俺の顔を見るなり目を丸くする。硝子玉のような目。
 なぜ本丸で一人だけが持っている本物の角膜、光彩、水晶体、硝子体、つまり眼球がそう作り物めいて見えるのか、"本当"というもんを失っているのか。俺が常々不思議に思っているそれが驚愕に揺れている。だから、言い放ってやった。

「何をそんなに驚くことがあるんだ?」

 彼女のか細い喉が、ごくりと上下したのが見えた。生々しい動きが気持ち悪いようで案外好きだなぁと思考が迷走するのを自覚しながら言葉を接ぐ。

「昨夜あんな散々な罵りあいをしたのに、俺が何事も無かったみたいにきみに接していることか? 何も無かったとは俺も思っちゃあいないが、俺は生憎ときみのように後ろめたく思ってないのさ。むしろ昨晩の俺は何も間違っちゃいなかった。言ったことへの後悔はかけらも無いね。きみの心にさざ波を立ててしまったことは気の毒に思うが」

「おかしいのは貴方の方よ、鶴丸。私に、現世に帰れだなんて」

 の言うことも、何も間違っちゃいなかった。そう、昨晩だ。まだ一日も経っていない。俺は故郷に帰れと、室内で冷たい茶を啜る彼女の美しい横顔へ叩きつけたのだった。

「世迷いごとでしかない。本丸の誰に聞いてもそう答えるはず。私を追い出そうなんて」

「まあ、そうだろうな」

 作戦の要(かなめ)、俺たちの要である彼女へ、出ていけ、早々に、一刻も早く出て行けとと言いつけたのだ。夜にも目立つ俺だから、まあ闇討ちには気をつけねばならないかもしれない。肩をすくめると、は怒りに震えた息を吐いた。彼女は冴えたる剣のごとく眼孔を鋭くさせる。彼女も反論できない女では無いのだ。

「立場が悪いのは貴方よ。私は、穏便に済まそうとしたわ。聞かなかったことにしようと努めた。そのやりとりだって周囲に聞こえていたでしょうに貴方と来たら大声で騒ぎ通して。本当に頭がおかしくなったのかと思ったわ。結局は居合わせたもの以上に皆に知られて、非難の目を浴びて少しは頭も冷えたかと思ったのに、まだ騒ぐと言うの」

「頭の沸いた発言じゃあ無いからな、冷やす頭も無い。意見だって昨晩と変わらないぜ。俺が言いたいのは、"きみはそれでいいのか"ってことだ」

「……埒があかないわね」

 深いため息とともに、机に居直る。今日のきみの髪も触りたくなるなと、ふざけたことを考えながら俺もまた苛立ちを覚え始めていた。
 まただ。彼女は感情をむき出しにはしないで、審神者の仕事とやらに逃げた。

「またそうやって、きみは仕事に逃げる。だがな、俺はきみにどこまで言っても囁いてやるつもりだ。ああ俺はきみの呪いになってやろう」

 質の悪い呪いだが、俺の声が思う以上にきみに刺さっている手応えがあるから言えたことだった。それでいいのか。きみは帰るんだ。叩きつけた言葉が消えていないからも未だに怒りを露わにするのだ。

「そうじゃなくてもきみの虚勢がが長く続かないのはお見通しさ、だからーー」

「鶴丸」

「何だ?」

 冬の夜に浸した鉄のような、冷たい声が告げる。

「遠征任務よ」

「……ああ。遠征。いいね、すぐに行こうじゃないか。きみにまた小言をいうためにな。すぐ発てば帰りも早いだろ。いいさ。俺はきみに使える刀剣男士だからな。役目は果たそう。俺もきみに種は投げた。ちゃんと、自問自答してくれ」

 返事は無かった。彼女は背中だけを向けて、それ以外をくれず、俺を拒絶した。
 装束を整えて部隊に加わる。行く先を見ると見事に丸一日を潰す遠征が組まれていて、けれどしっかりと成功させるための面子は揃っているのだから、彼女のきまじめさに笑ってしまった。

 出発してまもなくだった。首を大きく傾げながら鯰尾藤四郎が、空気を打ち破るように聞いてきた。

「ほんと、鶴丸さん。なんであんなこと言ったんですかぁ?」

 きっと皆も聞きたがっていたのだろう、周りの意識が大小なりともこちらを向けられる。

「なんだ、鯰尾? すまんが、苦情は受け付けてやれない」

「苦情じゃないです、ただの質問ですよ! 主さんに現代に帰れだなんて、普通言えないじゃないですか。俺たち刀剣男士には特に。だけど鶴丸さんは主さんが憎しで言っているように見えないですし。だったら相応の理由があるんじゃないかと思いますよ」

「悪いが鯰尾、お前の期待には応えてやれない。大した理由は無いさ」

 鯰尾に対して遠慮や、隠し事をしたくて言った方便では無い。大した理由は無い。主がそうすればいいと思ったから、俺は帰れ、本丸から出て行けと言っただけだ。

 出来すぎている主を、どこか嘘だと思い始めたことにきっかけは無い。はなから、完璧すぎることが俺にとっては嘘くさかったのだ。
 あの子は本当に優秀な審神者だ。出会った時から変わらない。気丈だなんて健気さも見せないくらい達者に俺たちをまとめあげるのだから、何が彼女を駆り立てるのだろうかと違和感を覚えながらも感嘆していた。
 という女はきっと嘘をついているか、完璧な主を演じているかどちらかに違いないとは思い至っていたが、それをつつくつもりは無かった。何せ、彼女なりに楽しそうにやっている。時に嘘を選ぶ、虚勢を張る、それもまたひとなのだ。だから俺は野暮なことは言わないつもりでいたし、あの隙の無い姿が彼女の頑張りの結果なのだなと思うとをいじらしいとさえ感じ、胸中で情を育てていたのだ。とこんのすけのやりとりを聞くまでは、そうだった。

『そう、末期の』

 枯れた草花のような声を、最初はあの子のものとは思えなかった。襖の隙間から覗けばやはり後ろ姿ばかりは俺が常々驚かせてみたいだった。

『このひとの近況をもう私に知らせないで。どうなろうと、知ったことでは無いもの』

『婚姻を約束した間柄と聞いてますが……』

『そうね』

 飛び込んできた会話に目を見張った。主には良い相手がいたこともそうだが、相反した色の無いの声色にも驚かせられた。

『私は審神者よ、ここの主よ。歴史修正主義者と戦う前線を担っている。昔馴染みだろうが婚約中だろうが関係無い。ここを離れるわけには行かないのだから、私を惑わす情報は、必要無い。私は審神者よ、刀たちのためにいるのよ』

 彼女が嘘をつこうが虚勢を張ろうが、それで彼女を嫌いになることは無かった。嘘がなければ成り立たない、か弱い彼女に愛しささえ覚えていたというのに。


 無難な采配のおかげで難無く遠征任務を終えて戻った俺は今、本丸の誰もいない勝手口で主を見つけ、間抜け面を晒している。

「……こりゃあ、驚いた」

 主が出かける支度を済ませて立っていた。ここから出ていくのかと期待混じりの目線を、少し大きな荷物に走らせる。

「間が悪かったか。今なら目を瞑るから。行ってくれ」

「いいえ。貴方を待っていたのよ鶴丸。結局、あなたの言う通りになってしまったから、嫌みのひとつでも言わなくちゃ気が済まないと思って」

「そう、か」

 言い出しっぺは俺だ。彼女を散々な言葉で責め立て、それでいいのかと問いかけたのは俺だ。だというのに彼女がいなくなる現実に直面するとすでに寂しさがやってきている。

「やっぱり、貴方が言っていたことは間違っていると思う。そそのかされて、恋人のために任務を投げ出そうとしている私も、間違っている」

 やっぱり恋人だったか。まあこの主を一目見て可愛くて仕方がないと思ってしまう男がいるのは不思議では無い。眉をしかめているとこもなんだか色気があるものな。愛をくれ、愛し返している男、それも人間の男が主にいたことがはっきりと分かってしまい、俺は、ははとだけ笑った。

「間違っていたって、いいだろ。きみにとっての間違いじゃなけりゃあいい」

「………」

「行けよ、。細かいことや余計なことを考えるのは今はやめろ。帰ってくるなんて約束もやめよう。振り返ってくれるな。きみはやりきることだけを考えろ。俺だって、きみを待たない」

 嘘だ。俺はきみを待ち続けてしまうだろう。人間の身で新たに知った感情を捨てようとしても振り切れる気がしないんだ。俺は永く苦しみそうだという予感がある。悠久の時、この朽ち切れぬ身を持って、彼女が再び姿を見せるのを待つだろう。

「だからきみも、俺が出迎えるだなんて思うな。俺がきみを忘れるように、きみも俺を忘れてくれ」

 また嘘だ。きっと忘れられない。きみに何度も触れたいと思い、押さえつけたが故に育ってきた感情だ。会いたいのに会えないとくれば、きっと限りを知らないくらいに膨らんで行くのだろう。

「最後まで自分で考えて、自分の本音をちゃんと見つけてやれ。それを成してくるんだ。自分を信じろ。きみならやれるさ。それから、それから……」

 言いながら気づいていた。励ましの言葉を続けている限り、はここから出ていけない。本当に彼女が現代に戻ることを望むのなら、言うべきことはひとつなのだ。

「……さよならだな、

「ありがとう、鶴丸」

 俺が散々けしかけたせいか、彼女は駆け足で本丸から出ていき、その姿を遠く小さくさせた。
 ああ、これから長くなるな。何百年も生きてきたが、きっとこれからは一層長く感じるのだろうな。

 何も無かったかのようには振る舞えなかった。とぼとぼと、子どもの歩みで屋内に戻ると声をかけられた。

「あんたはそれで良かったのか?」

 大倶利伽羅だった。伽羅坊はすぐ近くに立っていて、気づかなかったことが情けない。と言いながらもあまり自分を詰る気力も湧いてこない。おおかたこれが、虚ろというものなのだろう。
 今俺はそれで良かったのかと問われたか。いいに決まっている。
 審神者であることや、俺たちを言い訳にさえしなければ、俺はきみの危うさを受け入れて刀を振るっていただろうに。俺やその使命を、きみ自身を追いつめるために、その嘘に使われたく無かったのだ。それは俺の矜持でもあった。どんなに寂しくとも、俺もその矜持を守ったのだ。









 一月ほど経って、は帰ってきた。恋人の最期を看取って、小さな葬式も上げて来たと言う。天涯孤独の男だったらしく、喪主はだったらしい。
 身よりの無い私に家族になろうと言ってくれたひとだった。私はまた独りになってしまった。けれど何よりあの人の最期を孤独にさせずに済んで良かった。
 ぽつぽつと語り、泣き腫らした目を細める主。罰則規定を確認している手が進んでいない。

 伽羅坊の問いに、今も「これで良かった」と言うことができる。を突き放せるうちに突き放せて良かった。もう二度目は彼女を手離せそうにない。
 以前よりも小さく思える彼女を抱きしめたくて仕方がない。彼女は寄り添って死に向かおうとしていた片割れを失ったばかりだ。そう分かっているから天気雨の顔に指を伸ばすだけにとどめた。きみの涙を指に受け止めることができる。一度きみを失った俺だ。今は、これでいい。



(鶴丸で、より子さんの「それでいいのですか?」をテーマに、というお題でした。どうもありがとうございました!)