二礼、二拍手、一礼。けれど私の手を合わせる時間は、すぐ横を流れて行く参拝客よりずっと長かった。
目を閉じてこの社の主へ唱える。
自分が審神者であること。想いを持つ付物神たちが人間の体を得る、その手助けをしていること。彼等の中に悪い物などいないこと。今日も、私に連れ添う形で一振りの刀が貴方の領域に入ること。
鯰尾藤四郎は決して、悪い存在では無いから。どうか束の間の滞在を許して欲しいこと。それを何卒と願って、目を開けた。
「お待たせしました」
少し後ろには、先に参拝を終えた鯰尾藤四郎が、私を見守るように立っていた。
「いーえ。主さん、どうせ本丸のみんなのこと、お願いしてくれたんですよね?」
「そう見えた?」
「最初は何お願いしてるかなーって見てたんですけど、あんまり長いからこれは主さん、自分じゃなくて誰かのことを考えてるなって思ったんです」
誰かさんのことは考えていた。けれど今日は、鯰尾藤四郎のことばかりを願っていた。だけど私は、
「そんなところ」
と言うだけに留めた。
今日の鯰尾藤四郎は嫌に優しい。彼は、石階段の数段を降りるのにも、片手を繋いで私を支える。
元から自分の不安をこらえて他者を勇気づけようとするような、優しく、明るい気質だ。けれどこの手はどうしたのだろう。彼の気質とは違う気がする。私は鯰尾藤四郎の緩く握る手を見ているが、彼は、境内の、明るい方へ眼差しを向けていた。
「にしても、立派な社ですねー。人も多いですし!」
私も頷いた。柔らかい光の差す境内は鳥居からの道幅も広いし、絵馬掛け所も真新しい絵馬で溢れている。山椿の、硬質な葉の影には無数のおみくじが結ばれていた。
人も相応に多い。ちょうど祭事の頃だったようで拝殿の前はたくさんの屋台が出ていて、そのおかげだろう。
お昼時と重なって、屋台がどれもかぐわしい香りを炊きあげて、客を誘っていた。僅かに寒い昼間に人々が肩を小さくさせて、湯気の立つ料理を見ている。何百人もの人々が、だ。
平和だ、と思った。
久しぶりにこの空気の中に身を投じて、そうだった、と思い出していく。平和というものはこういうものだった。呆れるほどの、その存在がどこか無神経に信じ込まれている。
この境内に広がるのは、本丸に在るような、束の間の平和じゃない。
「良かった」
平和ボケとも言える空気に充てられ、私はほっと一息をついていた。けれど、見ると鯰尾藤四郎の方がさらに安堵した様子だった。
「顔色、随分良くなりましたね」
「………」
そうなのだろうか。自分が今まで本丸で、どんな顔をしていたのか分からない。ただ、今は少しだけ気が緩んでいるとは思う。
逃げても状況が変わるわけじゃないから。私は大丈夫。そう何度も言ったのに、鯰尾藤四郎はたった一度お決まりの文句を晴れやかに放って、私を連れあの本丸を抜け出してしまった。
『なんとかなりますって!』
そのまま、私たちは祭りの雰囲気に引き寄せられるように、この神社にやってきたのだ。
「心配をかけていたのね」
「心配っていうか。俺はいつだって主さんが気になっちゃうんですよ」
「そんなことしてたら大変でしょう」
「ん〜。心配がずっと消えないのは、大変かも?」
「じゃあもう、やめてしまいなさい。不毛よ」
「へへ、そうですね!」
本当に私の願っていることが伝わっているんだろうか。笑顔の真意は分からない。
私は鯰尾藤四郎の手にある上掛けに手を伸ばした。すぐに彼はそれを、袖を通しやすいように広げてくれた。
「寒かったんですね、すみません」
そういうわけでは無い。ずっと彼に持たせておくのが急に忍びなくなったのだ。
「鯰尾。好きな物を食べて」
「はいっ! 食べましょう好きな物! 主さんは何食べたいですか?」
鯰尾が、鯰尾の好きなものを食べて。そう言ったつもりだった。だけど伝わっていない。
人混みのためか手を離さない鯰尾藤四郎の、揺れる後ろ髪を見つめる。私は、困惑していた。やっぱりさっきの「やめてしまいなさい」の願いも、伝わっていないのだろうと思うと、途方に暮れた。
きょろきょろと見回し、たくさんの屋台の中から結局、鯰尾藤四郎は鮎の塩焼きを買った。
もっと好きなだけを買えば良いのにと思い、「いかのげそは?」「焼きとうもろこしがあるけど」「かるめ焼きとか、べっこう飴とか甘い物なんかは?」と話しかけ続けた。終いには彼の趣味では無いだろうなと思いながら「……七味唐辛子でも買う?」なんて聞いたりもした。
けれど鯰尾藤四郎の答えは変わらなかった。もう手は塞がっているのでいいですと、彼は繰り返した。
私は小さなカステラの袋詰めを買った。歩きながらでははしたないと思うが、温かいうちに食べたかった。けれど、私も歩いてる間は両手が塞がっていた。片方にカステラを持って、片方に鯰尾藤四郎がいて、人混みを抜けるまで手を伸ばすことは出来なかった。
ようやく二人で腰掛ける場を見付けて、互いに片手ずつ持った戦果を口にした。
「それ、美味しいですか?」
「懐かしい味がする。私を子供扱いする味」
鯰尾の口に放り込んであげると、鯰尾も頷いた。
「うん。主さんの言う通り。子供扱いしてくる味だ」
熱で脹れた、卵と糖の味。焼き目の香り。どこかで「この味だろ?」と知った顔をしている。嫌いでは無いけれど、好きの端っこに位置する程度の味。
「こういうの久しぶり」
「俺もです」
「もっと食べて」
袋のカステラを彼に押しつける。言うほどお腹は空いていなかった。それに、鯰尾にあと少しだけでも、この場を楽しんで欲しかった。私が随分心配をかけてしまったから、彼に行動を起こさせたのだ。
あの本丸で、彼が燻らせていた想いに報いたい。そう思い、私は横に座る鯰尾藤四郎へ顔を向けた。
「来て良かった。ありがとう、鯰尾」
カステラを噛んでいた鯰尾藤四郎は、苦しそうに飲み込んだ。
「あーあ……。歯がゆい、な」
「何が?」
「俺、主さんのこと、ずっと心配してました。でも今日、それを止めたんです。心配するだけなのを止めて、行動してみたんです。ちょっと強引だったかも。でも俺も、やってよかったなって思ってます! 本丸を抜け出して、主さんの顔は少し明るくなりましたし。だけど……」
鯰尾藤四郎、お得意の空元気はどこへ行ってしまったの。そう言いたくなるくらい彼は顔を曇らせて、困り果てたという風に肩を落としている。
「俺は主さんにちょっとだけでも戦いのことを忘れて欲しいのに、全然本丸のこと忘れてくれませんね」
「………」
「俺が側にいる限り、主さんは審神者なんですね」
「そんなの……」
当たり前じゃない、と言いかけると鯰尾も分かっているという顔をした。
彼が息抜きに連れ出してくれたことは分かっている。けれど自分の役割を忘れたわけでは無い。
鯰尾藤四郎という付喪神は、外敵からは私を守ってくれるだろう。けれど彼という存在を現世に立たせ、支えているのは、私だ。彼に危険な行動をとらせるとしたら、その体を与えているのも私なのだ。そのことを一時だって忘れられるわけが無い。
「本丸を抜け出しても、私自身からは抜け出せない。それは鯰尾も一緒だけど、嫌なの?」
「自分の限界を、俺は見たくないです……」
鯰尾藤四郎は気まずそうに笑う。けれど、私は気分が良かった。
聞き分けが良くて、引っかかりが掴めなさすぎた彼のしっぽを見付けた気分なのだ。意外に不安げに揺れているそれに、今私は指を絡めたくなっていた。
「鯰尾」
「はい……」
「じゃあ私たち、本丸を抜け出した時は、友達になりましょう」
「………」
「私は私自身から抜け出せないし、鯰尾も鯰尾藤四郎以外にはなれない。けれど、私たちを結ぶものは変えることができるから」
私は審神者なる人間で、鯰尾藤四郎は付喪神。どこまで行ってもそれはそのまま。
けれど私が主であることはいつか崩れるし、彼が刀剣男士として私に仕えることも永遠では無い。
「お友達、ですか?」
「そうよ。今日よりもっと気楽に出来たらいいわね」
「主さん……」
鯰尾藤四郎が浮かべたのは単純な喜びとは言えなかった。悪くは思っていないようだけれど、むず痒そうに唇をもごつかせている。
「じゃあ今も俺たち、友達ってことですか……」
「そうよ」
「んー……、あー……、……わ、っかりました……」
「だめならいいのよ」
「いや! やりましょう、友達! 友達なら呼んで良いですよね、名前!」
「友達だもの」
「っさん!」
なんて私達は初々しいというか、まどろっこしいことをしているのだろう。返って、友達と呼ぶには不自然だ。
お腹の底からぽつぽつと湧き上がってしまう笑いをこらえながら、応えた。
「なあに、鯰尾」
二礼、二拍手、一礼。けれど私の手を合わせる時間は、すぐ横を流れて行く参拝客より微かに長い。
目を閉じてこの社の主へ唱える。
自分が審神者であること。想いを持つ付喪神たちが人間の体を得る、その手助けをしていること。今日も、私に連れ添う形で一振りの刀が貴方の領域に入ること。
鯰尾藤四郎は付喪神ではありますが、私の良き友人です。ですからどうか束の間の滞在を許してお欲し下さいと、それを何卒と願って、目を開けた。
最後の一礼を丁寧に済ませ振り返る。
「お待たせ」
少し後ろには、先に参拝を終えた鯰尾藤四郎が、私を見守るように立っている。
「さっ、一番日当たりの良いところ探してお弁当食べましょう!」
「今日はお祭りなんて無いものね」
「良いじゃないですか静かで。落ち着きますよ」
「そうねぇ……」
本丸を抜け出した今日、私達はどうにか友達になれている、と思う。とりあえず前回ここに二人で訪れた頃よりはぽんぽんと飛ぶように言葉をかけあえるようになった。
ただ、鯰尾がとってくる態度を見ていると少し自信を無くす。
鯰尾は自然な流れで私の手を取った。彼は、石階段の数段を降りるのにも、片手を繋いで私を支えようとする。別に落ちやしないし、このくらいの段数足を滑らせたって、お尻がちょっと痛いくらいで済むだろう。けれど鯰尾藤四郎は当然のことのように私を気遣った。私達は友達では無かったのだろうか。
附に落ちない行動に考えてしまう。もしかしたら、鯰尾藤四郎は女性には誰でもこれをやるのだろうか? 主じゃなくても、友達じゃなくても、女性や自分より弱い存在だと思ったらこうしてさりげないことからも守ろうと手を差し出すのだろうか。
この手は、特別ではない。だとしたらなんだか面白くない。でもその感情こそが"友達"では無いなと思い、私は考えを振り切った。
私は鯰尾藤四郎の緩く握る手を見ているが、彼は今日も、明るい方へ眼差しを向けている。