた深く眉間に皺を寄せて犬歯の隙間からうなるように言いました。

「君のことを呼んでいた」
「す、す……っ、すみま、せん……」
「君は……、この仕事を辞めると言うんだな」
「え……、そん……、え……?」

 急過ぎる言葉でした。始めたばかりの仕事を辞めるなんて、考えたこともありません。確かに、私がここにいても良いと思ってくださる方なんて、いないかもしれませんが。
 そこまで考えると急につん、と鼻の奥が痛くなる。私が頑張りたいといくら願っても、状況が許さないことだってあることは前のお仕事で承知済みなのでした。

 自分が泣きそうになっていることが、情けなく思え、私は下を向きました。

「答えられないのか」
「……っ」
「否と、言わないのだな」

 はあっと大きなため息が降ってきて、私はいっそう胸を詰まらせます。
 こうやってすぐ、頭の中をこんがらがせてしまうから、私はいつでも上手くしゃべれない。いよいよ自分がふがいない。

「どうした。根性が続かないか」

 根性無しと言われてるのなら、その通りです。

「体が辛いのか」

 楽ではありませんが、無理な大変さはありません。私に余裕が無いことは認めざるを得ません。

「主となにか、行き違いを起こしてはいまいな」

 あの聡明かつ穏やかな主様に、間違いが無いことは膝丸様だってお分かりのはずです。

「嫌なことがあるから、出ていきたいのか」

 その反対です。みなさんは優しい。だからもっと上手に向き合えたらいいのにと、挫折と後悔の毎日ですし、むしろ私が嫌な思いをさせてないか、毎夜、寝る前は怖くてたまりません。

「何か言ったらどうだ」

 答えは心の中に在るのに、全てがつっかえる。
 のどが痛いほどひきつりました。せめてこの目に張る水が退いてくれたら、膝丸様の方へ顔を向けられるのに、こらえるのでやっとです。
 はあっとまた、ため息が降ってきます。

「……嫌なことがあるなら俺に言え」
「………」
「君はすぐに一人で思い詰めそうだ。そういう顔をしているからな」

 それまでは膝丸様は、私を叱っているのだと思っていました。私の情けなさに怒りを覚えているのだと。
 けれど新たに降ってくる言葉は、全く怒ってなどいませんでした。

「主に伝えにくいことがあれば俺が言う」

「恐れるものがあるなら、俺が切ろう」

「愚痴吐き相手が必要ならいつでも呼べ」

「だから、この退職願は一度、待ってくれ」

 退職願と言われて、一瞬何のことかわからなかった。
 けれどうつむく私の目の前には、確かに"退職届"なるものがあるではありませんか。

 ようやく繋がりました。膝丸様は、これを見たから。だから私が辞めるんだと思ってあんなお話を。
 なんだ、この神様はずっと勘違いをしていたんだ。それであんなお話を。そう思うとふっと気が緩んで笑いが出てしまって。ついでにこらえていた涙腺も緩んで、ぼたぼたっと涙の粒が退職届の文字を滲ませました。

「なっ……、泣くな!」
「あ、は……、その、……すみ、ませ……」
「ま、待ってくれ。拭うものを持っていないんだ」

 慌てる膝丸様を目の前にして、またなんだか分からない笑いが出て、涙も一緒に溢れます。きっと不可思議な泣き笑い顔をしているでしょうに、膝丸様は必死に私をあやそうとしてくださいます。

「わ、わたし、だいじょ、うぶです……」
「大丈夫に見えないんだが」
「も、そんな、お、おお構いな、く……」
「断る。君を構わなければ、君はここからいなくなるんだろう」
「そん、な……」

 膝丸様はいちいち落ちる涙に翻弄され、途方もなく言いました。

「君がいないのは、嫌なんだ……」

 私がここに来るべき魂だった? そんなことをおっしゃったのは誰だっけ。ああ、髭切様と主様でした。その言葉は、今も信じられません。
 ここに来て、こんな女の身に受け止めきれない優しさを体に浴びるために来たなんて、信じられません。

 私をこんなにも見守ってくれる存在がいて、折れそうとみるや追いかけて労りの言葉をくれて、まだ互いに知らないことも多いのに私にここにいて欲しいとまで言ってくれる。
 ならば、私はなんのためにここにいるのでしょう。ひとつ分かるのは、泣いている場合では無いということ。なのに泣いても泣いても、まだ泣けてしまい、膝丸様の手が飽きることなく私の涙を拭うのでした。