「主って、どーして安定を避けるの?」
清光のあんまりストレートな言い方に、思いっ切り手の中の湯呑みが滑った。私が「あっ」とか間抜けな声を出してる間に、ぬるいお茶が机の上をのびのびと広がっていく。
「あー、ごめん。タイミング、間違えた」
あちゃあ、と言いたげに、でも落ち着いて清光が台布巾を持ってきてくれる。
「主、服とか濡れてない?」
「だいじょうぶ」
清光が面倒見が良いのは私とのつき合いがなんだか長くなってきたせいだろう。なにせ彼は初期刀だ。私が一番長く迷惑をかけている刀剣なのだ。
「安定のことだけど」
「うん」
「……避けては、無いよ?」
「じゃあ自分から近づかないだけって言うつもり?」
拾い上げたはずの湯呑みをまた机にゴトンと落としてしまった。中身はもう全て雑巾に飲ませたので大したことにはならなかったが。
清光は何かと察しが良い。多分これは彼が元々持っている、私となんの関係がなくても発揮される能力だ。視線をあえて外して清光がいう。
「主が安定のこと、気にかけててくれたの、俺嬉しかったんだけどな」
「ごめんね」
「ううん。責めてないよ。責めてもしょうがないかなって思うし」
私だって安定のことが特別に気にかかっていたのだから、元の主が同じだったことを差し引いても、清光も安定のことが気にかかる存在なんだろう。
安定は本当は幸せものなんだなと思う。こうして見守ってくれる存在がいるのだから。
「なんだか、近づくのが、恐くなっちゃった」
それは、安定のことを案じている、察しの良い清光だからこそ口に出せたことだった。
「って言ったら、清光に伝わるかな……」
おそるおそる、目線だけそろそろ動かして反応を伺っていると、清光は数秒ぽかんと目を丸くして、それから綻ぶように笑った。
「あー、はは、そっか。分かった。主は安定のこと、全然嫌いんじゃないんだ」
私の言葉が出なくても、私の、一番つき合いが長い刀剣男士はいろいろとお見通しのようだ。
「嫌いじゃないです」
「うん、なんか、すっきりした」
一転して機嫌のよくなった清光。一方わたしは自分の放った言葉の重みをずしりと胸に抱えていた。
嫌いなんじゃ無い、そうじゃないんだよ。
俯かずにいられなかった私には気づかず、清光は桜舞わせるような笑顔を浮かべると、「お茶、いれなおしてくるね」と声を弾ませて出ていった。
当たり障りは無いけれど、どこか近づかないようにしていて、しばしば素っ気ない態度をとる。そんな態度を先にとっていたのは私じゃなく、大和守安定の方だった。
出会った時から心はどこか別の場所にあって、柔らかくこちらを突っぱねる。だけど時々はっとするような視線を向ける彼のことは、ずっと心の中に引っかかっていた。
そんな安定に、私は近づいて、心を寄り添わせる術を探した。主として当然の行いだと思っていた。休憩の話相手に選んでみたり、内番の様子を見に行ったり、些細なことばかりだけれど、私なりに安定を知ろうとしていた。
そうやって、軽い気持ちで近づいていった先で、私はゆっくりと知っていった。安定が求めるものの重さと、それを満たした先の宿命を。
「主」
「!」
「入るよ」
また、手が滑りそうになった。湯気を立てたお茶を持ってきてくれたのが清光じゃなくて、安定だったからだ。
私は上手く驚きを隠せないまま、わたわたと机の上を空ける。そこに湯呑みを置いた安定の、覚めたような表情は私と対照的だった。
「はい」
「あ、わ、安定、ありがとう」
「別に。これくらいどうってことないよ」
「でも、嬉しい」
ぶっきらぼうな言い方。でもそんな安定に私はもう慣れてしまっていて、むしろこうやって甲斐甲斐しいたちでは無い安定が世話を焼いてくれたことに喜んでしまっている。
彼の持ってきた湯呑みを手のひらに抱き込むと、その温かさにほだされた。
「ありがとうね、安定」
立ち上る緑茶の香り。一口飲むと薄めの優しい味で、ほんのりと甘くて、私は気分良くしていたのに。
粗野に見えて、本当は薄氷のようにあまりに頼りない支えの上になんとか成り立っている、危なっかしい生き物。私にお茶を持ってきてくれた安定は、そういう存在だった。何か、私の何かが安定の支えを砕いてしまったらしい。だって突然、決壊したように安定が泣き始めてしまったのだから。
「や、安定……?」
立ったまま、唇を噛み締めて、お盆を掴む片手は力が入りすぎて白く。きっとその声をつっかえた喉は、苦しみに締まっているのだろう。俯いた顔から大粒の滴が落ちてくるのを、私は下から受け止めた。降り始めた雨を受けるように、手の平を伸ばすと、そこにもぽたぽたと滴る。
「清光から何か聞いた?」
「………」
「お茶を持ってきてくれたのだって、清光に言われたからでしょう」
「……"嫌いじゃない"って、なんだよ」
そう言って顔を歪めるとまた雨水が降ってくる。思わず苦笑いが出た。きっと安定は知らない。
「泣かないで、安定」
震える固い拳にそっと手を伸ばし、肌と肌がちゃんと触れた時に安心して。けれどその刺激がまた安定を支えていたものを崩してしまうんじゃないかと不安になる。ああ、壊れものに触れるように、というのはこういう瞬間を言うのだと思った。
私の指先が跳ね退けられることもなく受け入れられたのを確かめて、今度は包むように手の平を添えた。
「あのね、清光には嫌いじゃないって言ったけど、私は安定が大好きだよ」
「……っ」
「なんか、そう言い切るのに、勇気が必要で。ごめんね」
謝ると、いっそう安定の顔が歪む。唇が歯をたてたところから弾けてしまいそうだ。
「おいで」
もう、胸の内で暴れる苦しみで、自分の身を傷つけて欲しくなかった。子どもを誘うみたいに言ってしまったけれど、飛び込んできた体は青年のそれだ。安定の腕に負けないように、私もあらん限りの力できつく抱きしめる。それでも、彼が縋りついてくる力の方が強く、私の体をきしませた。
首の近くに安定の広がりやすい髪と、熱い息が当たる。それから涙に腫れた頬。全てを受け止めると、自然と大好きだ、大好きだという言葉が湧いた。
「安定、ごめんね。泣かないで」
「うあぁっ、ああ」
「ごめん、ごめんね。大好き」
私の胸に湧くこの愛着は、きっと安定の元の主が彼に抱いた思いと似ている。
"沖田くん"も、安定が大好きだったと思う。刀である大和守安定に注いだ愛情はきっと私よりも曇り無いものだったことだろう。けれど、彼の愛が失われた傷が今も安定に残っている。
沖田くんと私。性別も違うし、剣の才能も無いし、生まれた時代も随分違うけれど、私と彼は時々似ているところがある。例えば、同じ人間であることにかけては、同じだ。
安定のことが、大好きだ。もういらないよって言われるくらい、この好きを注ぎたいだなんて思う。けれど、同時に怖くなる。
私がこれ以上、どんなに彼を大好きになっても、それとは関係なくこの身がいつか土に還る。絶対に。きっとその時、安定という優しい神様は私の存在を、柔らかい胸の内で傷にしてしまうのだろう。
私は大和守安定を新たに傷つける存在にはなりたくは無い。だから自分の気持ちから逃げていたのに、大切にしたかった存在は今、私に覆い被さって泣いている。
「泣かせたの、やっぱり私かな」
「……ぅ、っく……」
「否定しないね。うん、そうだよね。ごめんね」
「主なん、て、大嫌いだ……!」
「うん……」
安定が、私なんかを必要としないでいられる彼だったらよかったのに。けれど、痛みを知らない彼だったら、私が引き寄せられることも無かったんだろう。
「私はどうしようも無く安定が好きだよ」
「だ、っいきらい、だ」
「大好きだよ」
傷に薬を塗り込めるようにそんな言葉を繰り返す。本当は毒の言葉かも知れないけれど、ただ目の前の彼を慰めるために私は何度も繰り返した。
悲しみは続くかもしれないけれど、嗚咽はなかなか続かない。私に縋ったままだが、安定はもう静かに黙り込んでいた。
私の肩にあごを乗せて脱力していて、泣きつかれたようにも見えた。
泣き叫ぶことに疲れた安定は、私の肩越しでどんな顔をしているのだろう。疲れきっているくせに、私を抱きしめる力はまだ緩まってくれなくて、その顔を見ることは叶わない。
「主……」
「なに?」
「僕のこと、愛しても良いし」
「うん」
「愛さなくたって、良い」
「うん」
「もし、愛してくれるって言うなら、」
そろりと体が離れていく。熱くぴったりと重なっていたものが冷えて、ああ私たちはやっぱり別々の生き物だなと思わせられる。
「僕のことを一番愛してよ」
私の肩でこすった目で睨まれても、あんまり怖くない。
「安定、それはね、お安い御用です」
愛情ならもうここにある。ただそれに蓋をしていただけ。今はもう、蓋をした隙間から溢れ出そうとしている。
短い命の私がいたずらに、彼に愛を伝えるべきじゃないんだと臆病になっていたのに、彼の涙を見たら全て押し流されてしまう。目の前の溢れる悲しみを拭わないでいることの方が苦しくて、私の臆病なんて、抵抗にもならなかった。
かなわないなぁと思いながら膨れる頬を撫でて、その上の、雨上がりの瞳を見つめた。